第2話 雨
長い間、雨が降っていない。川の水位は日に日に
サチがこの土地を訪れて以来、天と神々とに折り合いがつかない。
グプタはこの土地で古くから崇められている神で、起源ははっきりとは知れないものの、三千年以上前からその名は残っている。一方マンデルで祀られている神々は千五百年以上前、プルブの人々がこの土地を支配するのと同時に流れ込んで、土着の神々と習合した。そのため、グプタにしても、それ以外の神々にしても、正確に起源を辿ることは難しい。
ゾロアスター教のアナーヒターとヒンドゥー教のサラスヴァティーは同起源とされ、アナーヒターと同一視ないし習合したイシュタルやアプロディーテと、サラスヴァティーが仏教に包含されて七福神の一柱となる弁才天とでは、同じ起源を持つことになる。さらに言えば、ローマ神話のウェヌス(ヴィーナス)に至るまで結びついてしまう。
太古の神々は複数の名と顔を持ち、スフマートのように輪郭線がぼやけて背景に溶け、捉えがたい。
マンデルの主神はグプタではなく、プルブの創造主ブーラ・パシュヴァだ。グプタは本来、プルブの神々には含まれなかった。豊穣の神、天候を司る神は別にいたはずだったが、支配した側の神であったそれは、土着の神であるグプタを飲み込むことはできなかった。
今年こそは——。
サチは街の中心にあるマンデルの前を通るたびに手を合わせ、ささやかな祈りを捧げた。
この際、天候を司るのがグプタであろうとブーラ・パシュヴァだろうと構わなかった。この土地では、多くの神々が一つの空の下でひしめき合っている。風の神。雨の神。太陽の神。雲の神。鳥たちの神。魚たちの神。蝶の神。天を仰げば、必ずその視線は誰かにぶつかった。
祈りを捧げる対象など、その中の誰でもいい。雨さえ降れば、多くの人間の命が救われる。神々は、そのためにいるのだ。
——ホントは、神様なんて信じてないくせに。
ほんの数秒間、サチは目を
「サチさん。アルパは学校が大好きなんですよ」
マハダメの言葉を思い出す。達観したような深い瞳で見据えられると、サチは言葉を失った。サチに見えていないものが、マハダメには見えていた。
アルパが学校に通わなくなり三ヶ月が経っていた。家まで様子を見に行くと、粗末な寝床に横たわる少女は、小さなからだを起こすだけでも苦しげだった。病は重い。看護師だったサチは、正確な診断はできなくとも、病状くらいは見ればわかった。
一度だけ、無理やり病院に連れて行った。どこまで学校が介入すべきか、サチがアルパを病院に連れて行っても良いものか、それが問題だった。母親は良い顔をしなかった。マハダメが慎重だったこともあり、アルパを病院に連れていったのはその一度で終いにした。それ以来サチの足は、アルパの家から遠のいた。
目を開けた。
村と街とでは、まるで風景が違っていた。
村の家は全て木造で、風が吹けば倒れそうな安普請ばかりだった。見た目にも美しくはない。実際、嵐で家が倒壊することも珍しくはなかった。茅葺きの屋根は、金はなくとも人手だけ十二分に揃った村ではうってつけだった。葺くにも保つにも手間がかかるが、材料は金をかけずにいくらでも手に入った。
街には煉瓦造りの建物が多く、どれも堅牢に見えた。屋根はマンデルと同じ赤い柿葺きのものが多く、突き抜けるような青い空と見事な対照をなす。道を歩けば大半は村と同じように未舗装だが、中心を走る大通りだけは煉瓦敷になっていた。そこには街の歴史を物語るような深い轍が刻まれ、雨季が訪れるたびに、深いぬかるみとなって街の中心部の交通を機能不全に陥らせるという。
乾いた轍を車やバイクがガタガタ揺れながら走り抜けると、赤茶色の土煙を巻き上げた。そうして視界が遮られるたびに、黄昏時のように誰彼の区別がつかなくなった。そうは言っても、街にサチの知り合いは少ない。シャントとディーマを除けば、行きつけの商店主と役場でチーフと呼ばれている嫌味な男だけだった。
土煙が晴れ、サチは歩き始めた。
大通り三ブロックほど下ると、
見覚えのある少女の姿を見つけた。小柄で細身、長い黒髪、土地の人と同じく赤茶けた肌の少女が、まるで飛び立つ小鳥のように高い笑い声をあげながら、軽やかに駆けていった。その背中はマンデルとは正反対の、村へと続く細い路地へと消えた。赤茶けた煉瓦塀は所々崩れて、道に点々と転がっていた。欠けた塀の一部から、彼女の黒い頭が覗いて見えた。サチは後を追うようにして赤茶けた煉瓦塀の角を曲がった。誰もいなかった。
路地の片隅で、黒い大きなビニールが風を孕んでふくらんでいた。錆びた鉄のようなにおいがした。
「サチさん。皆さんはまだ集まっていないようですよ」
遅れそうだと思い急いだものの、二人はまだ来ていなかった。マハダメは微笑し、窓の外の澄んだ空を見ていた。去年は洪水があったから今年は
職員室の白い内壁の一部は、赤い煉瓦が剥き出しになっていた。窓ガラスはない。ボールが当たって割れた時、縁で怪我をしないようにと窓ごと外してしまったのだ。風が強いと雨が吹き込むせいか、木枠は既に腐食していた。レンガの重みで上部がたわむが、なんとか崩れずもちこたえている。それもおそらく時間の問題で、今年の雨季に充分な雨が降れば、もはや耐えられないだろう。
「集まったら、時間を守っていただけるようもう一度二人にお伝えします」
増設予定の隣の教室の外では、竹と
煉瓦を積み上げて壁を築き、木材で天井と二階の床に薄い板を張って、机を並べる。一階は地面をならして椅子や机を並べればおしまいだ。
剥落する壁や崩れ欠けの梁を見るたび、この粗末な陋屋を増築するなど無謀だったのではないかとサチは思った。学校に通いたいと願う子供は増える一方だった。待っていたら、彼らは子供ではなくなってしまうのだ。やらない、という選択肢はなかった。
「いいんですよ、サチさん。私たちにはお金はなくとも、時間がたくさんありますから」
マハダメは一度サチに向けた視線を窓の外に戻した。
校庭では子供たちが高い声をあげて駆け回っている。髪と制服がびしょ濡れの男の子が、女の子の後を追いかけている。
学校に上下水道はない。簡易井戸だけは村人の協力で
「すみません。何もできずに時間がだけが過ぎていくのがもどかしくて」
女の子に追いついた男の子が
「今年もグプタが倒れました。私がこの土地に来てから五回目のユト祭なのに、一度だって倒れずに街を巡り終えたことがありません。私は
ふわっと冷たい風が部屋に吹き込み、汗に濡れたサチの額に触れた。
真夏でも三十度を超えることはめったにない高地で、今年、三十五度以上を頻繁に記録した。
西から吹く季節風が蛇行しながら海の湿った空気を抱きこんで北の山脈にぶつかり、一帯に雨をもたらす。そのため、山脈沿いの南側は緑豊かで、北側は荒涼とした乾燥地帯となる。例年であれば既に雨季に入る時期だが、今年は激しい雨がザッと二度降っただけで、日照りが続いていた。
マハダメは長い息を吐いてから、おもむろにサチのカップに紅茶を注ぎ足した。
「サチさん。あなたは今までここで何を学んだのですか?」
シカナの声が届かなかったのか、窓の外で二人は柄杓を奪い合っていた。シカナが再び、声を荒らげた。二人はピタッと動きを止めると、いかにもばつが悪そうに肩をすぼめ、井戸の方へととぼとぼ歩いていった。
「サチさん。ここは学校ですよ。学ぶのは、子供たちだけですか」
紅茶の表面に窓の外の空が映っていた。サチがカップを手に取ると、その空はたちまち崩れ、口の中へとするする吸い込まれていった。
「やあ、おまたせ」
約束の時間を二十分程過ぎた頃、ようやくディーマとシャントが現れた。
焦る様子も見せずに、安穏とした足取りで職員室へと入ってくると、ドカッと音を立てて腰を下ろした。遅れたにもかかわらず、悪びれるところが少しもない。
ディーマは中肉中背で眼光鋭い三十代の医師で、富裕な家系に育ち、サチとともに周辺の村々の医療支援に従事していた。単なる経済的な豊かさだけでなく、英国式のノブレスオブリージュも備え、教育や医療支援の他に、食料問題や環境問題にも取り組む多忙な紳士だった。
シャントは胡麻塩頭で恰幅の良い六十代の元公務員で、ふくよかな見た目のとおり温和な性格で、警察署長を親戚に持つなど役人との繋がりを多く持っている。学校の建設や寄付を募る際に貢献しただけでなく、マハダメが苦心した校舎増設の件も、シャントが州都の知り合いに話を通すだけで解決した。多彩な人脈を持つ人たらしだ。
富と権力と人脈。力強いとは思いながらも、サチは二人に手を焼いていた。
「二人とも遅いです。十五分遅れですよ」
怒気を含んだサチの語調に、ディーマはちらと腕時計を見た。腕時計をしているのはサチとディーマだけだった。
「すみません。午前の診療が長引いてしまいまして。まあでも、時間はいくらでもありますから」
ディーマをサチが睨みつけた。
鷹揚とでも言えば聞こえは良いのだが、サチの頭に浮かぶのは、大雑把や怠慢という言葉だった。
「私はちゃんと、時間通りだったんですよ」
シャントがすかさず責任転嫁し、ひとり追求を逃れようとしたが、当然サチの鋭い視線は彼にも向けられた。彼は肩をすぼめ、助けを求めるようにマハダメの方を見た。彼女はなにも口にせず、ただ微笑していた。
サチは立ち上がって手のひらをテーブルにつき、一から十まで数字をかぞえながら深呼吸をした。
——冷静に。落ち着け。冷静に。落ち着け。
頭に上った血が急激に下りていくのがわかる。他の三人にはわからない言葉で、小さく唱える、自分だけの呪文。
——怒りや悲しみだけでは誰も救えない、怒りや悲しみだけでは誰も救えない、怒りや悲しみだけでは誰も救えない。
脈動が落ち着くのがわかると、最後にもう一度深呼吸し、腹に力をこめ、声を低めてゆっくりと話し始めた。
「二人がこうして遅れるのは、一度や二度ではありません。今日は大切な話し合いだと前もって伝えたはずです。学校運営に関わる重要事項について話し合うために、私たちはこうして集まっているのです。単にお茶とお菓子を楽しむために集まっているのではないのですよ」
空気がじんわりと湿り、微かな重みを帯びていた。そのせいか、言葉はふわふわと浮かんで届かない気がした。平静を保とうと、さらに大きく呼吸した。
「二人はもう以前のような単なる支援者ではなく、運営者であることも忘れないでください。アルパの今後の人生が私たちに行動如何にかかっているかもしれないんですよ」
語気を強めたサチの声に、三人が一斉に顔を上げた。
窓から冷たい風が吹き入り、背筋に寒気が走った。窓の外には分厚い雲が垂れていた。
——雨が降る。
土地になれたせいか、肌感覚やにおい、鳥や虫の声の様子の変化を敏感に感じ取るようになっていた。雨が降る、それはわかるのに、サチには雨を降らせる力はない。
「皆さんご存知の通り、アルパがずっと学校に来ていません。授業に出ていないだけではなく、井戸で顔を合わせることすらなくなりました。つまり、それだけ学校から遠ざかっているということです。その状況を理解していますか。二人には危機感を持って——」
「そのことですが、サチさん」
マハダメが熱のない声で遮った。
部屋が暗くなった。太陽が分厚い雲に隠れ、光が吸い込まれて消えた。
背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。
待ち望んでいたはずの雨が降る。それなのに、腹の底に鋭い刃を刺しこまれたような感覚が沈んだ。目を閉じ、耳を塞ぎ、逃げ出したくなる。違う、これは私が望んだ世界ではない、見たかった世界ではない。違う。救えるはずの命だった。救うはずの命だった。違う。こんなはずじゃ——。
「皆さんが集まってからお伝えしようと思っていたのですが」
マハダメは落ち着いていた。去年の洪水で、村の作物の収穫が半減した時も同じ。三年前の日照りで、学校運営どころではなくなった時も同じ。微かに悲しみをにじませながらも、受け入れてしまう。
どうして。見たくない。聞きたくない。なにも——。
「昨日、アルパが亡くなったそうです」
ディーマは深く黒い瞳を閉じ、静かに祈りを捧げた。シャントは予期していたのか「そうですか」と一言だけこぼし、ディーマに
窓の外で、風が轟々と唸っていた。
「サチさんも、アルパのために祈りを」
サチをそういって促してから、マハダメも手を合わせ、目を瞑った。
マハダメの声は、サチには届かなかった。テーブルについた彼女の指先はかたかたと震え、後悔が黒い波になって押し寄せた。
——何故。何を。あの時。もし。であれば。でなければ。過去。未来。だったのに。ではなかったのに。運命。宿命。支援。救済。無力。無力。無力。アルパの生きた世界。生きている世界。生きるはずだった世界。可能性。救えた。救える。救えなかった。希望。絶望。祈り。
「どうして助けられなかったのですか」
乱れた呼吸が、自然と言葉になって出た。自らの口から吐かれた言葉の意味を噛み締めるうちに目頭が熱くなるのを感じ、思わず天井を見上げた。
情動に流されてはいけない。一時の激しい情動に流されては、それこそ救える命が救えなくなる。ここで崩れたら、今まで培ってきたものが一挙に崩れ去りそうな気がした。
涙を堪えた。
『神よ、変えることのできないものを
——神なんて信じない。神も、私も、雨を降らすことはできないではないか。でも、私たちは、私たちの力でアルパを救うことができたはずだ。祈りなんて信じない。願いがかなうわけがない。行動だけが、私たちを救うことができるのだ。
「サチさん。まずは彼女のために祈りを捧げましょう」
「……はい」
サチは手を合わせ、目を瞑った。カン、カン、とトタン屋根を打つ雨音が聞こえた。
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