私が殺した死体

サトウ・レン

匣の中の死体

 誰のもとにも死は等しく、突然、訪れる。


 私はこの事実を少年時代からずっと恐れていた。それは死という曖昧な概念に対しての恐怖ではなかった。死そのものは曖昧過ぎてどこか遠く、不安ではあったけれど、恐れるものとしては不十分だったからだ。


 何よりも怖かったのは突然やってくることだった。おそらく死は、事前に天使や悪魔が教えに来てくれるものではないだろう。前触れもなく、私は私という存在をうしなうのだ。私は死というものを実体験として知らない。だからあるいは死後も私という存在は以前の私とは別の形で残るのかもしれないが、残る保証はなく、残らない可能性のほうが高い。何者かであった私は、死というよく分からないもので、何者でもなくなってしまう。


 そこに私は事前の準備が欲しかったのだ。


 あの出来事以来、今日まで、私はそんなことばかり考えて生きてきた。例えば病死ならば余命が与えられる場合もあるが、これはあまりに偶然の要素が強く、さらに言えば都合よく宣告された時期に死ねるとも限らない。結局のところ、自らの命を絶つ以外に方法はないのだ。これなら確実に死ぬための準備が可能だ。必要なのは度胸だけ。


 私は二十歳の誕生日に通っていた都心にあるМ大学を中退し、生まれ故郷の岐阜県へと向かった。帰ったわけではなく、向かったのだ。


 私が目指したのは実家のある田舎町ではなく、その田舎町よりもさらに寂れた隣町だった。その町はずれの山中こそ、私がずっと死に場所に考えてきた場所だった。


 この山中には異界へと通じている危険な場所があり、絶対に立ち寄ってはいけない、と少年時代に町の年寄り連中から何度も聞かされていた。


 ここに訪れるのは、二度目だった。

 時刻は夕暮れ時になり、見上げた空は緋色に染まっている。腕時計の時間を確認しながら、溜息を吐く。舗装された道を逸れるために車を下りてからは、ずっと道なき道を歩きっぱなしだった私の足は棒のようになっていた。目指している地点は明確でなく、今の方向が合っているのかさえ定かではない。


 それでも私はあそこを死に場所と決めたのだ。

 すこし休もうかなと近くにあった木に寄りかかった私の耳に、かさりかさりと別の誰かが葉を踏む音が届く。音は私の目の前から聞こえ、やがて私の眼前にピントのぼやけた写真を思わせる不明瞭な姿の少年が浮かび上がった。ゆっくりとその姿は明瞭になっていく。


 幼き日の自分がそこにいる。

 私は足の疲労も忘れ、少年を追い掛けるように早足で歩いた。

 やがて少年は立ち止まり、その場から姿を消した。


 そして私は求めていた死に場所を見つける。木の板を十字架代わりにして地面に差した墓標は今も変わらず残っていた。


 その下には、

 私の埋めた死体が入ったままになっているはずだ。


 幼い頃、泣きながら地面を掘ったあの日のことは、今も脳裡に焼き付いて、頭から離れない。


 わざわざ掘り返す必要はない。彼は今もまだこの暗い土中にあるのだから。


 今もあの日の記憶は鮮明に思い描ける。もうすこしだけ、時間が欲しい。その場に座り込むと、彼との想い出が蘇ってくる。



     ※



 回想の始まりというものはどこから始めればいいのだろう。


 そう考えた時、もっとも始まりにふさわしいのは、初めて祖父に出会った日のような気がした。


 十二歳になるまで、私は父方の祖父の顔を知らなかった。しかし祖父のことはよく知っていた。祖父は地元ではかなりの有名人で、物心ついた頃から何度も周囲や親戚のひとに祖父の人となりについて聞かされていたからだ。


 その風評は決して良いものではなくて、

 大抵は、

『詐欺師――』『ペテン師――』『嘘吐き――』などと怒りや不満に満ちたものばかりだった。


 そんな人物ということもあって、両親は決して私に祖父と会わせようとはしなかった。両親ははっきりとそれを言葉にしたわけではなかったが、幼いながらにそれを感じ取ることができた。


 そもそも私自身、会いたいとは思わなかった。


 反対に母方の祖父母と両親は親密な関係が続いていて、頻繁に顔を合わせることが多かったので、私の中で祖父母と言えば、まず母方の祖父母が頭に浮かんだ。


 そんな祖父は私が十二歳の時、自殺未遂騒ぎを起こし、父はそれをきっかけに祖父のもとへと通うようになった。父は、嫌われ者の祖父とは絶縁状態だったけれど、それでもひとり暮らしの祖父のことが放っておけなかったのだろう。


 定期的に隣町の祖父宅へと通うようになった父から、何故かある時、「お前も来るか?」と言われ、断ることもできないまま、私は父に同行させられることになった。嫌々付き従う私に、父は祖父の自殺未遂の件や絶縁状態だったことを語って聞かせてくれた。周囲から祖父について聞くことはあったけれど、実際に父の口から聞くのはその時が初めてだった。


 今思えば十二歳の少年に聞かせる内容ではなかったように思うけれど、腹を割って話してくれているような気がして、当時はとても嬉しかったのを覚えている。


「会うの、怖いか?」

 父の言葉に私は素直に頷いた。


 祖父はかつて「いのちの水」という名称の健康飲料を法外な値段で売り付けていた。平たく言えば、詐欺である。しかし限りなくグレーなその行為で祖父がしかるべき罰を受けることはなかった。祖父を殺したいほど恨んでいる人間は多かったらしいが、彼はその怒りに対して気軽に唾を吐きかけることのできる図太い人間でもあった。


 だから自殺未遂があったと聞いても父はまったく信じていなかったらしい。


「本当なら、あんな男にお前を会わせたくはないんだが、な……。めっきり老け込んでしまったのを見ると」


「怖いひと?」

 と私が聞くと、父は笑って、

「今は、弱いひとだよ」と答えた。「どうしても最後に孫の顔が見たい、って言われると断れなくてな」


 困ったように片手で後頭部を掻く父に、私は「いいよ。大丈夫」と答えた。ずっと色々なひとから聞かされ続けてきた、嫌われ者の顔が見たい。褒められたものではないけれど、もしかしたら心のどこかにそんな好奇心があったのかもしれない。


 隣町の祖父の家は、想像していたよりも質素な家だった。詐欺で莫大な金額を稼いだという風評のイメージから、勝手に広大な邸宅を想像していたのだが、そこは外観からして寂しい雰囲気を醸し出していた。


 父が玄関のチャイムを鳴らしたが、反応はなかった。ここで諦めて帰っていれば、話は何も始まらなかったのかもしれない。しかし非情にも私たちは鍵が開いたままの扉に気付き、そして私は出会ってしまったのだ。


 死体に。


 そこには惨たらしい一体の死体があった。

 私が人生で初めて見た祖父の顔は死に顔で、祖父は孫の顔を見たいという願いが叶うこともなく死体になっていた。


 ちいさな悲鳴を漏らして尻もちをつく父の横で、魅入られたように私は祖父の死体から目が離せなかった。


 目が開け放たれたまま、顔がこっちを向くその死体の姿に、

 私は、何故か「生」を感じてしまった。


 まるで生きているような死体だな、とぼんやり考えながら、不思議と怖いという印象は覚えなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る