第2話

2.



 朝目覚めるとやはり、世界は元に戻っていた。


 昨日と同じ今日。


 父と向かい合って黙々と朝食を片付け、「いってきます」と居間を出た。


「いってらっしゃい、いつき」


 背後から父の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。

 そんなことをしなくてもわかる。

 どうせ目は合わない。

 俯いて、書類を読んでいるに決まっている。


 足早に廊下を抜けて玄関の扉を開けた時、雨が降っていることに気がついた。

 傘をと思って踵を返した時、


「あのさ、いつき」


 真っ白な傘が、頭上に広がった。


「俺に敬語、使わなくていいよ?」


 父が、私に傘を差し出していた。

 立ち竦んでいると、父は半ば無理やりに私に傘を押しつけてきた。


「気をつけて」


 それだけ言うと、父は踵を返して廊下を戻って行った。


 足音もなく、淡々と。


 ぼんやりとその背中を見つめていたが、はっと我に返って傘の柄を握りしめる。


「ありがとう、ございます」


 声は届いていない。

 ぎゅっと傘を握りしめ、逃げるように家を出た。





 天気予報は『晴れ』と予言していたらしい。

 放課後、同じ制服を来た中学生たちがキャーキャー言いながら雨の中に飛び込んでいく。

 そんな中、私は白い傘を手に下足場で立ちすくんでいた。

 私だけが傘を持っている。

 その状況がなんだかおかしくて、傘を差すことが申し訳なかった。


「いつき?」


 背後からの声に振り返ると、従弟の暁斗がいた。

 誕生日は二日しか違わないのに学年は私より一つ下、暁斗は中学二年生。

 その歳にしては背が高い方で、男女問わず人気があることは、本人以外には有名な話である。


「いつきも傘なくて困ってんの? 天気予報外れたな」


 苦笑いを浮かべる暁斗の眼前に傘を差し出すと、その表情が阿呆みたいなものに変わった。


「なんで傘持ってんの?」

「朝、雨降ってたから、父様が」

「あぁ……いつきの家、森の中にあるもんな」

「現金百円か、自販機限定の炭酸のジュース」

「金とんのかよ」


 ケラケラっと笑った暁斗が、私から傘を奪い取って広げた。

 とんっと、中棒を肩に乗せて私に振り返る。


「ジュース、今すぐがいい? それとも今度?」

「一日伸びるごとに利子が一本増えます」

「じゃあ明日、二本だな」


 目線だけで促され、私は傘の中に入り込んだ。


 これは、明日も一緒に帰る約束を取り付けられたことになるのだろう。


 人付き合いが苦手で友人と呼べる存在が皆無な私とは正反対、暁斗が誰からも好かれる人気者なのがよくわかる。

 見えないけれどきっと、暁斗の肩は片方だけ濡れているに違いない。


「ジュースってさ、炭酸でいいの?」


 不意に暁斗が話を始めた。

 私は正面を向いたまま、「なんで?」と返す。


「いつきの家って、炭酸禁止じゃなかったっけ?」

「いつの話してんの? 十歳の誕生日に解禁した」

「十歳の誕生日?」

「二分の一成人式だから、って」

「へぇ……じゃあ二十歳の誕生日にはお酒解禁だな」

「暁斗、私が炭酸飲めるようになったの知らなかったの? 無知すぎない? 頭悪いの?」

「うわぁ、言い方……いつきの毒舌には慣れてるけどさ。それに俺、叔母さんが生きてた頃は叔父さんにすごい牽制されて……」


 そこまで言って、暁斗が口を噤んだ。

 理由はわかっているけれど敢えて、「どうしたの?」とは聞き返さない。


「なぁ、叔父さん元気?」


 なのに、私が遠慮してあげているのに。

 馬鹿なんじゃないかと思った。


「元気って?」

「叔母さん、亡くなってさ」

「いつの話してんの?」

「だって叔父さん、まだ立ち直ってないだろ?」

「父様だけじゃないけどね」

「……お父さんって呼ぶのやめたんだな」

「だから、いつの話してんの?」


 睨み付けると、暁斗は申し訳なさそうに黙り込んだ。



 それ以降無言で歩き、いよいよお別れという時になって、暁斗が私の名前を呼んだ。


「いつき、さぁ」


 弱々しい声に、私は仕方なく振り返る。


「叔父さんとちゃんと話しろよ、今さらだけど」


 暁斗の家の玄関の前。

 私は傘を差したまま、暁斗を見上げた。


「聞こえない。寒いから、さっさと家の中入って」


 酷く不機嫌な声になってしまった自覚はある。

 だけど仕方ないでしょ、なんでこんな……


「叔父さんはちゃんと、いつきを好きだよ?」

「なに言ってんの。意味わかんないんだけど、ほんと」

「叔母さんのこと好き過ぎて変になってたけど。そろそろ、二人でやっていくべきだと思う」

「……余計なお世話にも程がある、馬鹿」

「あ、待って。だから、叔父さんはいつきのこと、ちゃんと大好きだよ」


 最後まで聞いてられなかった。

 踵を返して歩き出す私に、暁斗が声を張り上げる。


「ありがとな、いつき!」


 傘のお礼だろうか。

 それなら明日、ジュースを奢ってくれればいい。

 お礼の言葉なんかいらない。

 駆け出す私の背中に再度、暁斗の声がぶつかった。


「ちゃんと家族で、二人で頑張れよ!」


 変なことを言わないでほしい。

 うちは三人家族だ。



 父と私と、母の……三人家族だった。


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