第5話

5.



 お風呂から上がった私は、離れと呼ばれる部屋で父と向き合って座っていた。

 父が長を務める総勢七百五十人の名家一族の屋敷。

 本棟から少し離れた場所にその離れと呼ばれる部屋、独立した建物は存在する。


 父と母が以前、私が産まれる前に使っていた場所だ。


「風邪ひいてない?」


 父の言葉に、私は首を横に振る。


「大丈夫です」

「今朝も言ったけど、俺に敬語使わなくていいよ」

「あ、はい……」

「結局敬語になってるし……いつきってさ、産まれた時のこと覚えてる?」


 不思議な質問に、返す言葉も出なかった。

 私の表情に気がついた父が、「ごめん」と言って苦笑いする。


「覚えてるわけないよな。えっと、うん……その時に、お母さんが言ったんだ。『これからしばらく、隣を歩けない』って」

「隣を歩けない?」

「いつき、お母さんってどんな人だった?」

「え? ……えっと、優しくて可愛くて、でも怒るとちょっと怖くて……」

「はっきり物言うからな、あいつ」

「でも優しかった。いつも手を繋いでくれて、目の色が綺麗だった」

「……俺の目は?」

「あ、えっと」


 思い出せなくてチラッと窺うと、目線がぶつかって慌てて顔を背ける。

 父が、ふっと小さく笑う。


「わからないと思うよ。いつきは、お母さんの目の色しかわからないと思う」


 それは、私が他人に興味がないからとか、そういうことだろうか。


「あ、違うよ。いつきが他人を見てないとか、そういうことじゃなくて」


 声が漏れていたわけではないのに、父が反論してくれる。


「人の目の色なんか覚えてないよ、普通の人は」


 くすくすと笑った父の目線が、私の瞳をとらえた。

 綺麗な黒で塗りつぶされた瞳の色、猫のような鋭い目つき。

 毎朝、鏡で見るのと同じ目の色、漆黒の瞳。


「お母さんはいつも、いつきの目線に合わせてしゃがみ込んでたから。歩幅を合わせて、繋ぐ手の位置を変えて。いつきが産まれてからはずっと、俺の後ろにいた」


 思い返せば、母はいつも隣にいた。


 目の高さを合わせてくれていた、と言われてもよくわからないけれど、近くにいてくれたことはわかる。

 誰よりも側にいて、顔がよく見えて。

 私はいつも母の顔と、父の背中を見ていた。

 常に向けられる母の笑顔と、時折振り返る父の微笑み。

 母はいつも私の隣にいて、父は……


「私はいつきの隣にいなきゃだから、一歩後ろを歩くから。しばらく隣には並べない、ごめんねって。いつきが産まれた日に、そう言ってた」


 父はいつも、私たちの前を歩いていた。


「だから、守らなきゃって思ったんだ。しばらくは俺が二人の前に立って、一歩先を歩いて守るんだって。正直ちょっと、嫉妬したけど」


 ちらっと、父が私を見た。

 居た堪れないと思ったがすぐに思い直した。

 父を見返すと、その顔がふっとまた、小さく笑う。


「俺の隣にいたあいつは、強くてかっこいい女だった。俺が寡黙だから余計に、何かあればあいつが矢面に立って戦ってた」

「私としては、そっちの方が想像し難い、です」

「……あと五年」

「え?」

「あと五年待ってれば、かっこいいお母さんが見れたんだけどな」


 父の視線が私から、部屋の隅にある勉強机に変わった。

 膝を抱えて、ぽそっと呟く。


「上から二段目の引き出し、開けてみて」

「え?」

「勉強机の、上から二段目の引き出し」


 わけがわからないまま、立ち上がって引き出しを開けてみた。

 ビニールシートの下に、楕円形の筒が一本置かれていた。

 えんじ色の包装紙の上に、[いつき]の印字。


「いつきさ、十歳の誕生日に炭酸のジュースあげたの覚えてる?」

「え? はい。二分の一成人式だから、解禁だよって」

「それ、二十歳の時に解禁する予定だったやつ」

「……お酒?」


 円筒を持ち上げると、ちゃぷっと液体の揺れ動く音がした。


「いつきの、二十歳の誕生日に」


 成人になったら解禁しよう。


 三人で一緒に、お酒を飲もうと思ってたんだ、と父が言った。


「その時に帰ってくる予定だったんだ、かっこいいお母さんが」


 振り返ると、父は膝を立ててそこに顔を埋めていた。

 声が震えていた。

 表情を読み取られないように、俯いているのだろう。


「帰ってくる?」


 私の言葉を聞いて、父は顔を上げた。

 隠していても、誤魔化そうとしてもわかる。


 どうして泣いてるの?


 なんて、愚問は口にしない。

 きっとこの後すぐ、私も同じ顔をするだろうから。


「いつきが二十歳になったら、成人して親離れしたらまた、隣に立って戦うから、って」


 父が語るその言葉が、次の台詞は母の声で聞こえた。


『だから二十年待ってて。私は必ず、また、あなたの隣に立つ。しばらくはいつきと一緒に後ろに、お父さんの背中を見つめるけど。絶対にまた、帰ってくるから』


「その時にお祝いしよう。いつきのお酒解禁とそして、夫婦の歩みを。いつきの誕生日のついでに一緒に、お祝いしようって」


 再び、父が膝に顔を埋めた。

 何故だろう、その仕草が歪んで見える。

 いや、滲んで? 前がうまく見えない。

 頬を、温かい感触が伝った。

 ポタッと、えんじ色の包装紙に雫が落ちて、慌てて涙を拭う。


「なみだ?」


 その時になって気がついた。

 目の前で涙を流す父と、私は同じ表情をしていた。



『いつきにね、プレゼントがあるの。きっと喜ぶから、楽しみに……』



「待ってたよ……ずっと、楽しみに、いい子にして待ってたよ……お母さん」


 プレゼントを汚しちゃいけないと、机の上にそれを置いて、服の裾で顔を拭いた。

 だけど溢れ出る涙は止まらなくて、タオルを探すつもりで振り返ると父の姿が見えた。

 膝に顔を埋めて、肩を震わせる父の姿を私は、見たことがある。


 母と一緒にいた時の人だ。


 母に怒られてる時、失敗をして母に慰められている時、私を叱りすぎて母に宥められている時。

 背中じゃない。

 私の前では見せようとしなかった、必死に取り繕って隠していた、母が隣に立っていた頃の父だ。


「本当にもう、いないんだな」


 父が呟いた。

 小さくて、か細くて消えそうな声で。


「いくら待っててももう、帰って来ないんだな。死んだんだな、あいつ」


 なにか言葉を返そうとして、声が出ないことに気がついた。


 私はなにも、言えない。


 だってわかってた。


 当たり前じゃないか、母はもういない。

 あの日、あの時、体温がなくなった母の手を握った。

 人間じゃないと思った、硬くて冷たくて。


 母だった人はもう、この世にはいないんだと。


 私はちゃんとわかっていた。


 あの時、父は、何をしていたっけ?


「……っ」


 漏れた声は、どちらのものだったかわからない。

 気がつくと、私は父を抱きしめていた。

 体格差的に包み込むなんてことは出来ないので、首に腕を回すだけだけれど。


「あと五年……五年頑張って」


 私の言葉に、父が顔を上げた。

 真っ赤に腫れた瞳、私と同じ色の。


「五年経ったら私が、父様の隣に並ぶ。肩を並べれるくらい立派な大人になるから、それまで……それまではずっと、私の父でいてください」


 母とした約束を、今度は私と。


「お母さんはもういないけど。お母さんとの約束はもう、守れないけど。今度は私が……私が父様との約束を守る。約束はまだ続いてるから。だから、お別れをしましょう、ちゃんと」


 私の言葉が予想外だったみたいで、父が、ぎゅっと私の手を握りしめた。

 震えている手のひらが、重なり合う。


「お母さんはもういないから。二人で、頑張らなきゃいけないから……サヨナラってちゃんと、泣いてください。私はここにいるから。涙が枯れるまでずっと、父様の側にいるから」


 ボロボロと、私の涙が父の首筋に当たる。

 声を噛み殺していた父だが、次の瞬間、堰を切ったように泣き出した。

 手のひらで顔を覆うが、指の隙間から漏れた声は部屋全体を震わせた。

 父は何度も母の名前を繰り返し、そして泣き叫んだ。

 声以上に身体を震わせて、感情全体を外に押し出す。

 だから私はそっと、父の背中に手を当てた。


 大丈夫、大丈夫、と。


 大きな背中から伝わる熱い温度は初めて感じるもので。


「お母さん……お母さん」


 だからつられて私も泣いて、母の名前を呼んだ。


 親子二人して大泣きする姿は、天にいる母にはどう映ったろう?


 情けないって呆れるかな?


 いや、違う。


 きっと、笑っているに違いない。



『いつきとお父さんは本当、そっくりだね』ってきっと、笑っていたと思う。



「五年後に、私の成人の日に……お酒解禁しよう」



 私の言葉に、父がまた声を上げて泣いた。


 どっちが子どもかわからなくて、その仕草が可愛くて。



「二人でお祝いしようね、お父さん」



 無意識に読んでしまった称呼に、父が笑みを浮かべた。

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