第4話 旅

「サチ、サチ。サチの国には貧しい人がいないってホント?」

 飛行機に乗ってしばらく、メグは落ち着かなかった。通路側の席の乗客がチッと舌打ちすると、サチは小声で謝り、メグを注意した。それからは大人しく窓の外を見ていたが、山間部を越えると、サチの袖をキュッと引っ張り、再び小声で話しかけたのだった。

「いいえ、いるわよ。でも、メグの国よりかはずっと少ないし、メグの国の貧しい人たちほど大変ではないかな」

「ふーん。そっか」

 メグはそう言うと、なにかが腑に落ちないかのように、腕を組んでうーんと唸った。さっき注意されたことがまだ念頭にあるのか、遠慮がちにサチの顔を見た。

 通路側の席の乗客が咳払いをした。

 サチはメグに目配せしてから、少し大袈裟な動作で頷いた。

「あとね、貧しくはないけど、はたくさんいるよ」

 サチはどうせ言葉はわからないとは思いつつ、意趣返しのつもりでわざと声の調子を強めた。

 隣の乗客は同国人だった。直行便ではないが、時間はかかっても最安であるこの経路を使う観光客は多い。先ほどから苛立たしげに貧乏ゆすりしていた。狭くて息苦しい機内は誰にとってもストレスだが、どうやら彼はそれをメグが騒がしいせいにしたいらしかった。

 つい数分前までは申し訳なく思ったサチも、今ではすっかり彼を腹立たしく感じていた。子供なのだから、少しくらい騒がしくても仕方ないではないか。

「私の国ではみんなが貧しいよ。お金持ちはちょっとだけ。良い人も、悪い人もたくさんいる。でも、みんないつもお腹がすいてるから喧嘩しないんだって、シカナ先生が言ってた。だって、たくさん怒るとすぐにお腹がくもの」

 そういうと、メグは声をひそめてクスクスと笑った。

「アハハ、確かにね。でも、勉強して立派になってお金を稼いで、お金持ちになるのも悪くないでしょ。少なくとも今より豊かになるのは悪くない。メグだってそのために学校で勉強をしてるわけだし」

 飛行機が雲の中へと飛び込み、窓の外は灰色になる。まだ高い雲が多い。さらに東へと飛べば、おそらく雲を抜けるだろう。機内の照明は弱められ、暗く感じた。

「そうかな、わかんない。私ね、学校が好き。勉強も、皆と遊ぶのも好き。歌うのも大好き。だから私は学校に行くの」

「そっか。そうだね」

「それにね、パドセもやっと学校に慣れてきたの。毎日来るのが楽しいって言ってたよ」

「メグがいつも気にかけてくれているおかげね」

 その言葉に、メグは歯を剥き出しにして、嬉しそうに笑った。


 一時帰国は支援団体への活動報告が目的だった。メグを連れてきたのは、現状を訴え、さらなる個別支援を募るためだ。

 学校運営のための支援金は十分だが、学校運営だけでは不十分だった。

 教育支援によって自ら生活力を身につけるだけでなく、今を生き抜く環境が必要なのだ。アルパの例を出すまでもなく、毎年多くの子供が犠牲になった。貧しさの標的になるのは常に子供と女性だ。なんとかその状況を好転させたい。子供や女性を救うには、まずなによりも食と医療が不可欠なのだ。二つの基盤なくしては、教育は成り立たない。

 通路側の席から寝息が聞こえてきた。乗り継ぎまで数時間。薄暗い機内では、多くの乗客が眠りはじめていた。

 メグははしゃぎ疲れたのか、窓の外を眺めていた。

 飛行機が雲を抜けると、昼夜の混淆したピンク色の雲海が広がっていた。小さな窓から見る光景が、どこまでも深く続くように感じた。空がひと繋がりだということにふと思い当たった。どこかで雨を降らせた空は、別のどこかで乾いた風を吹かせる。熱風を舞い上がらせた空は、別のどこかで冷たい氷を降らせる。の小さな両手の平は、ぴったりと合わさっていた。

 日暮れとともに太陽に対して感謝の祈りを捧げるメグの敬虔な態度は、土地に暮らす人々に自然と備わった高潔な信仰心の表れだった。不意にサチは、自分が空を飛んでいることを思い出した。



「彼、サチの恋人?」

 空港から滞在先のゲストハウスへと向かう車内で、メグが揶揄からかうようにサチに訊いた。運転手がサチと同じ年の頃だと彼女にもわかったらしい。だが、その親しげな関係性をただ恋愛に帰してしまう短絡は若さゆえの過ちだろう。サチはおもむろに、メグの肩に手を置いた。

「いや、ただの友達だよ」

 淡白な答えに、座席の間から身を乗り出していたメグは、ゆっくりと腰をシートに落ち着けた。

 空港の大きさや高いビルの群れに感動していたのも一時間ほどのあいだだけで、それからはサチとユーに質問を繰り返していた。とはいえ、メグは英語で尋ねようとはしなかったため、ほとんどサチが訳してやる必要があった。

「なんの話ですか?」

 ユーは大学時代のサチの後輩だった。サチは看護科でユーは医学科、卒業はユーの方が三年遅かった。卒業してからは大学付属の病院に勤め、学生時代と同じ住まいだ。経済的にはるかに豊かになったはずのユーは、ほとんどその生活スタイルを変えていない。公演先のどこへ行くにもそこは近く、送迎を頼むのにぴったりだった。

 それに加えて——。

「途上国での学校の運営現場を見たって、大学病院の先生には役に立たないんじゃない?」

 サチはなかば皮肉のつもりで言った。

 支援したい、手助けしたいと言いながらも縁が切れた知人は無数にいる。誰もが手軽な手助けを求め、重みが増すと手放す。自分が人の役に立っている、誰かのための人生になっているのだと気軽に実感したくて支援を申し出るのでは、助けられているのが誰なのかがわからない。本当に救いを求めているのは、誰かの役に立つことでしか自分の価値を見出せない彼らの方ではないのか。にもかかわらず、等価のリスクや負担を支払う気はまるでないなど、虫のいい話だ。

 ユーもそういう人間の一人だと思った。

「役に立つかどうかはわかりません。ただ、先輩からアルパちゃんのこと聞いたから気になっていて。命の問題という意味では場所は関係ありません。救えたかもしれない命が失われることは医学の世界では当たり前——」

「違う。そういうことじゃないよ。ユーが言ってるのは、現代の医学では治せない患者さんとか、確率的に治癒する可能性が低い患者さんのことでしょう。私が伝えたかったのってそういうんじゃなくってさ——」

「そういんじゃなくて、何ですか?」

 ユーは遠慮もなくサチの言葉を遮った。まるで違う問題のはずなのに、サチはそれ以上言葉が継げなかった。ユーの言葉は鋭かった。貧しい環境で生きようが、恵まれた環境で生きようが、同じ命として捉える感覚は、単なる綺麗事や、自分の価値を他者に投げ打ってしまうような無責任から生まれるはずのない、確かな現実を見据えた言葉だった。

 欺瞞をあばかれた気がした。気軽に支援を申し出る人に嫌悪感すら抱いたサチが、恵まれない子供たちのために懸命に努力している、誰かの役に立っているという自己満足に陥る自家撞着に陥っているのだと、気付かされた。同じ穴のむじなだ。ユーに指摘されることがなければ、ずっと自ら知らぬまま、反省のないひとりよがりな支援へと突き進んでいた。サチにとってのユーは、自分の居場所を再認識させる、座標の原点なのだ。

「あなたは恋人か、ですって」

「ふーん。メグちゃんも年頃ですからね」

 ユーはなおざりに返事をした。

 車は高速道路を抜け、五、六階程度の高さのビルが立ち並ぶ街路を走った。殺伐とした景色が続いた。黄や青、緑、紫の看板のネオンがカラフルに街を照らしても、そこには人々の生活が放つ活気のようなものが欠けていた。荒涼とした、赤い土煙がたちのぼるあの土地とはまるで違う光景こそが、サチの故郷なのだ。

 再び後部座席のメグを見た。窓に鼻の頭をつけてじっと外を見ているものの、まぶたの重さを感じているらしい。時々ガクッと倒れかかるたびに、窓にコツンと額のぶつかる音が聞こえた。

 ゲストハウスまで二人を送って、ユーは帰った。

 キッチンで食事を済ませ、メグにシャワーの使い方を教えた。お湯の出し方や、シャンプーやボディソープの違い、タオルの場所や着替えの置き場などをひととおり説明すると、メグの瞳に輝きが戻った。

「こんなのはじめて。とても特別な気分。なんだか毎日がユトのお祭りみたい」

 風呂の後にはドライヤーで髪を乾かした。

 メグはまだかすかに湿り気の残る髪を鼻の近くによせて、匂いを嗅いだ。合成香料の甘い香りが立ち、サチの鼻先をくすぐった。野趣の抜けた、乾いた香りだった。メグの着ている麻の寝巻きだけが、あの地の匂いを残している。

「人がたくさん。灯りもたくさん。電気もたくさん。この国には、なにもかもが不思議なくらいいっぱいあるね」

 疲れてはいたものの、時差のせいか眠くはなかった。メグは窓際に立ち、乾いた髪を撫でながら、窓から外を見ていた。飛行機の中でも、ユーの車の中でも、ゲストハウスの部屋ですらも、窓からの光景に目を奪われていた。コンクリートと鉄とガラスでできたビル、身綺麗な人々が群れをなして歩く姿、雲海を染めるピンクの夕日、そうして一枚のガラスを隔てて見る光景は、メグにとってはどれも新鮮だった。

 サチは部屋の冷蔵庫からビールを出した。栓を抜くと飲み口の表面に白い冷気が立ち、それごと飲み込むように咽喉に一気に流し込んだ。ぷはーっと息を吐くサチを、メグが興味深げに見た。

「メグも一本、なにか飲んでいいよ」

「やった」

 そういうとメグは真っ先にコーラに手を伸ばした。街に出たことのある子供でなければ、コーラの味は知らない。サチはメグを制そうとしたが、思い直してその手を止めた。


「それで、どうすればいいんですか?」

 メグは昨晩、あんじょう眠れなかったらしい。寝ぼけまなこで目をこするメグを着替えさせ、サチは自分の化粧もせずにユーを迎えた。大学時代に何度も見せた顔に、特に抵抗は感じなかった。

 十時を過ぎていたが、ロビーは閑散としていた。平日の泊まり客はアジア系の外国人観光客が大半で、朝早くから外出したらしい。静かな環境でゆっくりユーと話せるのはありがたかった。

「えっとね、街案内を頼みたいの。ビルとか商業施設とかを見せてあげて。お祭りみたいだって言ってたから、人が多いところに行ってみると喜ぶかもしれない。でも、なにか買ってあげるってのはできるだけ控えてね。それが普通だと思って欲しくないから」

「わかりました」

 ユーは三人がけの大きなソファーに深く腰掛け、穏やかな表情で向かい合った二人を見た。

 医師として働き始めていた彼に時間の余裕などあるはずない。彼にガイドを頼むのは気が引けたが、最低でも英語で意思疎通できる人が必要だった。五年も外国で暮らすサチにとって、母国でメグを預けられるほど信頼できる知人は数える程だ。条件的に最善であるユーに駄目元で声を掛けたが、彼は二つ返事で快諾したのだった。

「サチ。ユーとデートするの?」

 メグが目を擦りながらいた。到着日に買った着慣れないダウンジャケットのなかで、彼女はもぞもぞと動いている。もこもことした感触を気に入ったと言っていたが、やはりまだ馴染なじめないらしい。下には薄手のセーターとシャツしか着ていないのに、買ったばかりの洋服の数々は彼女をぎこちなくさせた。

 サチはうっすら笑みを浮かべ、首を振った。

「違うよ。デートするのはあなた」

「え?」

 サチの言葉が揶揄からかいだとも気づかずに、メグは頬を赤く染め、恥ずかしそうにユーを盗み見た。

「だって、昨日はじめて会ったばかりだし……」

「冗談よ。ユーにはあなたの街案内を頼んているの。見たいものがあったらユーにちゃんと英語で伝えなさい。これも勉強だと思って」

 頬を染めていた肌の下の赤い血が、一瞬にして顔全体に広がるのがわかった。メグは頬をぷっくり膨らませると、サチの肩を叩いた。

「もう、そんな冗談やめてよ」

「なに話してるんですか?」

 ひとり言葉の通じないユーは、戸惑いながら順々に二人の顔をうかがった。察しがいい彼なら理解できそうなものなのに、とサチは思いながらも、くすりと笑うと、メグを見た。メグはそっぽを向くと、「知らない!」と、英語で語気を強めて言った。静かなロビーにメグの声が高く鳴った。

 ユーはどうしてメグが怒っているのかもわからず、ぽかんと口を開けていた。あるいは、その声の美しさに驚いたのかもしれない。

 サチはゆっくり立ち上がった。

「じゃあ、よろしくね」

 挨拶回りの準備が残っている。化粧もしていない。やるべきことがまだ無数にあった。なにより、さらなる支援獲得こそが、今回の旅の最大の目的だ。メグを観光させるために連れてきたのではない。

「え、あ、ちょっと」

 今日はユーに甘える。サチは断固としてそう決意していた。挨拶回りに加えて、小さな公演が三つ。休んでいる暇などないし、遠慮している余裕などサチにはない。今すべきこと、できることをする、ただそれだけなのだ。

 メグは口をへの字に曲げて、顔をそらしていた。ユーは状況を理解できずきょろきょろしていた。

 サチは立ち上がると、ロビーに二人を残し、部屋に戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る