第6話 神

「私さ、わかってたんだ」

 街を全体を望む丘に、一本の菩提樹ぼだいじゅがあった。周囲を囲むように赤茶色の煉瓦れんがで固められ、座って休むにはちょうどおあつらえ向きの高さだった。

 牧草地へと向かう山羊やぎが前を通り過ぎ、ちらりと二人を見た。耳が緑色に染められている。印の形で、途中にあった家の山羊だとわかる。数頭の山羊が後を追ってのぼってくるが、人の姿はない。習慣になっている放牧は、飼い主なしでも成り立つ。山羊は、自ら坂をのぼっていき、夕暮れまでには畜舎ちくしゃに戻る。ユト祭のため、集落のほとんどの者が出払っていた。

 山車は家々の屋根にはばまれて見えない。二人のいる場所からは、グプタの先端の赤い傘がその上をゆらゆらと揺れながら街を巡るのがかろうじて見えているだけだった。歓声も時々聞こえてくるが、すぐにこずえを鳴らす風に掻き消された。

「アルパのために行動していたんじゃなかったってこと」

 サチの言葉に「ふーん」と曖昧に返事をした。さっきから、ユーはグプタの様子が気になってしかたがない。

 藁葺わらぶきの屋根の間からひょっこりと顔を出す赤い傘は何度も揺れてば傾き、今にも崩れ落ちそうなのに、ずっとぎりぎりの状態を維持していた。傘も隠れてしまうとついに倒れたのではないかと思うが、少しするとまた姿を現した。

 ——こんなの無理に決まってる。

 街全体を一望できるから、というサチの誘いに、なんとはなしにのってしまったことを、ユーは少し後悔していた。丘から見るよりも、街に立って見た方が安心できる気がした。

「じゃあ、食や医療の支援はあきらめるんですか?」

 サチは静かに首を振ると、梢に向かって腕を伸ばした。指先からかすかに光がれている。ぴたりと閉じた。それでもやはり、隙間からちらちらと光が漏れていた。

「あきらめないよ。あきらめるわけない」

 山車だしは無事に八つ目の角を曲がった。まだ四十一もの曲がり角が残されている。その全ての角を無事に曲がれば、六年ぶりのユト・カターイ、土地の言葉でユト神の実りを意味する豊作の吉兆きっちょうだ。

 さらにもう一つの角を過ぎ、赤い傘がぐらりと揺れた。

「この国にはこういう言葉がある。『虎を創り給うた神を憎むべからず、虎に両翼を授けぬことに感謝せよ』とな」

 揺れた傘に遅れて、悲鳴に似た人々の奇声が届いた。それもすぐ、葉擦はずれの音に消えた。春の心地よい午後だった。

「なんですか、それ」

「虎を創った神様を恨むんじゃなくって、虎に翼を与えなかったことを神様に感謝しなさいっていうこと。実はね、私もそれが本当のところ、何を意味しているのかはよく知らないんだけどね」

 揺れる。しなる。でもまだ、倒れない。ユーは気が気でなかった。

「サチさん、神様なんて信じてないじゃないですか」

 ユーもまた、神を信じてはいなかった。

 なにげなく隣のサチの表情を盗み見た。サチは宙を巡る赤い傘に見入っていた。真剣な表情で、その行方を見守っている。赤い傘は坂道を下りながら速度をあげ、最大の見せ場の一つである、マンデルの前の角を無事に過ぎたのがわかった。残りの曲がり角は三十五。まだまだ道は長かった。

「違う。私は、神様を信じている人たちを信じているの。だから、大丈夫」

 サチは、ユーが今まで見たことないような、晴れやな笑顔を見せた。

「なんか、よくわかんないです」

 ユーは、自分がどうしてむくれているのかわからなかった。なんとなく恥ずかしくなり、視線を街へと戻した。すると、グプタの軋む音が丘まで聞こえてくるかと思うほどに、丸太の塔がぐにゃりとたわむのが見えた。

「あっ!」

 と、ユーは思わず上擦った声をあげた。それが祈りとなって届いたのか、グプタはなんとか体勢を立て直して、また何事もなかったかのように街を巡った。サチはこんな光景を五年間も見続けてきたのか、と思いながら、彼女の方に視線を向けることはできなかった。

「わかんなくてもいいんだよ。きっと君は、これからわかるから」

 メェェと、一頭のヤギが鳴いた。

 それを合図に、サチはにわかに立ち上がると、ユーの頭に手を置いて、ぽんぽんと埃を叩くみたいに叩いた。

「なんか、久々に先輩面せんぱいづらされた気がします」

 アハハハハと、サチの大袈裟おおげさな笑い声が空気を揺らした。いくらか湿気を帯びている気がする。

「だって私、先輩だもん。さあ、街に戻ろう。言祝ことほぎの儀で、メグがうたうんだから。それに、そろそろ今年初めての雨が降りそうだよ」

「でも、まだ——」

 空には雲ひとつなかった。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 ユーはサチを見上げ、差し伸べられたその手をつかんだ。

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虎の背には翼がない testtest @testtest

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