第6話
6.
翌朝、洗面台で鏡を睨んでいると、家臣の老婆に声をかけられた。
話の内容は、
父が昔使っていた離れを私の部屋として利用していい。
というもの。
「どうして急に?」
しかも何故、本人が言いに来ないのか。
「私にもわかりませんが、今朝、当主様がそうしろと仰いまして」
「それを私に言いに行けって?」
「はい……」
「……意気地なし」
ため息をついて、鏡に映る自分の顔を見つめた。
一見冷たそうな漆黒の瞳。
どんなに口角を上げても微笑んでいるとしか思われない唇。
口元を緩めると僅かに、笑顔のような表情になった。
「ねぇ、私の今の顔、どう思う?」
笑みらしきものを浮かべたまま振り返ると、家臣の人は笑顔で両手を合わせた。
「当主様そっくりの綺麗なお顔です」
「…………」
綺麗かどうかはいいとして、当主様そっくりって。
「ありがと」
呟いた言葉は、家臣の人に聴こえていなかったらしい。
「今なにか仰いましたか?」と追いかけてくる家臣に背を向けて、表情を読まれないようにして足早に洗面所を出る。
こんな表情見られたくない、恥ずかしい。
父そっくりと言われて、嬉しいなんて。
そんなこと絶対に、誰にも知られたくない。
*
居間に入ると脇目も振らず、自分の席に腰を下ろした。
珈琲の匂い。
視線を落として書類を見つめる父の姿。
「おはようございます、父様」
声をかけると、びくっとその肩が跳ねた。
顔を背け、「おはよ、いつき」とぼそぼそ声を出す。
何を恥ずかしがっているのだろう、涙はお互い様なのに。
そんなことは言えず、懐に隠していた物をテーブルの上に置いた。
えんじ色の包装紙で包まれたお酒、私の誕生日プレゼント。
「まだ受け取れないって昨日、言いましたよね?」
長テーブルの上を滑らせて円筒を投げると「壊れるからっ!」と父が慌ててキャッチした。
「離れを私にって、どういう意図ですか? あの部屋は以前、父様とお母さんが二人で暮らしていたんですよね? 私が成人したらまた、一緒にあそこで暮らそうって約束していたんですよね?」
矢継ぎ早の質問に、父は何から答えようかと思慮しているみたいだった。
やがてため息のようなものを吐き、書類を置いて私に向き直る。
「プレゼントの件は、正直……俺一人で抱えきれなかった」
弱々しい声を発する父を正面から見るのは初めてだった。
ぱちっと目が合うと、父が慌てて顔を背ける。
「人と話をするときは、目を見るんですよ?」
「あ、うん……」
恐る恐る、と言った風に目線を戻す父。
これではどちらが子どもかわからない。
普段、父を崇拝している家臣の人たちも、惚け顔で私たち二人を見守っていた。
「だから、開封は五年後だけど預かるだけ。いつきが持ってて欲しい」
「わかりました」
「で、部屋の件だけど……思い出を増やしたいと思って」
「思い出を増やす?」
「約束してたけど、もう一緒には、あいつとあの部屋に帰ることはできない。だから、それなら、いつきの思い出もそこに入れたいと思って」
「……仰っていることの意味を、理解しかねます」
「えっと、だから、五年後に俺はあの部屋に帰るから。その時に寂しくないように、いつきもこの部屋にいた、俺は一人じゃない、いつきとの思い出もあるって、そう思えるように」
「……父様も同じ部屋で暮らすんですか?」
「俺は五年後。だからそれまでは、いつきがあの部屋を使っていいよ。壁に落書きするのもアリだから。むしろそうやって、いつきが居たって痕跡を残して欲しい」
「…………え?」
思わず声が漏れてしまった。
首を傾げる私の正面で、父が恥ずかしそうに顔を隠す。
母との約束は守るつもりだ、例え一人になっても。
だけどやはり一人ぼっちは寂しいから、私が居たという思い出を追加しておきたい。
「ん……え?」
ちょっと、意味がわからないけれど……
照れ臭そうに顔を背ける父を見て、なるほど、可愛いと思った。
母はそんな父を、好きになったのだ。
「……私の好きなようにしていいんですか?」
じっと見つめたまま問いかけると、父がふっと小さく笑った。
「いいよ。成人するまで、いつきの部屋だから」
「わかりました。壁紙を黒くしてそこに血糊を貼りつけておきます」
「……ん? え?」
「勉強机には包丁のレプリカを突き刺して、ゾンビの人形と蝙蝠は手作りします。天井も好きにしていいんですよね? お化け提灯垂らして、蝙蝠の丸焼きもぶら下げるのはどうでしょう?」
「いや、えっ……ちょっと待って、いつき……えっ?」
「父様は知らないと思いますが私、ホラーが好きなんです」
「そうなの? えっ、マジで? 知らなかった……でも、手を入れすぎるのも……」
「冗談です」
「冗談⁉」
「部屋の模様は変えません。お母さんとの思い出があると聞いたので」
「あ、うん……ありがとう」
「私がホラー好きだと、そう思いましたか?」
私の質問に、父は息を飲んだ。
軽く視線を外したあと、またそれは私のところへ返ってくる。
「いつきはホラーより、ファンシーが好きだと思ってた」
「ファンシー?」
「自由画帳に描いてたペガサス、可愛かったから」
「…………」
途端、顔に血が上るのを感じた。
どうして?
自由画帳は、母にしか見せたことないのに。
「み、見たんですか? 私の、自由画帳……いつ?」
「え? いつきが寝てる時に、お母さんが……もしかしてこれ、言わないほうがよかった?」
困惑する父と、真っ赤になって下を向く私。
お母さん!
心の中で怒ったが、きっと、母は笑っているに違いない。
だってお父さんにも見せてあげたかったんだもん。
そう言って笑って。
そうしたらきっと、父が「やめろよ」と呆れたようなため息を吐くのだろう。
『ごめんね』
『謝るならやるなって。いつき、今聞いたこと忘れていいからな』
『えー、それはもったいないよ。いつきの絵ね、お父さんも褒めてたよ』
『だから言うなって……』
脳内で勝手に、両親の会話が再生された。
「残します」
ぎゅっと手を握り、唇を噛んで顔を上げる。
不思議そうに首を傾げる父と目があって。
同じ表情をしようと、私は口角を上げた。
「思い出を、残しておきます。だから父様、五年後、一緒に、私の誕生日をお祝いしてください」
ちゃんと笑えていたかはわからない。
「楽しみにしとく。よろしく、いつき」
だけど父が微笑んだので、大丈夫だと思った。
私たち親子はきっと今、同じ表情をしている。
誰か鏡を持ってきて、私の顔を見てもいいよ。
目の前にいる人と、どれだけ似ているか比較してくれていい。
一見冷たそうな漆黒の瞳。
どんなに口角を上げても微笑んでいるとしか思われない唇。
父そっくりなこの顔を、もう、嫌だなんて言わない。
目の前で微笑む、
私にそっくりなこの人は私のお父さん。
この世で一番大好きな私の家族です。
五年後、宝箱をもらう日まで私は。
父と母の思い出に新しい綺麗を積み重ねながら、
生きていく。
宝箱をもらう日 七種夏生 @taderaion
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