第3話 歌

「ようやくですね」

 村の田畑には、みずみずしい黄緑の葉が鬱蒼としげっていた。あと二月ふたつきほどれば穂が実り、マンデルに向かってこうべを垂れる。そんな未来がサチにも見え始めていた。

「ええ、ようやくです」

 マハダメは熱い茶をれた。山岳隊からもらったカップから湯気が立ち、天井に開いた小さな穴から空に昇っていく。

 久々の雲ひとつない晴天だった。

 風が夏の香気を部屋へいざなうと、サチはどこか懐かしい心持ちがした。

 この土地を訪れて五年。一階建ての校舎を建てるのに三年を費やし、運営を開始してから一年、さらに二階の増設をとりつけるのに一年を費やした。

 初めてこの土地を訪れた夏も同じ風が吹いていた。湿っぽい熱のなかに、かすかに草と土の匂いが混じるこの土地独特の香りに、不思議と懐かしさを感じた。

「二階も、もうすぐですね」

「ええ、もうすぐですね」

 竹で組まれた足場は相変わらずで、頼りなく風に揺れていた。それでも藁紐が緩んで崩れたり、水平方向に走る竹が折れたりすることは一度もなかった。村人はその上を器用に移動しながら、煉瓦れんがの壁を積み上げた。赤い煉瓦をつかむ腕には汗が光り、しずくとなって一階に落ちては地面や床にわずかな黒い染みをつくったが、それも暑さですぐに消えた。二階の根太は既に渡されているものの、まだ床は張られていない。壁は完成間近で、あとは二階の天井の梁や束や母屋、垂木を架けて、屋根と床を張れば完成だという。

「今日中に終わるものですかね」

「終わるというのですから、終わるのでしょう」

 簡素なつくりとはいえ、少人数でそれだけの仕事をこなすのは、サチには容易ではないように思えた。

 熱い茶をすすり、もう一度カップからゆっくりと立ち昇る湯気の行方を目で追った。

 ほがらかな歌声が天井から聞こえてくる。

 この土地の人々はよくうたう。機織はたおりの歌、煉瓦積みの歌、穂を摘む歌、脱穀だっこくの歌、うすをひく歌、火を焚く歌に料理の歌。今日は棟上げの歌。

 その中でも一際美しい声の持ち主が、教室の子供たちや職員室で話すサチとマハダメに聞かせるかのように、これみよがしの長いビブラートを響かせた。ニラカシメパチの声に似ていた。寝ぼけ眼で聞く鳥の声より遥かに澄んでいるのに、同じように朝を告げる歌のようだった。

「それに、もし終わらなくても私たちが待てばいいだけです。明日でも、明後日でも」

「……そうですね。明日でも、明後日でも」

 サチは山となった資料に目をやった。

 校舎増設に伴い、学校の生徒数の定員を増やすための申請が求められたことに加え、秋には一度母国に戻り、新たな支援を求めることが決まっていた。

 うっすらと赤茶色に染まった紙には、壁の表面をつたがうような絡まりあった文字が並んでいる。サチは言葉を一つ一つなぞるように、人差し指を文字のうえに乗せた。読んでいる位置を確認しながら言葉を辿たどって、なんとか絡み合った言葉をほどこうとするが、どうにも縺れて意味がつかめない。複雑だと言われるサチの母語と比べても、少しも見劣りしなかった。いかんせん、サチにとっては外国語であるだけでなく、学ぶための教材すらないのだから、難解に感じられるのも当然のことだった。

 公文書には、聖典などに記された古い文字が用いられていた。知と権力の独占。教育が力を持つのは、知が権力の独占を解き放つことができるからだ。二つを切り離すことでしか、膠着した状況を打破する術はない。独占された知をおおやけひらくこと。知の独占に風穴をけるためには、権力にくみして協力をあおがざるを得ないというジレンマ。この袋小路に迷い込んでから五年、サチはいまだ抜け道を見出せずにいた。

 サチはやっとの思いで一枚目を読み終えると、カップに手を伸ばした。まだ温かかい。焦っても苛立っても、増築が早く終わるわけでも、生徒数増加の許可が下りるわけでもないのだ。はやる気持ちを落ち着けるように、サチはふーっと息をついた。

 にわかに、冷たい風が職員室に吹き込んだ、と同時に「わあっ」という子供たちの甲高い声が聞こえた。

 二階の屋根を架けるための竹の足場がぐらりと大きく揺れた。

 子供たちが一斉に校庭へと駆け出した。小さな教室で鮨詰すしづめになっていた子供たちが、蜘蛛くもの子を散らすように校庭のあちこちで遊び始める。午前の授業が終わったのだ。

 サッカーボールを投げて遊ぶ子供たち。木陰こかげに集まって、木の枝で地面に絵を描く子供たち。五、六人で縄跳びを飛ぶ子供たち。好きずきに歌をうたう子供たち。

 サチは窓の外の子供たち見た。

 小さい頃、休み時間にドッヂボールをして遊んだ。コートが取り合いになるので、クラスの足の速い子がボールも持たずに駆けて行った。散りぢりの子供たちの姿に、遠い記憶の誰かの背中を見つけた。ここにはないはずの、過去に置いてきたはずの誰かの背中を——。

「ねえ、何してるの?」

 数人の生徒が職員室のサチとマハダメに目をとめ、部屋の窓へと駆けてきた。子供たちは互いにじゃれ、押し合いもみ合いしながら窓枠によりかかっていた。恥ずかしげに引っ込んだり、いくらかでしゃばってみたりと、誰がなにを言うか、互いに牽制し合っているようだった。

「ねえ、先生たちも一緒に遊ぼうよ」

 メグの声はとりわけ澄み切り、空に向かって伸びた。グプタのように天を突き、空をぜ、雨をもたらす。ユト祭の歌い手であるアカシキアバージにふさわしい声だ。

 夏至の祭りの夜、村の代表を選ぶための歌競うたぎそいのうたげもよおされる。秋分の収穫祭で各々の村から選ばれた歌い手が集められ、総勢百数十人に及ぶ。その中からさらに七名のアカシキアバージ、空に標結う歌声が選ばれる。アカシキアバージは秋分のプーラ・パシュヴァへの祈祷を捧げる歌、春分のユト祭でグプタが無事に街を巡り、ユト・カターイ、ユト神の実りが叶った際の言祝ぎの歌をそれぞれうたう。つまり、アカシキアバージが、古くから土地に住まう人々のグプタ信仰と、侵略者であったプルブのブーラ・パシュヴァ信仰を習合しゅうごうさせる。歌が人々を結びつける重要なかすがいだった。

「ごめんなさい。私たちにはやらなければならない仕事があるの」

 紙の上で止まっていた指先に視線を戻した。日常的な言葉の文字にはアルファベットが使われている。二言三言子供たちと話しただけでも、目の前の資料が急速に遠ざかっていく。なんとか縋りつこうと、必死に目で文字を辿った。

「サチさん。いってらっしゃいな。あとは私がやっておきますよ」

 マハダメはそう言うと、サチから奪うように申請用の資料を取り上げた。残されたのは、帰国した際に支援団体に提出するための報告書だけだった。そこにはグラフや表が整然と並んでいる。垂直に伸びる角ばった長方形と、いくつもの数値。サチの母語のなかでも複雑な文字の数々が、この地の窮状きゅうじょううったえていた。

「でも——」

「サチ、遊ぼうよ。サチ、サチ」

 メグの声が耳の奥深くに忍び込んで、記憶を引きずり出そうとする。押し込めておきたい記憶、隠しておきたい記憶を容赦無ようしゃなく引きずり出そうとする。耳に心地よいはずの清澄せいちょうな響きが、サチの心の暗い部分を無理やり照らし出そうとしている。

 音のない世界。声のない世界。静かにしておいてほしい。触れないでほしい。今はまだ、考えることも振り返ることもできない。後生大事に分厚い壁で囲って守って誰にも見られないように触れられないように閉じ込めておいているのだから。

 ——ああ、ダメだ。

「ねえサチ。遊ぼうよ」

「ほら、サチさん。子供たちとたくさん遊んであげてください」

 躊躇ためらいがちに、サチは立ち上がった。

 

 木陰では子供たちが歌をうたいながら、キャッキャとはしゃぐ笑い声と、叫喚にも似た甲高い声を校庭に轟かせていた。そしてリス、ネズミ、サル、ガーナと呼ばれるヤマアラシの一種と、小動物さながらにちょこまかとからだを動かしていた。子供たちは順番に、手、頭、足、膝、お腹と、鬼役のガーナが言った体の部位に触れていく。動物の仕草の真似だ。サルのように小さな手を頭に伸ばし、ネズミのようにしゃがんで爪先に触れ、リスのように腕を交差して両肩に触れる。そうして一つずつ動作が足されていき、間違えたものが次のガーナ、ヤマアラシになる。

 動物や植物の名前。体の部位の名前。天気の名前。道具やものの名前。そして、子供たちの名前。学年は明確に決められているわけではないが、だいたい小学生になる前くらいの子供たちが歌と言葉で遊びながら学んでいく。サチも子供たちと同じように、遊びながら言葉を覚えたことを思い出した。

 メグに袖を引かれて向かったグループは、十代前半の学校では年長にあたる子供たちだった。

 彼らくらいの年齢になると、アバジマナイという、輪になって歌を交わしあう遊びを覚える。マンデルで行われる儀礼を模したもので、本来であれば押韻おういん規則に従って歌い手が順々に歌を継いでいくが、アバジマナイは前の歌と同じ箇所に同じ音節を一つ含めば良いというルールしかない。

 サチにとっては難易度が高いが、この土地で生まれた子供たちにとっては簡単な言葉の歌遊びだった。

「さあ、やるよ」

 それぞれ隣同士で手をつなぎ、輪になった。

 メグがふっと大きく息を吸い込むと、周囲の子供たちのざわめきだけでなく、木々の葉擦はずれや風の音、鳥の声すら聞こえなくなる。握るメグの手に、力が入る。静寂のなかでパンと手を弾くかのように、朗らかな第一声が天に突き抜けた。

 空に届くほどの清澄な声。

 掠れのない声。丸い頬。均整の取れた顎。白い歯。湿った舌。

 アカシキアバージになるのに必要な条件は他にもあるという。全ての条件が歌に関係しているとは限らず、鹿のようなつややかな瞳や輪郭のくっきりした影など、容姿に関することや、要領を得ないようなものもある。

 メグの声は喜びに満ちていて、直接心に触れる。透き通った鋭さで耳の穴を貫くかのように、明朗に響き渡る。共振する。メグの心が歌う喜びに打ち震えているのがわかる。そんな声を聞いて、アカシキアバージにふさわしくないと思うものなどいるのだろうか。

 ——でも。

「ねえ、サチ、サチの順番だよ!」

 メグが握った手を振った。呼びかけられてはじめて歌が終わっていたことに気がついた。輪になった子供たちの視線はサチ一点に集まっていた。

「え、ああ。ごめん」

 サチが謝ると、輪になった子供たちが笑い声をあげた。

 風が吹けば舞う赤茶けた土煙も、雨季になって水気をはらんで重くなったのか、校庭の反対の隅で遊ぶ子供たちの顔まではっきりと見分けられる。知らない顔はなかった。ただ、足りなかった。

 強い風が吹き荒れた。重く沈んでいたはずの土煙が立ちあがり、思わず顔を背けた。校舎を囲む足場が大きくたわんだ。倒れる、と思ったそれは、おおきくしなってから、またゆっくりと元のかたちに戻った。足場の上の村人たちは、平然と作業を続けていた。

「サチ、歌える? 私が考えてあげようか?」

 まだ笑みの残るメグの顔に、鹿のような艶やかな瞳がぽつんぽつんと二つ並び青い空を映していた。

「私がサチに教えるよ」

 サチの腕をつかみ、上目遣いでその顔を覗きこんだのは、最近入学したばかりの隣村の子供、パドセだった。村の子供と同じく、赤茶けた肌に黒髪、瞳は鳶色とびいろで、笑うと右頬にえくぼができる。その顔にはまだ、少女らしいあどけなさが残っていた。

「パドセ、できるの?」

 メグが訊いた。

 一つ年下のパドセの面倒を見るようにとメグに言ったのは、この村出身の唯一の先生、シカナだった。メグの歌がひときわ優れているのを、誰もが認めていた。そのメグがパドセと一緒にいれば、隣村の少女もすぐに学校に馴染めるだろうという目算だった。

 メグはパドセの腕に触れた。隣村では様々な風習が異なるように、アバジマナイの遊び方も違った。メグはそのことを気にかけていた。

 パドセは臆することなく、メグを正面から見据えてうなずいた。

「わかった。サチに教えてあげて」

 パドセの右頬にえくぼができた。彼女はサチの肩に手を置き、耳を貸してという仕草をした。サチは子供たちより高い位置の肩を硬くし、身を縮こまらせながら、パドセの身長に合わせて膝を曲げた。

 高い日差しが照りつけ、サチはじわりと嫌な汗をかくのがわかる。空気が湿り気を帯びているせいか、シャツが肌にまとわりついた。

 パドセの手が頬に触れ、生温かい息が耳をくすぐった。子供らしいたわいない言葉が、耳に流れこんでいく。かぼそい、可愛らしい声だ。メグのように美しい声とは違う、かすかに緊張を含む震えた声。チーと鳥が鳴くのが聞こえた。ニラカシメパチだろうか。見上げた空には雲ひとつない。鳥ももう、そこにはいない。今日は雨は降らない。時々パドセが喋りながらクスクスと笑う。それが一層くすぐったくて、思わずサチにも笑みがこぼれた。

「二人でこそこそ話してないで、はやくうたってよ」

 メグがせがむのに合わせ、子供たちがいっせいにはやし立てた。パドセは自信に満ちた表情を浮かべて、うんとサチに向かって頷いた。

 パドセがサチの手を握った。反対の手をメグが握った。サチと一緒に子供たちが手を握り合って輪を描いた。

 メグがさっきと同じ歌をうたうと、声は空に向かって高く伸び、輪になった子供たちの頬が上気し、場の雰囲気がにわかに高揚するのがわかった。歌に合わせて腕を前後に振っては、メグの巧みな言葉遊びにみんなから笑い声が漏れ、輪はそのたびにいびつになった。それでも輪が崩れることはなく、何度も笑いと喜びにぐらぐら揺れながら、最後には綺麗きれいな円をなした。

 メグの歌が終わった。両手の平の熱が伝わる。

 パドセの作った歌を、サチはうたった。

 サチの後に、続けてパドセがうたった。

 輪になった子供たちが次々と連なるように言葉を重ね、その歌声と笑い声がぐるぐると回りながら、校庭の片隅で響き続けた。

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