第5話 縁

 サチの支援団体への活動報告は首尾よく進んだ。校舎の二階建設の着手や国内における募金活動は高く評価され、継続的な支援が約束された。だが、さらなる医療支援と食糧支援の要請への返答はことごとく先送りとなった。学校運営が安定したとは言い切れないのに別の支援に踏み出すのは時期尚早ではないか、という意見が大勢だった。一つ一つ着実に問題解決していくのが賢明だろう、と。

 ——それじゃ手遅れなのに。

 心配していた日照りによる不作は杞憂きゆうに終わったが、来年はどうなるかわからない。食の不安のない今年こそがチャンスだと、サチは考えていた。

「では、衛生面の問題はどのように考えていますか。貧困地域での犯罪率は。労働生産性は。社会全体の生活水準の向上や上下水道などの公共インフラが整備されない限り、同じ様な事象は何度でも起こり得ると思うのですが。原因を食と医療に限定するのは、あまりに短絡的たんらくてきなのではありませんか」

 ——そんなことわかってる。わかっているけど、一つの問題を解決するには別の問題も同時に解決しないと、誰も助けることなんてできないのに!


「サチ、サチ?」

 メグの声で目を覚ました。

「今日は学校訪問の日でしょ。もう起きなきゃいけないんじゃないの?」

 耳に心地よい声が重たい夢を洗い流していく。朝一番に聞くにはあまりに快く、サチを二度目の眠りへと誘惑した。だが、頬を叩かれ、頭に断続的に響く衝撃が次第にサチを覚醒へと導き、仕上げに鼻をつままれ、夢現の境界線をようやく越えた。

「ねえ、いつまで寝てるの。ユーと約束してるんでしょ」

 ぼんやりとした意識が晴れ、メグの言葉の意味をしっかりと飲みくだした。

 大学付属の中学校で、講演の約束を取り付けていたのだ。食と医療の支援のための、最後の頼みの綱だった。今回の旅の大一番、講演の成否によって今後の支援のあり方が変わる。逆に言えば、ここで失敗すれば後がない、この旅の最後の勝負だった。

 枕元のスマホに手を伸ばした。アラームは設定した。それにも気づかず、約束の時間をとうに過ぎていた。画面にはメッセージと着信通知がずらりと並んでいた。

「ごめん! すぐに準備して!」

 サチはベッドから跳ね起きた。電話をかけながら洗面所に駆け込むと、部屋からメグのよく通る声が聞こえた。

「あたしはもう準備できてるよー」

 洗面所の歯ブラシの横にスマホを置いて、ハンズフリーにした。

「あ、サチさん。良かった。連絡つかないから心配しましたよ」

「ごめん、寝坊した!」

 顔を洗い、髪をかして後ろで束ねながら喋る。メイクの時間はなかった。不健康な顔。目の下にくまができていた。寝坊したのに、よく眠れなかった。

「大丈夫ですよ。まだ時間ありますから」

 メグの衣装の準備はしてある。スマホを片手に部屋に戻ると、テーブルにそれを置いてから、手当たり次第めぼしいものものをバッグに詰め込んだ。

 サチを横目に、メグはソファに腰掛け、テレビをぼうと見ていた。

「十五分ぐらいでつくと思う」

「わかりました。待ってます」

 サチは電話を切った。ティーシャツに着替え、ジャケットにパンツ、上からコートを羽織った。

「メグ、行くよ!」

「もう準備できたの。メイクはしなくて平気なの?」

「いいの。車の中でするから。早くして」

 自分の事を棚に上げてメグを急かす。そんなことに自己嫌悪を抱く暇すらない。衣装を入れた大きなバッグを背負うと、取るものも取り敢えずゲストハウスを後にした。


「ねえ、サチ、本当にメイクしなくて平気なの?」

 細い路地には人通りも車もなかった。二人は手をつなぎ、大通りへと小走りしていた。ユーにゲストハウスの前まで迎えに来てもらってもよかったが、入り組んだ小道を出るのに時間を取られるくらいなら、大通りまで走った方が早いと思った。

 サチはきっと睨むようにメグを見たが、返事はしなかった。

「だって、ユーがお迎えに来るんでしょ? おめかししないと」

「平気。私たちはメグが想像するような関係じゃないから」

 大通りが遠くに見えた。

 路地に入ってくる車はないが、日曜日で、しかも昼前となれば、道路は車であふれる。もし渋滞したら間に合わない。ふとサチの脳裏に不安がよぎるが、気にしている暇などない。ましてやメイクどころではないし、メグの揶揄からかいに付き合っている余裕だってないのだった。

「でも、そう思ってるのはサチだけかもよ」

 サチはメグの手を放すと、その手首を強く握って駆け出した。大きなバックパック背負った上に、メグをつかむのとは反対側の肩からは衣装の入ったトートバッグを提げていた。

「今日のメグは意地悪だね」

 背とバックパックの間に汗が滲んだ。風が頬に吹きつけ感じる冷たさとは裏腹に、ダウンジャケットの下では熱が逃げ場を失っていた。サチはそれでもペースをおとさないどころか、パンプスの靴底でアスファルトを蹴りながら、さらに速く駆けた。そしてメグを強く引っ張っていこうとすると、するりと腕が抜けた。そして急にからだが軽くなった。メグが反対側にまわりこんで、サチのトートバッグを取り上げたのだった。

「あたしだって、もう子供じゃないんだからね」

 そういって微笑む彼女は、まだあどけなさを残していた。


 大通りに出ると、左手の街路樹の下にユーの車を見つけた。

 中古の青い軽自動車で、アイドリングストップ車なんだ、と彼は言っていたが、実際は停車するたびにエンストする癖があるだけだった。収入は十分だしローンだって組めるはずなのに、なぜか彼はその車を手放さなかった。

 サチが助手席を叩くと、ギュウギュウと唸りながらガラス窓が下りた。

「ごめん。待たせた」

 サチが息を切らせて言った。約束の時間から三十分も過ぎている。

「平気ですよ、時間ありますから。トランク開けますね」

 メグがその様子を見て、ほうら、とでも言いたげにサチに目配せした。

「サチさん、どうしました?」

 サチは黙ったまま、荷物をトランクに投げ入れた。


 駐車場から校舎の渡り廊下の下を横切って真っ直ぐ進むと、人工芝のテニスコートがある。右隣に小体育館で、さらに横の校舎と直接つながっている二階建ての白い建物が公演を行う予定のオーディトリウムだった。その入り口から校舎の裏手に向かって、開場を待つ人々の長い列ができていた。

 生徒だけでなく、保護者や大学の学生らしき姿もある。定員二百名を優に超える人数だとすぐにわかった。

「たくさん人がいるね。なんかユト祭みたい」

 メグが英語で言った。

「思ったより集まったみたいです。大学の先生方に宣伝したのが効いたんですかね」

 ユーはマフラーも手袋もせず軽やかな装いだったが、さほど寒そうには見えなかった。

「……ありがたいことです」

 冬の乾いた風が吹きつけると、サチの手はぶるっと震えた。ついさっき汗をかいていたのが嘘のように総毛立ち、筋肉がかたくなって歩くにもぎこちなかった。長いこと味わうことのなかった風の冷たさが、サチにこの国の冬を思い出させた。

「楽しみだね」

 メグは大勢の人の列を目の前にしても、少しも臆するところがなかった。平然と、というよりむしろ嬉々としてその光景を受け入れているようだった。

「メグはすごいね」

 サチの言葉の意味を解さなかったのか、首を傾げてみせてから、また立ち並ぶ人の列に視線を戻した。

 子供だから恐れないのか。あるいはただ、お祭りのようで楽しそうだとうかれているだけだろうか。それ以上にただ、少女にとっては歌う喜びが、人に歌を聞かせるという喜びがあるだけなのかもしれない。そう思うと、サチは少し羨ましかった。

 受付に声をかけたのがちょうど予定時刻ぴったり、間に合ったからといって安心している暇もなく、担当者に簡単な挨拶を済ませると、三人は控室へと案内された。

 元々は教室として使われていたのだろう、部屋の隅には椅子と机が積まれ、上から白い布がかぶせられていた。反対のホワイトボードの前には机が一列に並び、そこにメイクのための照明が用意されていた。

 三人は控え室全体をぐるりと見回してから、一番窓に近い机に荷物を置いた。

「じゃあ、またあとで」

「え、もう行くの?」

 メグは別れを惜しむように、縋るような瞳でユーを見た。たった一日、街の案内を頼んだだけだったのに、案外二人は仲良くなったらしい。サチはそれが自分とユーとの関係性をおびやかすものではないと知りつつも、なんとなく複雑な思いがした。

 窓の外の空は青く、あの地の空と同じ色をしている。強い風がガラスをなんども叩き、その冷たさを思うと鳥肌が立った。駐車場から控室までの間ですっかりからだが冷え切り、暖房はよく効いていたものの、まだ歯の根が合わない。

「どうせ着替えるとき出ていかなきゃならないし。それに、時間もそんなに余裕ない。あと、声を掛けた先生や学生たちに挨拶回りもしないと。そういうのが大事な世界なんだ」

 先程までは人の多さに気後れしていたサチは、ユーの言葉で我に返った。単に支援したいと望む人たちがおのずと集まったのではなく、可能性のある人たちに声を掛けてくれた人たちがいたからこそ、これだけの人数が集まったのだ。すでに多くの力を借りているのだ。気後れしている場合ではない。

 恥ずかしさのせいか、強い思いのせいか、からだの奥がじんわり熱くなるのを感じた。

「ありがとう」

 ユーだけでなく、背後にいる多くの人に向けて感謝の言葉だった。

「はい、どういたしまして」

 その意を汲み取ったかのような淡白な返事をひとつ残して、ユーは部屋を後にした。


「さっそく着替えて、それからメイクしようか」

「うん」

 メグはおもむろにダウンジャケットを脱ぎ、さらにはその下に着ていた服を次々に脱ぎ捨て、子供っぽさの残るからだの線をあらわにした。

 サチは鏡に映る自分とメグを見比べた。似た肌の色をしている。土地の土と同じ赤茶色の肌に、いつのまにか馴染んでいた。だが、サチの服の下には、傷一つない白い肌が隠されている。

 サチも同じようにダウンジャケットを脱いだ。

「寒くない?」

 サチが訊いた。

「うん、平気」

 民族衣装は、赤を基調にした絹織物を下地に金色の錦があやなし、ひとつひとつ織り込まれた金色の柄は動植物の姿を模し、袖や裾、襟元を鮮やかに飾り、袖には枷にも見える大仰な純銀の留め金が施されていて、着るにも脱ぐにも、ひとりでは難しい。

 それは村のアカシキアバージの候補者が代々引き継いできた衣装だった。当然、金糸や銀糸を用いたうえに、金属の留め金やボタンが無数に縫い付けられた華美な装飾は、控えめにいっても幼児をひとり背負うくらいの重さがあった。

 メグが喜んで着たのは試着の一度きりで、結局それ以来、今日まで袖を通すことはなかった。

 サチはしわにならないよう、まるで大きな陶器でも扱うかのように、衣装を丁寧に机の上に横たえた。

「サチは着替えないの?」

 メグは落ち着かない様子で尋ねた。

「私は着飾る必要なんてないの。あなたの歌をこの国の人たちに聞かせたいから、帰ってきたんだもの」

 着飾る必要はないどころか、派手な格好で登壇とうだんするわけにはいかなかった。

 シャツにジャケットにパンツ姿。薄めの化粧。現実的かつ実際的な活動家を印象付ける必要がある。綺麗に着飾った途上国支援者では説得力に欠ける。ある種の演出であるという点においては、着飾るのと同じことだった。

「でも、あたしの歌じゃなくて、支援を募るためでしょ?」

「もちろんそれもあるけど」

 衣装に袖を通し、重たい衣装がずれないように背中の紐を強く締めていく。

 直接着せると紐を通す金具が背と擦れ、肌を傷つけるため、間に一枚タオルを噛ませていた。

 その分、強く締める必要がある。

「サチ、ちょっと苦しい」

「あ、ごめん」

 メグはそのきらびやかな衣装と澄んだ歌声で観衆を魅了するだろう。鏡に映るメグを見て、サチは思った。

 途上国で伝統を守りながら健気に生きる少女。嘘ではないが、必ずしも真実でもない。メグは支援をうためのいわば見世物みせものだ。彼女自身、それがわからないほど子供ではなくなっていた。

 サチは紐を少し緩めた。

「どう、このくらいなら平気?」

「うん」

 最後に袖口の銀の留め金を重ね、着付けを終えた。

 首から下げる三色のビーズは、青が空、赤が大地、緑が人々の平和を表している。メグの首に最後の装飾を掛けようとすると、彼女は懇願こんがんするような目でサチを見上げた。

「ねえ、それだけでも後にしない?」

 天然石のビーズがぶつかりあって、じゃらじゃらと音を立てていた。衣装だけでも重たいのはわかっていたが、首飾りを下げるとなるとなおさらだった。首からそれを掛けてから髪を結い上げようと思っていた。後から結った髪が乱れるのを嫌ったからだ。

「そんなに嫌?」とサチは笑いながらいた。

「じゃあサチも首から下げてみれば?」

 メグは冗談めかして眉を寄せ、首飾りを取り上げた。じゃらじゃらっと音を立てたビーズの首飾りがサチの首に掛けられると、肩に重くのしかかった。

「サチ、とっても似合うじゃない」

 鏡の中で、少女が無邪気に笑っていた。その横で、眉をひそめた無愛想な女が自分をにらみ付けていた。

「すっごく重たい」

 振り返ったサチの表情に、メグはプフッと吹き出した。

「アハハ、だから言ったでしょ」

 メグにつられてサチも笑った。赤、青、緑の首飾りを順々に外すと、途端に肩が軽くなった。サチは首飾りをしまった。

「さ、ふざけてないで、早くメイク終わらせるよ」

「はーい」

 静かな教室にメグの声が響いた。


 講堂は立錐りっすいの余地もないほどの人であふれていた。

 舞台袖に立ち、サチは自分の名前が呼ばれるのを待った。横には民族衣装を身にまとうメグが立っていた。首飾りをしていない分、いくらか鮮烈な印象は薄まったものの、舞台上で人々を魅了するだけの美しさは備わっていた。

 異国の地で同世代の子供たちを目の前にして歌を披露するというのに、メグの凛とした表情からは、まるで緊張が感じられない。

 目の周りを黒のアイラインで太く縁取ふちどり、唇に鮮やかな紅を塗った。赤茶色の肌はつややかで、手を加えずとも美しい。蝶のように軽やかなまつ毛、鹿のような艶やかな瞳、虎のようにしなやかな四肢、菩提樹のような身体。アカシキアバージに求められる多様な美の条件を、メグはすべて満たしている。

 村の人々は、身内贔屓びいきでもなんでもなく、メグがアカシキアバージに選ばれると確信していた。隣村のパドセやその両親、さらにはその友人へと噂は広がり、評判は近隣の村々にまで知られるようになった。家柄も悪くない。アカシキアバージに選ばれるには金細工師か宝石細工師の家系か、それに類する階級に属していると有利だという。メグの父親は石工いしくで、金細工や宝石細工には劣るが、その下級の位置する仕事とみなされる。それで十分だと思わせるほどに、メグの歌はひいでていた。

 村だけでなく、近隣一帯の期待を一身に背負っていた。にもかかわらず、この凛とした力強い表情はどこから生まれるのだろう。サチにはわからなかった。

 壇上だんじょうでは、司会者がサチを舞台に導くための口上こうじょうを述べていた。参加者の生徒や保護者、学校関係者の小さな話し声が混ざり、サチの心にうずまく不安を蒸し返した。

 ——私が失敗したら。

 マンデルの前で祈りを捧げる時のように、目をつむって手を合わせた。司会者と講堂のざわめきが一層と大きくなり、手が震え出すのがわかった。逃れようのない重みに耐えようと、さらに力が入る。

 ——失敗したら。

 司会者の声が途絶えた。出番が近い。首飾りの重みがよみがえってくる。手の震えが止まらない。耳を塞いでしまいたい。目をつむり、耳を塞げば、おそれるものなどすべて消えてなくなる。負うべきものなどなにも——。

 唐突とうとつに、誰かがサチの手を握った。

 目を開くと、美しく着飾った少女が目の前にひざまづき、額を手の甲にあて、祈りをささげていた。

「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい」

 清澄な声。天にたやすく触れるような高く伸びる声。メグの声のなかにはアルパがいる。マハダメはそれを、空に祝福された声だと言っていた。ピンと天に向かって糸を張ってサチの背筋を引き伸ばすように、メグの歌が全身を貫き通した。

 むしろ緊張は高まったが、不思議と不快ではない。

 薄暗い舞台袖のなかでメグの瞳に照明が映り込んでいた。その微かな光だけが、今ここで見るべきものだと思った。上に向かって伸びる、透き通る声だけが、今ここで聞くべきものだと思った。

「あたしね、飛行機のなかでお祈りしたの。今回の旅があたしたちとこの国の人々を結んでくれますようにって。大丈夫。空にとても近かったから、神様があたしの声を聞き逃すわけないもの」

 手をほどいた。サチは温もりがまだ残っている手で、メグのほほに触れた。震えはおさまっていた。

「ありがとう、メグ」

 メグは恥ずかしそうに微笑んだ。と同時に、司会者がサチの名を呼ぶのが聞こえた。ドン、ドンと低い脈動が耳奥で鳴り、それに重ねるような軽快な拍手の音がオーディトリウムに響き渡った。

「いってらっしゃい」

 メグの声が拍手の音をかわし、サチの耳に届いた。

「いってきます」

 そう言うと、サチは一歩前に足を踏み出した。

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