第2話
2.
朝目覚めるとやはり、世界は元に戻っていた。
昨日と同じ今日。
父と向かい合って黙々と朝食を片付け、「いってきます」と居間を出た。
「いってらっしゃい、いつき」
背後から父の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
そんなことをしなくてもわかる。
どうせ目は合わない。
俯いて、書類を読んでいるに決まっている。
足早に廊下を抜けて玄関の扉を開けた時、雨が降っていることに気がついた。
傘をと思って踵を返した時、
「あのさ、いつき」
真っ白な傘が、頭上に広がった。
「俺に敬語、使わなくていいよ?」
父が、私に傘を差し出していた。
立ち竦んでいると、父は半ば無理やりに私に傘を押しつけてきた。
「気をつけて」
それだけ言うと、父は踵を返して廊下を戻って行った。
足音もなく、淡々と。
ぼんやりとその背中を見つめていたが、はっと我に返って傘の柄を握りしめる。
「ありがとう、ございます」
声は届いていない。
ぎゅっと傘を握りしめ、逃げるように家を出た。
*
天気予報は『晴れ』と予言していたらしい。
放課後、同じ制服を来た中学生たちがキャーキャー言いながら雨の中に飛び込んでいく。
そんな中、私は白い傘を手に下足場で立ちすくんでいた。
私だけが傘を持っている。
その状況がなんだかおかしくて、傘を差すことが申し訳なかった。
「いつき?」
背後からの声に振り返ると、従弟の暁斗がいた。
誕生日は二日しか違わないのに学年は私より一つ下、暁斗は中学二年生。
その歳にしては背が高い方で、男女問わず人気があることは、本人以外には有名な話である。
「いつきも傘なくて困ってんの? 天気予報外れたな」
苦笑いを浮かべる暁斗の眼前に傘を差し出すと、その表情が阿呆みたいなものに変わった。
「なんで傘持ってんの?」
「朝、雨降ってたから、父様が」
「あぁ……いつきの家、森の中にあるもんな」
「現金百円か、自販機限定の炭酸のジュース」
「金とんのかよ」
ケラケラっと笑った暁斗が、私から傘を奪い取って広げた。
とんっと、中棒を肩に乗せて私に振り返る。
「ジュース、今すぐがいい? それとも今度?」
「一日伸びるごとに利子が一本増えます」
「じゃあ明日、二本だな」
目線だけで促され、私は傘の中に入り込んだ。
これは、明日も一緒に帰る約束を取り付けられたことになるのだろう。
人付き合いが苦手で友人と呼べる存在が皆無な私とは正反対、暁斗が誰からも好かれる人気者なのがよくわかる。
見えないけれどきっと、暁斗の肩は片方だけ濡れているに違いない。
「ジュースってさ、炭酸でいいの?」
不意に暁斗が話を始めた。
私は正面を向いたまま、「なんで?」と返す。
「いつきの家って、炭酸禁止じゃなかったっけ?」
「いつの話してんの? 十歳の誕生日に解禁した」
「十歳の誕生日?」
「二分の一成人式だから、って」
「へぇ……じゃあ二十歳の誕生日にはお酒解禁だな」
「暁斗、私が炭酸飲めるようになったの知らなかったの? 無知すぎない? 頭悪いの?」
「うわぁ、言い方……いつきの毒舌には慣れてるけどさ。それに俺、叔母さんが生きてた頃は叔父さんにすごい牽制されて……」
そこまで言って、暁斗が口を噤んだ。
理由はわかっているけれど敢えて、「どうしたの?」とは聞き返さない。
「なぁ、叔父さん元気?」
なのに、私が遠慮してあげているのに。
馬鹿なんじゃないかと思った。
「元気って?」
「叔母さん、亡くなってさ」
「いつの話してんの?」
「だって叔父さん、まだ立ち直ってないだろ?」
「父様だけじゃないけどね」
「……お父さんって呼ぶのやめたんだな」
「だから、いつの話してんの?」
睨み付けると、暁斗は申し訳なさそうに黙り込んだ。
それ以降無言で歩き、いよいよお別れという時になって、暁斗が私の名前を呼んだ。
「いつき、さぁ」
弱々しい声に、私は仕方なく振り返る。
「叔父さんとちゃんと話しろよ、今さらだけど」
暁斗の家の玄関の前。
私は傘を差したまま、暁斗を見上げた。
「聞こえない。寒いから、さっさと家の中入って」
酷く不機嫌な声になってしまった自覚はある。
だけど仕方ないでしょ、なんでこんな……
「叔父さんはちゃんと、いつきを好きだよ?」
「なに言ってんの。意味わかんないんだけど、ほんと」
「叔母さんのこと好き過ぎて変になってたけど。そろそろ、二人でやっていくべきだと思う」
「……余計なお世話にも程がある、馬鹿」
「あ、待って。だから、叔父さんはいつきのこと、ちゃんと大好きだよ」
最後まで聞いてられなかった。
踵を返して歩き出す私に、暁斗が声を張り上げる。
「ありがとな、いつき!」
傘のお礼だろうか。
それなら明日、ジュースを奢ってくれればいい。
お礼の言葉なんかいらない。
駆け出す私の背中に再度、暁斗の声がぶつかった。
「ちゃんと家族で、二人で頑張れよ!」
変なことを言わないでほしい。
うちは三人家族だ。
父と私と、母の……三人家族だった。
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