私が殺した死体

「出て行け!」


 と老人は、私ではなく、上村くんに向けて言った。


 それが上村くんである、ということに、本来なら私は疑問に思わなければいけなかった。それは同時に死者を動かし、使役する秘術なんて馬鹿げた話を信じるということでもあるのだから。


 しかし彼を殺した実感を持つ私にとって、彼が生きていた、と言われるよりも、死者として新たなアイデンティティを得た、と言われるほうが腑に落ちてしまうのだ。願いとしては、生きていて欲しい、と思っていても。残念ながら。


 触れるほど至近距離にいた彼が、老人を一度睨みつけた後、私からゆっくりと離れていった。


 そして彼が、小屋から出て行く。


「彼は、どうなるんですか?」

「不要な、棄てた死体だ。山を彷徨いながら、そのうち朽ちていくだろう」


「山からは下りないんですか」

 できるだけ普通にしゃべることを意識していた。怖い、という想いは間違いなくあったが、老人には弱みを見せないように心掛けていた。


「その必要が無いからな」

「必要があれば、下りることもあるんですか?」

「例えばお前を襲って連れてきたように、な」

「死体がぼくを運んできた、って言ってましたよね。やっぱりそれは……その……彼がぼくをここまで……?」

「他に何がある?」


 もちろんそれしか考えられないことなど分かっていた。それでも実際に言葉にされると、その事実に息苦しさを覚えた。


「それはぼくを殺すために?」

「さて? あれの本心なんぞになんら興味はないが、殺すならその場で殺しているだろうな」


 また老人が不快な笑みを浮かべた。


「だったら――」

「聞いてみたら、どうだ?」老人は小屋の破れたドアに目を向けた。「今はまだすぐそばにいるだろうさ」

「聞くって……? しゃべれるの?」


「本当に儂の死体として、どこまでも失格だな」


 私は老人を残し、ドアから外に出た。辺りは暗く、見上げれば瞬く星々が点在していた。小屋の外側に取り付けられた明かりのおかげで、すこし離れた場所にいる彼の背中を捉えることができた。


 私は駆け、彼の背中を追った。


「上村!」その声が聞こえないのか無視しているのか、彼は私の呼び掛けに応じなかった。私はもう一度、できる限りの大声で彼を呼んだ「上村!」


 立ち止まった。

 しかし振り返ることはなく、ただ私にはそれが待つ仕草に見えた。

私がその場に留まる彼のそばまで近付いたところで、

「消えろ!」

 と彼の背中越しから声が聞こえた。


 声音は変わらないが、ゆっくりとちいさな声だった。


 言葉は辛辣なものだったが、生きている頃と変わらない彼の声音に、私は思わず泣きそうになってしまった。彼がふたたび声を発してくれた。私は自分の行為を棚に上げながら、その事実にかすかな安堵を覚えていた。


「なんで殺さなかったの?」

 回りくどい言い方はやめることにして、単刀直入に聞くことにした。

「殺されたかったのか?」

「違う、けど……」

「殺したいほど憎いさ。殺すつもりで、お前のところに行った」

「だったら……」私は自分で自分が何を言いたいのか、よく分かっていなかった。殺されたいのか。殺されたくないのか。


「俺の心臓は今、動いていない。なぁあの時の話、覚えてるか?」

「心臓が動いていたら、生きてる証拠になるのか、って話?」

「あぁ。俺は考えることができる。しゃべることができる。動くことも可能だ。だけど俺の心臓は動いていない。なぁ俺は生きてるのか?」

「分からないよ。そんなの」

 鼻で嗤うような相槌が打たれた。彼は、どんな表情で私の言葉を聞いていたのだろうか。


「そう。分からない。俺はお前に殺されて、でも生きてて……そのおかげで死を知った。だけど死んでもその答えは変わらないんだ。死って、よく分からないんだ。俺はお前を殺そうと思った。俺を殺そうとしたお前が憎いからな。だけどこんなよく分からない死にお前を巻き込んで、俺の憎しみは晴れるのか。そもそもお前に殺された、ということはそこまでの恨みなのか。考え始めると、分からなくなるんだ。死んだら、こんな悩みも何もかもが無くなると思っていた。死んでも、無くならなかった」


 振り向いた彼の目に憎しみはなく、ただ悲しみのみがあった。


 私が口を開こうとしたその時、

「隠れろ!」小声で叫ぶように彼が私の身体を掴んだ。茂みに引きずり込んだ私に、彼が「しゃべるな。あれを見ろ」と言った。


 人魂のようなものを幽かな明かりにしながら行進する死者の一団が、そこにいた。


 まるで幼き日の私の妄想を具現化したようなその光景に思わず息を呑んだ。ただその時の妄想との一番の違いは骨だけの死者ではなかったことだ。彼と同様、外見のそれは人間に近く、滑稽さは感じられなかった。


 死者の一団が老人のいる小屋へと向かって歩いていくのを呆然と見ていると、彼が「追うぞ」と言った。



     ※



 小屋の周りを死者たちが取り囲んでいた。


 近付くと、それが死者である、という実感が増す。彼ひとりだけであれば耐えられないほどの臭いではなかったが、集団として放たれる臭いの刺激はかなりのものだった。


 死臭のきつさに思わず鼻を抓んだ私に、彼が小声で、

「生きたいか?」

 と言った。

「生きたい」


「だったらこの坂道を死ぬ気で走れ。必死で山を下りろ。あいつらはあのじいさんに使役されているような奴らじゃない」

「なんでそんなことまで知ってるの?」


「動けるようになった時、じいさんが色々教えてくれた。まぁその後、必要ないと捨てられたけどな。一応気に掛けてはくれたんだろ。この山で活動する上でのことを。とにかくお前は逃げろ」

「上村は?」


「人間の世界にこの姿で戻れる、と思うか」それに、と彼が続ける。「それが俺にとって良いことだったのかは分からないけれど、またこの身体で動けるようになったのは、どんな理由であれ、あのじいさんのおかげだからな」

 彼は決して自分のことを蘇ったとは表現しなかった。

「そんな……」


「何故、そんなに悲しそうな顔をしているんだ。お前は俺を殺して、見捨てた人間のはずだ。悲しむ理由などないはずだろ。ほら早く」

「それは――」


 言い淀みながらも返そうとした言葉は、痛みによって遮られてしまった。それは不意に、後ろからやってきたものだった。


 私の身体が宙に浮く。首の後ろの激痛とともに、もがくように後ろを振り向くと、そこには大柄な老人の死者がいた。


 まさかこんな形で再開することになるとは思っていなかった。


 顔の損傷はひどいが、すぐにそれが祖父だと分かった。祖父はしゃべることもなく、その傷んだ顔に感情を貼り付けることもなく、私を見ていた。上村くんとはまったく違う、何を考えているのかまったく分からない表情していた。私を孫だと認識もしていなかったはずだ。


 上村くんが祖父の顔面を殴った。


 顔に拳がめりこみ、祖父の死体が身体をのけぞらした拍子に、掴んでいた手が私の首から離れた。


 尻もちを付いた私は立ち上がり、祖父から距離を取ろうとしたが、すぐにまた祖父の手が伸びてくる。しかしその手が私に触れることはなかった。祖父の腕を掴んだ上村くんがその腕を捻り、引きちぎったからだ。片方の腕が地面にちぎれ落ちたが、痛みを感じる様子もなく、もう片方の手を私へと伸ばしたが、これも私に触れる前にふたたび彼が祖父の顔面を殴った。さきほどよりも明らかに強い力がこめられたその一撃で、祖父の首から上がぽとりと地面に落ちた。


 視界を失ったせいか、胴体だけの死者がぐるぐると目的も失い、漠然と回り始める。


「良いか。もう一度、言う。とっとと逃げ――」

 上村くんの言葉が途中で止まった。


 私たちの周りを数体の死者が囲んでいたからだ。その全員が無感情に私たちふたりを見ていた。


 そのうちの一体を上村くんが殴り、またその胴体だけの死体が目的を失う。


 そのおかげで道が開けた私たちがその場から走り出すと、ちょうど開け放たれた小屋の中が目に入った。そこにはすでに事切れていると分かる、血だらけになった老人の姿があった。


 しかし死者の群れが休むこともなく私たちを追い掛けてきて、老人のその死についてゆっくりと考える暇はなかった。


 上村くんは当然私よりも老人の死にショックを受けていて、立ち止まろうとしたが、私はそんな彼の手を引っ張った。


「行こう!」

 そんな私の眼の前に鋭く一本の手が伸びてきた。それは彼の手ではない。彼の手は私が今掴んでいる大柄なわりに小さな手だ。


 私は思わず悲鳴を上げた。

 彼の背後から、彼ののどを突き破って、別の死者の手が目の前にあった。

 上村くんは即座に振り返ると、相手の頭部を打ち砕いた。


 私は恐怖の中で、ほとんど何も見ないようにしながら、彼の手だけを引っ張って、山中を分け入るように、道を闇雲に進んだ。それは彼の指示した下り道ではなく、ひどく険しい山道を進む行為ではあったが、方向を修正する余裕が私にはなかった。



     ※



 そして十年近い月日が経った今、私は彼を埋めた場所にいる。ここで私の足は疲労で止まってしまったのだ。だが私の足よりも限界が近付いていたのは、彼だった。半分ちぎれたような首を、彼はなんとか手で支えながら、それまでよりもさらに掠れた小さな声で「俺を埋めろ」と言った。


「嫌だ。もう殺したくない」

「どうして?」

「理由なんて分からない」

「一度殺したのに、か。気にするな。一度殺した死体を殺しても、それは殺人じゃない。そもそも死者は死なない。朽ちていくだけだ。生きている人間よりもだいぶ後に、な。そうあのじいさんが言ってた。本当かどうかは知らないけど……。まぁ俺たちより死体に詳しいじいさんを信じてみよう。死体をあるべき場所に還すだけだ」


 私は泣いていた。

 そして彼は何ひとつ泣いてもいなかった。本来その立場は逆になるべきだったような気がする。


 死者の一団が追ってくる様子はなかった。


 私は暗闇の中、必死に手で地面を掻きながら、ひどく浅い穴を作った。

 彼は、死者は死なない、と言った。

 だけど私が彼を、また、殺したことに変わりはなかった。


 子どもながらにせめて死者にできることとして、地面に突き刺した墓標代わりの手近にあった板とともに、

 ここに埋まる彼は、

 


 しかしその死体は今も朽ち果てることもなく、土中にあるのだろう。


 私は夜明けに山のふもとを彷徨っているところを保護され、自宅まで警察の車で送ってもらったらしい。らしい、というのは、その時の記憶がまるでないからだ。すべて嘘だったのではないか、と思いたかったが、残念ながら上村くんは行方不明のままだったし、何よりも彼を埋めた時の感覚は自分の中ではっきりとしていた。


 私はそれ以降、死ぬ時は彼と同じ場所で死にたい、と、その想いをずっと抱えていた。


 それは罪悪感から来るものだったのかもしれないし、あるいはあの時、自分も死ねば良かった、という後悔だったのかもしれない。私自身よく分かっていないが、そういう感情があったからこそ死のタイミングだけは逸したくなかった。


 もうすこし、もうすこし時間が欲しい、と思っているうちに、私は二十歳、大人と呼べる年齢になっていた。


 


 その前に、もともとそのつもりはなかったが、彼の顔を一度だけ見たいと思った。私はあの頃のように、自らの手で地面を掻いた。その手が幼い私の手と重なるような幻を見ながら。


 しかし、あるはずの、


 私が殺した死体がそこにはなかった。

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