第4話
4.
暁斗を送ったあと、屋敷へと続く森の中の一本道を歩いていた。
私の家、一族が暮らす集合住宅的な屋敷は郊外の森の中にある。
四方を密林で囲まれた広い名家の屋敷、そこへたどり着くには森をかき分けて作った一本道を通るしかない。自動車は通れない、人がすれ違うにも肩がぶつかりそうな細い道。
森の一本道に入ってから屋敷まで十五分はかかる。
それを半分まで行ったときだった。
突風が吹き、傘を手放してしまった。
ひゅうーっと音を立てて風が通り過ぎた後に、ザァァと雨の音が鼓膜を刺激した。
思っていたより雨が降っていたようだ。
横殴りになる雨が、顔に当たる水滴が痛い。
「晴れって言ったんでしょ……天気予報……嘘つき、うそつき」
目頭が熱くて、頬を伝っているものが雨ではないことに気がついた。
そしてふと、暁斗の言葉が蘇った。
『家族で、二人で頑張れ』
うちは三人家族なのに。
母がいて、三人だったのに。
二人じゃない、三人で……
これからもずっと、そばにいてくれると思っていたのに。
『家族っていうのは、ずっと側にいるものだから』
母が言った。
だからお母さんはずっと、いつきの味方だよと。
「嘘つき嘘つき、うそつき!」
誰が?
お母さんが?
天気予報のお姉さんが?
違う。
『じゃあずっと一緒だね』
そう返事したあのときの自分?
全部違う。
『だからずっと、家族でいようね』
あれは誰の言葉だっけ?
どうして私は今、一人なの?
乱れる息を整え、顔を上げると森の向こうに傘らしき白い物が見えた。
ごめんなさい……ごめんなさい。
傘を汚してしまったことへの謝罪か、それともあのときの母への言葉か。
頭の中で「ごめんなさい」を繰り返し、腰を上げて森の中へと歩み進んだ。
舗装された道を外れて草木が生い茂る道へ足を踏み入れる。
五歩進んだところで傘を拾い上げ、安堵して振り返る。
「…………え?」
そこで自分の目を疑った。
道がなくなっている……というより、見渡す限り三百六十度、背の高い木々に囲まれている。
幼い頃からよく、両親に忠告されていた。
『一本道を外れるな』と。
森には仕掛けが施してあり、当主である父しかそれは解けない。だから、道を一歩でも外れたら帰って来れない。
永久に森の中に閉じ込めれることになるぞ、と。
「うそ……嘘でしよ?」
恐る恐る五歩、来た通りに引き返すが道はなかった。
見渡す限り全てが木々、森の中。
『ちなみに、森にはクマがいるからな』
ぼそっと父が呟いた冗談。
冗談だと思っていた、今の今まで……目の前に、黒い陰を認めるまでは。
『クマ? 嘘でしょ?』と首を傾げる母に、父は大真面目な顔をして答えていた。
『田舎の山から二頭ほど捕まえてきた。一匹は真っ黒で、もう一匹は顎の下の毛がちょっと白い』
「あの話聞いたとき、パンダみたいなの想像してたぁ」
眼前に迫る、顎の下に白い毛を持つ巨大なクマを見つめながら、尻餅をついてしまった。
「父様が、嘘つくはずない」
よく考えればそうだった。
父が冗談の類を、私に対して嘘をついたことは一度もない。
雨の音よりも大きな、唸るような獣の鳴き声。
ドシンと、まるで漫画のような足音。腰が抜けて後ずさることさえできなかった。
「たす……助けて」
辛うじて声だけは出た。
だけど、だからといってどうなるだろう?
助けを呼ぶ?
こんな場所で?
忠告をきかなかった、約束を破ったのは私なのに?
悪いのは私なのに。
だけど……
だけど!
『家族がいる限り人は絶対、一人ぼっちにはならないんだよ』
母が言った。
『だからいつきは一人じゃないよ。だって、もし、お母さんがいなくなっても、いつきには――』
もう一人、家族がいる。
その人の顔を思い浮かべた。
先日の優しい表情。
愛おしそうに、大事なものを見つめる視線。
唯一の、家族の。
「助けて、父様……お父さん!」
声を張り上げるが、クマは容赦なく飛びかかってくる。
鋭い爪と牙。
耳を塞いで目を瞑り、痛みを覚悟した。
次の瞬間、雷が鳴った。
「…………父様」
目を開いてすぐに見えたのは、地面に横たわる熊とその傍らに立つ父の姿。
「危な……もう少しずれてたら当たってた」
ピク、ピクッと痙攣するような動きを見せるクマの胴体。
まだ息はあるようで、静かになってからも胸だけは上下していた。
「死んではないな……任せていいか?」
父の視線を追うと、もう一頭クマがいた。
全身真っ黒な毛並みのクマはじっと父を見つめ、微動だにしなかった。
「悪いな、頼む」
返事されたわけではないのに父はそう告げ、苦笑いを浮かべた。
どういうこと?
クマと会話できるの?
不思議なことは多々あるが、深く考える間もなく、父が私の方へと振り返った。
「おかえり」
すっと、私の頭上に白い傘が広がった。
地面に腰を落としたまま呆然と見上げる私に、父が同じ言葉を繰り返す。
「おかえり、いつき」
差し出される手のひらを握り返すと、温もりが身体を伝った。
涙が溢れて泣き出す私を、父がぎゅっと抱き締める。
「お父さんって、久しぶりに聞いた……あの日からいつき、仮面被ってたから」
良家のお嬢様の、泣かない仮面。と、父が笑った。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……うん、それは、違うんじゃないかな?」
ぎゅーっと、顔を胸に押しつけられる。
大事なものを抱きしめるように、二度と離さないと誓うように。
「ごめん、じゃないと思うんだ。こういう時は……ありがとうって言えばいいんじゃないか、な?」
困ったように笑いながら囁く父の言葉。
もう一度ごめんなさいを言おうとして、私は口を噤んで父の身体を抱き返した。
「ただいま……ただいま、父様!」
「……元に戻ってる。それはそれで、可愛いけど」
あははっと笑う父の頬を、水が滴った。
同じ傘の下だ、互いの頬にあるものが雨じゃないことはわかっていた。
二人分の身体が入る大きな傘。
寒さや痛みはもう、感じなかった。
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