右ストレートをぶっこみたい

伊織千景

右ストレートをぶっこみたい


――記憶にすらとどまらない、そんなある平日の昼下がり。

俺はバルコニーに設置した、お気に入りのラウンジチェアにどっぷりと腰掛ける。椅子の横にある小さな机には、先程豆から淹れたブラックコーヒー。眼前に広がるプライベートビーチには誰もいない。ただ、波が寄せては返す。聞こえるのは波の音だけ。俺は少し体を起こして、机に置いてあるブラックコーヒーをすする。ああ、なんて幸せな時間なんだろうか――


「――とか言っちゃってる洒落乙クソ野郎に右ストレートをぶっこみたい」

「長いよ! 全体的に例えが限定的過ぎる上に長いよ!」

「そうかー」

「そしてうら若き乙女が洒落乙クソ野郎とか言っちゃ駄目だよ!」

「でもユーコもぶっこみたいだろ?」

「何を?」

「この洒落乙クソ野郎に右ストレート」

「黙秘権を行使します」

「……じゃ、こういうのはどうだ?」


――優雅なひとときは、一杯のお茶がもたらすと言う。

私は中庭から差し込む、昼下がりの温かい太陽のぬくもりに、軽いまどろみを覚える。そんなまどろみを追い払うため、私はロイヤルコペンハーゲンのカップに注がれたダージリンティーを一口飲み、改めて手札のカードを見つめた。完成な高級住宅街に住む、選ばれた家柄の女のみが誘われる秘密のお茶会。そこで行われる、秘密のポーカー「テキサスホールデム」に、私達は夢中だった。一般家庭のサラリーマンが月に稼ぐような金額を、私達は一度の「お茶会」で得たり、失ったりする。今日も私は、一枚が一万円に当たるチップをベットして、残りのダージリンティーを飲み干した――


「――みたいな事言っちゃってるファッキン糞マダムに右ストレートをぶっこみたい」

「さっきより長いよ! そして上流階級への偏見と僻みが凄いよ!」

「そうかー」

「そしてうら若き乙女がファッキン糞マダムとかいっちゃ駄目だよ!」

「でもユーコもぶっこみたいだろ?」

「何を?」

「このファッキン糞マダムに右ストレート」

「黙秘権を行使します」

「……じゃ、こう言うのはどうだ?」


――東京で生まれてHIPHOP育ちで、悪そな奴はだいたい友達な俺――


「とか言っちゃう服ダボダボマン達に右ストレートをぶっこみたい」

「シンプル! そして某権利団体に訴えられる!」

「そうかー」

「そして服ダボダボマンってなに?! 適当すぎて突っ込めない!」

「でも的確でしょ?」

「黙秘権を行使します」

「……じゃ、最後はこれにしよう」


――とりあえずだれでもいいから右ストレートをぶっこみたい――


「ただの通り魔じゃん! いいかげんにしろ!」

「でもユーコもぶっこみたいだろ?」」

「何に?」

「この世の不条理に、裁かれない悪に、それらを許すすべてのものに、右ストレートをぶっこみたいだろ?」

「うっ」

透き通るようなその瞳に、真っ直ぐ過ぎるその正論に、私は言葉を失った。間違ってない。確かに間違ってなかった。右ストレートをぶっこみたい。なりふり構わずぶっこみたい。

「でも殴ったら犯罪じゃん?」

「えっ、いまさら常識で話すの!?」

「ユーコは私の事なんだと思ってるんだよー。まあいいや。そんな気持ち、発散させたくない?」

その言葉とともに差し出されたのは、ボクシングジムのチラシだった。


「お父さんが脱サラしてボクシングジム作ったから、入会してよ」


壮大な宣伝だった。

私は思う。

今すぐ目の前のコイツに右ストレートをぶっこみたいと。


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右ストレートをぶっこみたい 伊織千景 @iorichikage

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