死体を捨てよ、町へ出よう

 過疎化が急速に進む地域に住んでいたこともあって、私の通っていた小学校はクラスが一クラスしかなく、六年間、毎日のように同じ顔触れとひとつの教室で過ごす環境は、ひどくつまらないものだった。変わらぬ日常を壊してくれる出来事を誰もが望んでいるように見えたが、その中でも特にその想いを強く感じる生徒がふたりいた。そのひとりが大野くんだった。


 大野くんは短気で、ガキ大将気質な男の子だった。

 大人しくしていられない子で、ときおり急に暴れ出したりして、クラスメートや先生を困らせた。私も一度彼に顔を殴られたことがあってからは、必要以上に関わらないように距離を取っていた。


 あれは祖父の死体を見てから三日後、久し振りに学校に登校した日だった。


「なぁお前の祖父ちゃん、殺されたんだって?」

 小学生とは言ってもこの年齢になれば、相手に配慮を覚える子も多くなってくる頃だが、それでもストレートに残酷な言葉を投げ付けてくる度合いは大人のそれと比べ物にならない。特に大野くんはそういう配慮が苦手だった。いわゆる空気の読めない少年だったのだ。これは本人に聞かなければ分からないことではあるけれど、実際のところはあえて読もうとしなかったのだろう。


 彼は、場を乱すことに快感を覚える少年だったような気がする。


「あぁ、うん……」

「あのクソみたいな祖父ちゃん。とうとうくたばったんだ」私の祖父のことなど大して知らないくせに、大野くんはそう言って笑った。「なぁ死体見たって聞いたんだけど、どうだった?」

「どうって、どういうこと?」

「だからぁ、あるだろ。怖かったー、とか、気持ち悪かったー、とか?」

「別に、ただの死体だった」

 私は執拗に絡んでくる大野くんに嫌気が差して、適当に答えた。

「なんだよ、それ。もっとなんかあるだろ」


「別に、そんなのないよ」適当にあしらわれているのに気付いたのだろう。私の冷たい反応に大野くんが苛立ってきているのが分かった。


 いつもの私ならその場を収めるために、どちらかが良いとか悪いとか関係なく私のほうから謝って、無理やり話を終わらせていたと思う。だけど茶化すような口調の大野くんに腹が立ったのもあるし、何よりもあの時の私にとって祖父の死は触れて欲しくないものだった。


 他のクラスメートたちと同様、腫れ物を扱うように接して欲しかったのだ。


「っんだよ、その態度!」

 と、大野くんが私の胸倉を掴むと、周囲のクラスメートたちが各々の会話を止め、私たちふたりに注目するのが分かった。


 仲裁に入ろうとする者はいなかった。


 誰もが息を呑んだように様子を見守っていたのか、教室は静けさに包まれた。当然の反応だ。私が彼らの立場だったら、同じ行動を取っていただろう。


 下手に出てしまいたい気持ちと絶対に謝るもんか、という気持ちが合わさり、ようやく振り絞って出てきた言葉は、

「うるさいな」

 という一言だった。


 そして言った後、彼の怒りに色を変えたその表情を見ながら、殴られることを覚悟した。


 その時、

「大野。うるさい」

 と私の背後から冷めた声が聞こえた。もう声変わりを終えたその低い声はちいさいが、明瞭に私の耳に届いた。


 顔を見なくても声で誰か分かる。


「上村……」大野くんはその声の主の名前を呟いた。徐々に私の服を掴む手の力が弱まっていく。そして彼は私から手を離すと、一度舌打ちして、教室から出て行った。


 上村慶吾は、二年前に大阪の小学校から転校してきた不思議な雰囲気を持つ少年だった。クラスで一番高い背丈に、大人びた声と口調。他者を寄せ付けないオーラを全身に纏い、何をするか分からない危うさがあった。


 日常の破壊。その感情の強さは大野くんの比ではないと、当時の私は感じていた。


「なぁ佐藤」

 上村くんが私のほうにつかつかと歩み寄ってきた。私は彼の首元くらいまでしか身長がなく、彼と話す時は自然と見上げる形になる。


 クラスメートの中には「大野くんよりも上村くんのほうが話すの、緊張する」という子も多かったし、特に大野くんなんかは上村くんに対して、特に苦手意識があるみたいだった。


 転校してきたばかりの頃、大野くんが彼に喧嘩を吹っ掛けてやり返された、という噂を聞いたことがあったけれど、真偽のほどは分からない。


 ただ私は何故か最初から苦手意識もなく彼と接することができた。それでも友達と形容できるような間柄ではなく、会話自体はすくなかった。


「ごめん。ありがとう」

「いや、そんなことはどうでもいいんだが」

「うん?」

「ちょっと放課後、話せないかな?」



     ※



 放課後、私は学校のそばにある公園に来ていた。数日前、寝坊で遅刻してしまったことに対する注意で職員室に呼ばれてしまった私は、夕方近くまで学校に残る必要があり、上村くんとは公園で待ち合わせることにしたのだ。


 中央に噴水が置かれた大きな公園だった。その公園奥の小高い丘の上に屋根付きのベンチがあり、上村くんがそこに座って待っていた。


「死体って、どんな感じだった」

「上村まで、大野みたいなこと言うの? 怒るよ」

 着いてすぐに上村くんからそう言われ、不愉快な気持ちにはなったものの、大野くんよりはずっと真剣な口調だったのでまだその言葉に平静でいることができた。


 祖父は殺された。


 それは祖父の死体を見れば一目瞭然のことではあったが、殺人という事実が実感として胸に迫ってきたのは、祖父の家を取り囲む警察官の一群が「殺人」の二文字を口々に言うのを実際に耳にしてからだった。


 後日、新聞には強盗殺人と書かれていたが、父はその言葉を信じていなかった。


「あんなに多くのひとから殺したいほど恨まれていた祖父が、別の理由で殺される、というのが、どうも信じられなくて、な」


 そう言って、父は苦笑いを浮かべていた。悲しんでいるという雰囲気はなかった。


「悲しくないの?」


「悲しい……? うん。そうだな。多少は悲しいよ。あれでも一応、長年一緒に暮らしていた父親だからな。でもまぁそれ以上に、当然の報いのような気もするんだよ。冷たいかもしれないが、親父は殺されても仕方のないような人生を送ってきたから」


 何度か私の家に祖父の件で警察が尋ねてきたが、警察から聞いたことに関して父は私に何も教えてくれなかったし、事件がそれ以降どうなったのかも、いまいち、分かっていない。


「悪い。……でも、教えて欲しいんだ。死体を初めて見た時、佐藤がどう思ったのか?」

「なんで、そんなこと聞きたがるんだよ」

「気になるんだよ……!」


 死、というものが気になる。


 この年頃になると多かれ少なかれ悩み出す問題だとは思うが、特に上村くんはその傾向が強かったのかもしれない。


 悩みの深さは大野くん以上だったように思う。


 その深い悩みに、何か不穏なものを抱えているような感じを抱いて、上村くんが大人びて見えたのかもしれない。


 でも彼は、ちょっとだけ悩みの多い、どこにでもいる少年だった、と今なら分かる。


 そしてそれを知っていれば、この後の悲劇は生まれなかっただろう。


 死体はどこか生きているような感じがする。

 これが祖父の死体を見た時に感じた率直な気持ちだった。しかし実際に言葉にすると、とてもおかしな言葉でもある。馬鹿にされそうな気がして、他人は言うつもりはなかったけれど、上村くんならこの感情を真面目に受け取ってくれるかもしれない。


「死体って、なんか生きている感じだった」

「なんだよ、それ」


「ぼくもよく分からないけど、死んでるのに目が開いてて、その目と目が合うんだ……。なんかその目を見ている内に、まだ生きているような気がしてきて……。ぼくも分からないんだよ。ただなんとなくそう思っただけで……」

「死体は、生きている、か。考えたことなかったな……なぁ変な言い方だけど、本当に死体って、死んでるのかな」


「ぼくがそう思ったってだけで……、死体は死んでるよ。当たり前だろ」

「佐藤は死んだことないだろ」


「ないよ。死んでたら、上村と話してるぼくは誰なんだよ」

「死んだ佐藤かもしれない。俺が、生きている佐藤と死んでいる佐藤を見分けられないだけなのかもしれない」


「ぼくは生きてる」

「でも、証拠はないでしょ」


「心臓が動いている」

「心臓が動いていたら、生きてることになるのか?」


「なるよ。……じゃあ上村は、生きてる証拠出せるか?」

「心臓は動いてるよ。……でも俺はそれが証拠じゃないと思ってるから、出せない。なぁ俺って生きてるのか?」


「生きてるよ」

「なんで、そう言い切れる?」


「だって目の前にいるから」

「目の前にいたら、生きてることになるのか?」


「あぁ、もううるさいな!」

 我慢できなくなって、私が大声を上げると、上村が「悪い……」と言った。


「いったいどうしたんだよ。なんかおかしいよ」

「怖いんだ。死が。死ぬことが怖いのもあるけど、よく分からないものがあることが、怖くて仕方ないんだ」


 上村くんの顔は青ざめていた。


 そんな上村くんの言葉を聞きながら、私の脳裡に死体となった祖父の映像が浮かぶ。ああなった祖父は、焼かれ、形作るものを失い、そしてどこへ行くのだろう。


 確かによく分からない。


 何も無くなるんだ。そう言ったのは確か高校時代の同級生だったはずだ。何も無くなる、って、どういうことなのだろう。何も無くなるっていう状態も生きている内に経験できるものではなく、よく分からない。そもそも生きているってことが、よく分からない。よく分からないことが多すぎるのは、確かに怖いのかもしれない。


 今の私にとっての死は曖昧過ぎて、そこまで恐怖を感じていないのだが、彼の恐怖はもちろん理解できる。


「なぁひとを殺してみないか?」急な言葉だった。


 いきなり血走った眼でそんなことを言う彼を見て、本気で言ってるんじゃないか、とあの時の私はひどく慌ててしまった。もちろん今の私ならもっと冷静に判断できる。


 その場の勢いだけで吐いた言葉だ、と。

 だけどこの時の私は、彼は本当にひとを殺すかもしれない、と不安に駆られてしまった。


 そんな私が、「誰を?」と聞くと、

「大野なんかいいんじゃないか」と薄く笑って、私に背を向けて歩き出した彼を慌てて止めようと、私は駆け寄りその肩を掴もうと手を伸ばした。しかしその寸前で躓いた私の手のひらは彼の背中を押してしまい、彼を突き飛ばす形になってしまった。


 怒った彼と掴み合いの喧嘩になった。血走った眼で私の首を絞める彼を見ながら、死ぬかもしれない、と思った。


 嫌だ。死にたくない。


 そばに、手で持てるほどの石が落ちていた。気付けば、それで私は彼の頭を殴っていた。


 横たわったまま動かない。


 彼の頭部から流れ出る血は地面に生い茂る雑草の間を伝うように、丘の下へ、下へ、と向かっている。


 動いてくれ、と願ったが、彼は動かない。

 いつまでも動かない。


 死んだ……? いやそんなわけない。でも……。


 私は怖くなり、その場から逃げ出した。

 走り続けた私は自宅近くでようやく足を止めた。


 罪悪感とともに荒い息を吐き出しながら顔を上げた先に見た夕暮れに染まる町並みの景色はあまりにも美しく思え、綺麗な世界の中で自分だけが汚く思えた。溢れ出る涙はどこまでも自分本位なものだった。

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