第3話

3.



 神様がいるのなら、願いを叶えて欲しい。


 一つだけ、どうしても望んでるものがあるんです。



 お母さんが、死んだ日の朝に戻してください。





 その日、初めての家出をした。


 父と口論になった原因は覚えていない。

 ほんの些細な、本当にくだらないことだったと思う。

 頭に血が上った私は感情に任せて家を飛び出した。


 それが朝。



 そして昼過ぎ。


 お腹が空いたというくだらない理由で家に戻った。


「いつき! よかった、帰って来たのね!」


 庭先にいた母が、飛びつくように私を抱きしめた。

 雨が降っているにも関わらず私も母も傘を差していなくて、家臣の人が慌てて私たちに大きめの傘をかぶせた。


「心配した、心配した……」


 震えている母の身体が、寒さのせいだけじゃないことはわかっていた。

 その時はまだ、確かに、温もりがあった。


「……お父さんは?」


 だけど素直になれず、無表情のまま淡々と尋ねると、母は私を抱きしめたまま「探してる」と言った。


「いつきを探しに行ってる。よかった……本当によかった。おかえり、いつき」

「え?」

「帰ってきてくれてよかった、おかえり」


 ぎゅぅーっと私を握りしめる母のか細い腕。

 華奢な身体を抱き返そうとしたその時、


「いつき!」


 背後に、父の声が聞こえた。

 怒られる……そう思った私は母を突き飛ばし、屋敷の中へと逃げ込んだ。

 父や母、家臣の人たち、たくさんの人が私を追って名前を呼んでくる。

 全て無視して、自分の部屋に駆け込んだ。

 机の上にあったランドセルが目について、それを乱暴に肩に担ぐ。


「待て、いつき! どこ……学校行く、のか?」


 庭に飛び出ると、怒鳴り気味だった父の声が呆けたものに変わった。


「え、今日って平日?」

「平日だけど……待って、いつき! 今日は行かなくても……」

「皆勤賞狙ってるから!」


 適当な嘘を吐き、全力疾走のまま屋敷の門をくぐり抜けた。

 嘘は見抜かれていたと思う。

 皆勤賞なんて狙えない。

 学校は嫌いだ、先週だって半分は休んだ。


「い、いってらっしゃい、いつき!」


 それでも、母は優しい声で私を送り出してくれた。


「待ってるからね。今晩はいつきの大好きなものにするから、美味しいご飯作るからねっ!」


 美味しいご飯なんかいらない。


 そう言えばよかった。

 買い物になんて行ってくれなくてよかった。

 家臣の人に任せておけばよかったのに。

 家に居てくれたら、待っていてくれるだけで。


 それだけで。




 なぜ母がその日、家にいたのか。

 なぜ体調の悪い母を、買い物にいかせたのか。

 なぜ誰もついていかなかったのか。



『いつきの大好きなものはお母さんが作る。買い物から全部、お母さんが一人でやるからね』



 なぜ。


 聞かなくてもその答えは全てわかった。

 私のために母は、体調を崩していたにも関わらず無理して買い物にいって、父や家臣の人たちも母の意を尊重して一人で送り出した。

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