虎の背には翼がない
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第1話 土
崩れた壁から赤茶けた
曲がり角で
迷信だ、とサチは独り
瓦礫を掘り起こそうと駆けていく男たちの一人が足を止めると、振り返ってサチを見た。彼女は気付かぬ素振りで目を
——どうせ土煙でなにも見えない、見ようとすること自体、無意味だ。
金銀の象嵌や螺鈿で派手に飾られた
そんなことあってたまるか。と、そう思うのもこれで五度目だった。
サチはふと、目と鼻の先のマンデルを見上げた。
軒下から重なる九層の赤い
大通りの東の端から見て、三つの輪がまっすぐに並んでいた。西から東に向かって風が吹いている証拠だ。雨を運ぶのは南南西ないし南の風だから、春分に西風が吹くようでは、ユト祭の言い伝えもあながち迷信ではないのかもしれない。
「残念ですね」
サチは隣にいた老人に話しかけた。
立ち込める土煙で山車の衝突したあたりは見えなくても、結果などわかりきっていた。今年もグプタは倒れた。土のにおいに血の混じるような気配を感じるのは、行き過ぎた想像かもしれない。だが、今年も駄目だったということだけは、瞳が濁る老人にとってすら、明白な事実だった。
「虎を創り
老人は無愛想に
皺だらけの顔に抜け落ちた前歯、虱が蠢く縮れた白い髪、下着の上から垂らしたボロボロになった青い前掛け、爪の湾曲した指を覗かせるスリッパのような靴。地面に置かれた小さな竹籠には、数枚の硬貨が散らばっていた。
「どういう意味ですか?」
祈る老人に尋ねたが、彼の乾いた口からは、ざらざらと土の混じったようなくぐもった
サチもは彼を真似てもう一度手を合わせてから、ゆっくりと目をつむった。
土の匂い。
母国の田舎で嗅ぐ湿った草の匂いとは違う、乾燥した荒野の土の匂い。
人々の足音。喧騒が近づく。
唇をなめ、口の端を噛み締めると、じゃりっと砂の感触がする。鉄の味がする。荒涼とした不毛の地に吹き荒れる乾いた風が、唇が切った。自分の血の味か、土の味か、区別がつかない。
束の間、残酷な現実が遠ざかる。赤茶けた土は、鉄を多く含む。人や獣の血と同じ。この土は、命を
あらゆる巡りの一部として自分がそこにあるだけ。生きるも死ぬも、純に等価にそこにある。
他者の死など、ありふれた日々の一断片に過ぎないのだ。
サチは目を開いた。
視界を覆っていた土煙が
赤茶色の崩れた
汗が煉瓦を濡らし、雨が降ったような黒い染みが水玉模様を描き出していた。水を吸った煉瓦の色は、男たちの深い
一方で煉瓦を崩し、一方で煉瓦を積み上げる。集団の動きは、途方もなく不毛な作業の繰り返しに見えた。サチが横を見やると、先程の老人はいつの間にか立ち去っていた。
口の中ではまだ血の味がした。サチは路肩に唾を吐いた。
人々が一斉に声をあげた。
歓声か、とサチは土煙の向こうへと目を見張った。
男たちのシャツはびっしょりと汗で濡れ、それもまた、赤茶けた土に染まっている。赤。赤。赤。同色で埋められた世界はまだ土煙でぼやけて輪郭がかすんでいる。よく見えない。
さらに土煙が晴れる。
一人の男が何かを引っ張り上げた。風が高く吹き抜けた。ようやく土煙が完全に晴れる。筋張った赤茶色の太腿の隙間から、一本の細い腕が覗いた。澄んだ空には雲ひとつない。蒼天。太陽が真上から菩提樹の緑を照らす。見えた。溢れる赤の中で力なくうなだれた細い腕は、黒く
「どうでしたか、ユトのお祭りは」
マハダメがサチの目の前に置いたステンレスのカップは、十年以上も前にこの地を訪れた山岳隊から譲り受けたものだという。茶渋で汚れ、見るからに年季が入っていた。こうして午後に紅茶を煎れる習慣は植民地時代の名残で、かつての支配者への反発からコーヒーばかり飲む者も多いが、マハダメは頓着しなかった。狭い職員室はしばしば豊かな茶の香りに満たされ、サチの心を落ち着かせた。
「何人か亡くなったみたいです」
サチが素っ気なく答えると、マハダメの黒い瞳がしかと正面を見据えた。
長く濃いまつ毛。肌は浅黒く、顔立ちは西洋人というより、サチの国の人に似ていた。鼻筋は通っているが深い彫りはなく、どこかのっぺりとしている。黒かったはずの髪はとうに色を失ってはいるものの、白髪というにはあまりに鮮やかに空の色を反射していた。そのせいか、彼女は年齢よりも若く見えた。
「では、今年も倒れたんですね」
平生と変わらない、低く穏やかな声だった。
「去年よりはましです。倒れたのは最後の角ですから」
「……そうですか。惜しいことです」
マハダメは目を細め、窓の外の街の方角を睨んだ。
街一番の高さを誇るマンデルも、村からでは見えない。だが、祈りを捧げる際には必ずマンデルに向かって祈りを捧げる。村人なら誰でも正確な方角を把握していた。それだけではない。豊作の年には、作物までもが同じ方角に頭を垂れるため、人々は一層信仰を篤くする。マンデルを挟んで反対の村では、作物はそこに対して背を向けることなど、少しも知らずに。
グプタは
四世紀頃、東から谷底に沿って盆地にたどり着いたプルブと呼ばれる人々が、てんでんばらばらだった村々を統一したことが、国家の起源とされていた。
歴史の例に漏れず、栄枯盛衰、種々様々な王朝が建っては廃れを繰り返し、十九世紀の植民地時代を経て、二十世紀に民主制を樹立したものの、二度に渡り王政への復古がなされた。後に、現在三度目の民主制が確立された。
グプタ信仰は、プルブの流入以前からあったことをトラン遺跡の碑文が証明している。『乾きを知らぬ泉を、グプタを以て天に貫き止めんと欲す』というその文言は、今でも祭りの際、祝歌の歌い手であるアカシキアバージによって歌われる。
プルブの流入と共に押し進められた階級制度と階層的な神々の信仰を
マハダメは自分で
公立学校ではないことや海外から資本を受け入れていることが手続きの障害となるが、原因は単にそれだけではない。廃止された階級制度の名残や性差別が如実であるこの土地においては、マハダメやサチの独力で解決できることは少なかった。
シャントの手を借りざるを得ない。
元公務員の彼は、村の知恵者に過ぎないマハダメや、数年暮らしただけの外国人のサチに比べ、遥かに人脈に長けていた。
欠けているのは公正な手順ではなく、コネなのだ。
行政手続きの決定権を誰が握っているか、袖の下をいかほど掴ませれば十分か、どのような根回しが必要か、そういうことに関して、シャントは傑出していた。
彼なしでは学校設立は不可能だった。だが、それを思うたびにサチは胸につかえるものを感じた。マハダメがすんなり不正を受け入れるのも腑に落ちない。援助のために法を犯すのは、どう考えてみても矛盾していた。正しいことのために悪をなす。必要悪を子供に説明するために、彼女はどんな言葉を選ぶのだろう。彼女は子供たちにそれを、説明することなどできるのだろうか。サチ自身、疑問をマハダメにぶつけてみたことはなかった。彼女は資料に目を落とし、真剣な表情で一つずつ文言の不備がないか確認していた。甘く煮た黒豆のような艶やか瞳に、書類の影がうっすら映じていた。今週中に州都を再び訪れる、つまり、今日のうちに仕上げる必要があった。
キーっと、にわかに職員室の屋根で甲高い声で叫んだのは、空色風琴鳥の一種であるニラカシメパチと呼ばれる鳥だ。紺や藍に近く、特に翼の付け根は夜のような色をたたえていた。黒い瞳の脇には、東の空に日の差すような鮮やかな橙色の円が滲み、鶏鳴がわりに朝の訪れを告げるといわれていた。
だが、とうに正午を過ぎていた。
「きゃははは」と、隣の教室から子供たちの笑い声が聞こえた。
シカナが冗談でも言ったのだろう。彼は唯一村出身の教師で、居丈高に振舞うシャントの物真似をしては、よく子供たちの笑いを誘っていた。
低姿勢なシャントは、何故か子供たちの前だけでは尊大に振る舞った。マハダメは、シャントは照れているのですよ、と言っていたが、サチにはそうは思えない。それだけに、シカナの物真似には、サチも子供たちと同じように笑った。
「ところで最近、アルパを目にしませんね」
子供たちの哄笑にアルパの声だけが欠けているのに、マハダメが気がついたのかと思い、サチも密かに耳を澄ましてみた。キャッキャッという矢のように鋭い子供の笑いが束になって、アルパどころか、誰が教室で笑い声をあげているかすらよくわからなかった。
あるいはマハダメならあり得るかもしれない。聴力が衰えるには早い。それどころか、マハダメはサチよりもはるかに
「家が大変みたいで。お母さんの体調が優れないようです」
アルパが初めて自分の名前を書けるようになった時のことを、サチはよく覚えている。「サチ。これ、私の名前。今度は弟とお母さんの名前も書いてあげるの」雨季の前に吹く冷たい風のような、耳に心地良い美しい声だった。彼女の汚れた手で握る黄色い紙には、うねうねと波打つ拙い文字が書かれていた。「お父さんの名前は書いてあげないの」とサチが尋ねると、アルパは答えないまま、逃げるように教室を出ていった。
マハダメは目を通し終えた書類から順番にサインし、右に揃えていった。書類はすぐ山になり、厚みを増していく。手の触れた場所には赤茶色の指の跡が楕円形に残っていた。古い書類の赤茶色の跡は、元々模様が描かれていたかのように違和感なく紙に馴染んで、認可が下るまでの長い歴史を物語っていた。
この土地ではありとあらゆるものが赤茶色に染まっていく。教室の白漆喰で塗られた内壁も子供たちが触れるせいか、いつしか赤く変色していた。書類や壁だけじゃない、サチの肌も、道も村も街も、行き交うヤギの毛すらも、鉄の錆びたような赤茶色が飲み込んでいく。それが、この土地の色だ。
強風が吹き、天井のトタン屋根がバタンと跳ね上がった。風が変わった。新しい季節を予感させる、南西からの風だった。
「アルパが、どうかしたんですか」
サチは唾を飲み込んだ。もう一口飲もうと思っで握ったカップは、とうに空っぽだった。仕方なく、そのままテーブルの上にそれを戻した。
「サチさん。アルパは、学校が大好きなんですよ」
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