死者の祈り
あの日と同じように建つ寂れた小屋を、夜闇が包む前に見つけられたのはただの僥倖でしかなかった。
確信もなく、あてもなく山道を歩いた先に偶然それがあったに過ぎない。
老人が死に、人が住まうことのなくなった小屋に、人の気配など感じられなかった。
人はいなくても、彼がいる。
根拠なんて何もなかった。ただここしか私の思い付く場所がなく、ここにいてくれ、という願いだけがあった。
祈りとともに開け放ったドアの先に、
彼は、いた。
かつて老人のいた場所で、彼はそばに置かれた湯呑みとともにいた。確かにそこにいる。あの頃と変わらない子どもの頃のままの、だけど損傷だけは以前よりもひどくなった姿で。
私にとっては、感情のある眼を持った彼という死者は、その湯呑みと同じ、物、ではないのだ。
「ここに、いたんだ」
「久し振り……? もう時間の感覚も曖昧なんだ。あれからどのくらい経った?」
「あれから八年くらい経った」
「もうそんなに経つのか。老けたな」
「まだ若者だよ。そんなことはいいんだ。まず聞かせてくれ」
「何を?」
「言わなくても分かると思うけど、ちゃんと言うさ。生きてたんだね」
「生きてはないさ。死者なんだから。もしも心臓が動いていなくても生きているのなら、話は別だが」
彼はちいさく顔を歪ませた。笑顔を作りたかったのかもしれない。のどもとがすこし動いた。かつて大きな空洞ができ、頭部を支えることのできなくなった首が、今はしっかりと繋がっている。縫合したような痕が痛々しく残っていたが……。
「また、その話……。ぼくにとって、今、上村が、ここにいる。そういう意味の、生きていた、だよ。難しく考える必要なんてない」
「偉そうに。ひとりだけ大人になりやがって」
「ぼくは確かに埋めたよ。上村を」
「あぁ。あの後、掘り返されたんだ。じいさんに。あのじいさん、他人どころか自分まで死体にしちまってな。それも俺のように、考えるし、感情も持ったままに。そしてなんのつもりか、俺を小屋まで運んで、言ったんだ。『俺とともに暮らせ。恩を返せ』と、な。自分勝手なじいさんだ。それから俺はずっとじいさんの茶飲み友達だ」まぁ飲めないんだがな、と上村くんがそばの湯呑みを手で揺らした。「そのせいで多少、じいさんのしゃべりかたと似てきたかもしれんな」
「今、あの人は」
「もともとの年齢もあったんだろう。とっくに朽ちて、話すことも動くこともできなくなったから、本人の事前の意志通りに埋めた。土の中で今は何を思っているんだろうな」
悲しみの感じられない表情で、彼が言った。彼とあの老人が結局どういう関係で終わりを迎えたのか、家族のような関係だったのか、それともまったく別の、反目し合う関係だったのか、私には全然想像も付かない。
「……と、俺の話はいい。問題はお前だ」
「ぼく……?」
「そうだ。なんで、またここに来た」
「死のう、と思った」
「それは好きにすればいい。俺がとやかく言えることでもない。ただ……何故、この場所を選んだ」
「ずっと気に病んでた……。だから死ぬ時は、上村のところで死にたい、と」
「罪悪感か? それは本心か?」
「あぁ……」
上村くんがじっとぼくを見る。
「俺にはそうは思えないな。もう一度、聞く。その罪悪感は本物か?」私は頷けなかった。「俺には、死の理由に都合よく俺の存在を引っ張ってきたようにしか見えないがな。まぁ死にたいなら死ねばいい。誰も止めないさ」
「なんで、そんなこと――」
反発を上げようとした私の声を彼がさえぎる。「お前がまだ死を恐れているように見えるからだ。もう長年、死者でしかない俺にとっては、恐れるようなものでもないが。生きるために、死を、探してはいないか?」
死という曖昧な概念に対して、恐怖なんて持っていない。持っていないはずだった。
「まだ早い」
「どういうことだよ」
「死者としての先輩の言葉は聞いておけ。まだ死ぬには早い。もっと覚悟を持ってから、戻ってこい。その時はいつでも付き合ってやる」
分かったように言いやがって。
小屋を出た私は心の中で毒づいた。辺りは真っ暗になり、小雨が降っていた。きっと今、私は泣いている。だけど、夜の闇が、すこしだけ降る雨が、誤魔化してくれるはずだ。
私のそれ以降の人生を彼は何も知らないはずだ。ただ会話のやりとりだけで気付いたのだろう。自分自身で認めたくなかった、浅はかな真意に。
初めてできた彼女からのひどい仕打ち付きの失恋、大学での交友関係をきっかけに負った借金、ブラックバイトの過酷な労働環境による精神の摩耗。私の死をそんなありふれたもので片付けて欲しくなかった。
特別な理由が欲しかった。
結局、彼という存在を自分の死のための道具、物、として扱おうとしていただけなのではないか。
『まだ早い』
その言葉を素直に受け止めたわけじゃない。
だけど、心臓が動いていても動いていなくても、今のところ、私たちはまだ、生きているみたいだ。
その真実が、
私を、もうすこしだけ……、という気分にさせた。
私が殺した死体 サトウ・レン @ryose
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