死体失格

 その夜、私は寝付けなかった。眠ろうとすると冬でもなく寒くもないのに、身体が震えてきて、私の眠りを妨げた。夜ご飯も食べず、自分ひとりの部屋にこもり、掛け布団に包まった私を、当然、両親は心配してくれた。


 もちろん私が彼にした行為に両親が思い至るわけもなく、しかし両親は私が塞ぎこんでいる理由をあえて聞き出そうとはしなかった。


 ここだけ見れば、無関心で冷たい親に感じるかもしれないが、私の両親はどちらかと言えば過干渉なタイプだった。今回は都合よく両親が勘違いしてくれただけのこと。


 祖父の死体を見たショックがようやく実感として伴ってきたのだ、と。


 だから気を遣って無視してくれたわけで、それは私にとって、とてもありがたいことだった。


 ベッドの中で私は、彼が急に「ひとを殺してみないか?」と言った理由について考えていた。なんで急にあんなことを……。あの言葉さえなければ、という恨めしい気持ちもあった。


 死が気になる、だから死体が見たい。そのためにひとを殺そう。


 本心ではなく勢いからの言葉だとしても、あまりに彼らしくない。短絡的で稚拙な思考だった。でもそれは、それほどに死が怖かった、とも言えるのかもしれない。


 深夜二時を過ぎても一向に眠る気になれず、私は窓を開けて、ベランダから外へ出た。


 思いのほかひんやりとした夜風が薄着姿の私には、とても肌寒く感じられた。


 私が向かったのは、彼を見捨ててきた公園だった。


 今更行ったところで何かが変わるわけではない。それでも不安で仕方なかった。


 公園へ行くまでの距離は決して遠くはないが、私の足取りはあまりにも重く、いつもの何倍も辿りつくのに時間が掛かった。


 犯人は現場に戻る、という心理状態だったのだと思う。


 公園に着いたら人だかりができているんじゃないか。周囲にパトカーがいっぱい停まっているのではないか。


 だけどそこには何もなかった。


 別に公園に人だかりができていることもなく、パトカーなんて一台もなかった。


 それで私の不安が晴れたかというと、何ひとつ晴れなかった。


 人だかりやパトカーはただの妄想だったとしても、倒れた彼だけは事実なのだから。誰も気付いていないのなら、今も彼はそこにあるはずで、無ければおかしいのだ。


 なのに……、

 そこには何もなかった。


 一瞬すべてが夢だったのではないか、と勘違いしてしまいそうになったが、そんな勘違いなど許さないというように、私が投げ捨てた石、草に付着したままの血が公園に備え付けられた明かりに照らされ、嫌でも私の視界に入った。


 死体が勝手に消えるわけがなかった。

 だとすれば考えられることはひとつしかない。


 上村くんは生きていたのだ。そして歩いて帰った。そうに、違いない。


 良かった……、と私はほっと息を吐いた。もちろん彼が生きていたとしても、私が彼を石で殴り、殺し掛けたという事実が消えるわけではなかった。それでも安堵の想いはとめどなく溢れてきた。


 すくなくとも自分は殺人者ではなくなった。


 上村くんに復讐されるかもしれない、というような、そんな新たな不安を覚えるのはもうすこし後のことで、この時点では最悪の状況を脱したことしか頭になかった。


 自分の部屋に戻ると、張り詰めていた糸が緩むように私はベッドの上に倒れ込んだ。


 眠っていたと気付いたのは、母親の声で起こされた後のことだった。新たな不安が兆したのは、この睡眠を経た後のことだ。


 見捨てるような行為を働いた私は、彼とどんな風に接すればいいんだろうか?


 私は今日、彼と会って無事に済むのだろうか?


 そんな悩みは杞憂に終わり、待ち受けていたのは想像もしていなかった展開だった。

 まったく予想できない展開だったわけではない。

 ただ願っていたのだ。


 生きた彼が学校に姿を現すのを。


 全校生徒が集められた体育館。台上に立った校長先生が感情を押し殺すことを意識した表情で、

「一人の男子生徒が行方不明になった」

 と告げた。


 彼は、どこにいるのだろうか。見当も付かなかった。


 しかし、彼はもう生きていないだろう、という確信だけはあった。


 お前が最初に抱いた感覚は間違いではないのだ、と石とともに彼の頭部にふりおろした私の右手の震えがそう告げていた。


 本当に死体は死んでいるのかな……? そんな彼の言葉がよみがえる。詭弁としか思えないその言葉が頭の中で何度もリフレインしていた。


 その日の帰り道、安全のために集団下校することになった生徒の一団の、私は最後尾にいた。


 その途中、私は背後から強い衝撃を受け、気付けば見知らぬ場所にいた。


 見たこともない小屋に私はいて、ひとりの老人が私を見ていた。知らない老人だ。


「ここは……?」

「知らんか? 近くの町の連中は、死者の棲む山なんぞと言っておるが」


 聞き馴染みのある言葉に、私は思わず息を呑んだ。



     ※



 絶対に近寄ってはいけない、と親戚や知り合い、特に年輩のひとたちからそう口酸っぱく言われていた場所がある。


 彼らは口を揃えて、「その山には死者が出るぞ」と私を脅すように言った。


 初めて聞いた時、私の頭に浮かんだのは骨だけになったものたちが、列を成し、歩く姿だった。イメージした屍の行列は、実際の絵にすればあまりにも滑稽なものだったが、幼い私を怖がらせるには充分だった。


 しかし幼少期に何度も聞かされるうちにその恐怖は薄れていった。それは、その山へ赴く自分の姿がイメージとして曖昧模糊とし過ぎて、身近な怖さに欠けたからだった。


 私は今、その山にいる、というのか……?


 何故、とその状況を受け入れられず、うまく言葉を発することのできない私の顔を、老人がじっと見つめた。


「よく分からない、という顔をしてるな」

「分からないよ」

「この山のこと知ってるんだろう?」

「聞いたことは、ある……」


 なんとか絞り出した声はひどく掠れて小さく、しかし、老人はしっかりとその声を聞き取ってくれたようだった。


「儂の死体がお前をここまで運んできたのだ」

「死体?」


 意味が分からずその言葉を繰り返す私を見て、老人が笑う。すこし嘲りを含んだその笑みがやけに癇に障る。


「ここはお前たちが言うところの、死者が棲む山、のふもとだ。そんな名前が勝手に付けられるくらいだから、死者がいるのは当然。そうは思わないのか?」


「ただの噂だと思ってる」今もまだ、という意味も込めて、過去形にはしなかった。


「火のない所に煙は立たぬ、とも言うがな」

 私は老人の言葉を聞きながら、必死で幼少期の記憶の糸を手繰っていた。だがその噂に実際にその山を行った者の話はなく、漠然としたものばかりだった。死者と生者を分ける境界がその山にはあり、そこから異界へ、死者の国を訪ねることができるというものだった。生者であり続けたいのならば、絶対に行ってはいけない、と。


「嘘、じゃないの?」

「この世に真実が存在するのならば、これは真実」


 老人は囲炉裏に置いてあった鉄製のやかんを手に取り、湯呑みに注いだ液体をずずっと啜った。


 その時、

 小屋の戸を破りながら、何者が駆けるように私に襲い掛かってきた。


 悲鳴を上げることもできない私ののどもとに彼の歯が触れる寸前、

「止まれ」

 と怒号が響いた。その声を発した老人は先ほどまでと表情も変えず、嫌な笑みを顔に貼り付けたままだった。


 ぴたり、と止まったそれは、青白い顔に、落ち窪んだ目、変形した頭部……と変わり果てていたが、

 間違いなく上村くんだった。


「上村!」

 そう叫ぶ私の顔を見る彼の目は憎しみに満ちていた。しかし老人の言葉に、言いつけを守る忠実な飼い犬のように動きを止めたままだった。


「この山は古くから此岸と彼岸を分け隔てる場所だった」黙ったまま私を睨み続ける彼など目に入らないかのように、老人が語り始めた。「彼岸に辿りついた者が此岸に戻ってくることはない。本来、あってはいけないのだ。しかし稀に道にでも迷ったのかこちら側に戻ってくる愚かな死者たちがいる」此岸、彼岸……当時の私は意味も分からずその言葉を聞いていた。「愚かな死者たちは愚かであるが故に凶暴で、生物を視認すれば見境もなく襲い出す。他人が何人死のうと私にはどうでもいいことだが、私は私の身だけは守らねばならんのでな」


「何、言ってるの?」


 そんな言葉を無視するように、老人は彼を指差した。


「アフリカの小国を旅していた頃、そこの呪術師から教えられた秘術は思いのほか役に立った。死者を思考もできぬ忠実な僕として使役する秘術だ」老人はそこに私が不在の、独り言のように滔々と語り続けた。その表情からは常軌を逸した危うさしか感じられない。「大概は成功する。思考する力も、すべての記憶も無くし、ただ動くだけの用心棒として、私の所有物となる」


「それって上村くんのこと……?」


「夜になると、いつも探し回っている。都合の良い死体を。今回も成功するはずだった。……ただ残念だ」老人は溜息をひとつ吐く。「この子は、お前への憎しみが忘れられず、人間的な思考を残したままになってしまった」


「憎しみ……」

 彼は一言も発せず、私から目を逸らすこともなかった。


「人間性を残した僕など、何の役にも立たんのだ。ただ命令通りに動いていれば、それでいいのだ。……だから私は死体を棄てたつもりだったんだがな。舞い戻ってきた。今度はお前を連れてな」その後、老人の投げやりに放った言葉がやけに耳に残った。


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