3. いつまでも、待っているから

 それから一月ほどの間は、この世に誕生してからずっとひとりで生きてきたアストリッドにとって、驚きと新発見の日々だった。


 何しろジークは自由で何にも囚われない。美味しい食事にありつけば、満面の笑顔で褒め称えるし、かと思えばアストリッドののんびりぶりを結構ひどい言葉で罵ってくる。だが、それなりに傷ついたその様子に気づくと、ふわりふわりと周囲を漂いながらいつもの笑みを浮かべて謝り、その頬に口づけてくるのが常だった。

 誰かに振り回されるのは初めてのことだったが、アストリッドにとってその混乱と困惑は決して不快なものではなく、その日々はかけがえのないものに変わり始めていた。


 そうして日々を過ごすうちに、エーヴェルトが告げた、精霊の長を決める会議の日がやってきた。正直なところ、アストリッドはまったく気が進まなかった。だが、欠席すればまた彼はここまでやってきて、ねちねちと嫌味を言うか、もっと酷ければ当たり散らしていくだろう。

 ジークとのこの平穏な日々が気に入り始めていたアストリッドは、あの男のせいでそれを乱されるのは望ましくないと考え——つまりは極めて面倒くさいと思いながらも解決に動くことを決意した。だから、ジークにその旨を説明し、会議へと赴くことにしたのだが、当の妖精は平然と頷き、そして予想外のことを言い出した。


「あ? 俺も行くに決まってんだろ?」

「……どうしてだい?」

「あんな嫌味な男がいるところに、あんたひとりで行かせるわけねえだろ」


 俺が守ってやんねえとな、と、からから笑いながらそう言うジークの姿に、アストリッドもつられて笑いながらも、どこか黒い靄のような不安を感じた。連れていくべきではない、と。


 だが、ジークは断固としてついて行くと言って聞かなかった。

「その辺に隠れてりゃ別に問題ないだろ? あんたは長になんてなる気はない。あのいけすかねえ兄ちゃんに任せるっつってさっさと帰ってくりゃいいんだからよ」

「そう上手くいくといいんだけれどねえ……」

「何かヤバそうならばっくれちまえばいいんだよ。あんたは長なんて絶対向いてないからな。へらへら笑ってのんきに暮らすのが関の山だ」

 ずいぶんひどい言われようだが、実際のところそれはアストリッド自身の意見とも合致していたので、苦笑してただ頷いたのだった。


 だが、スタヴィルの街の古い会議場で始まった会議はいきなり波乱含みだった。エーヴェルトは自分こそが長に相応しいと主張し、長老たちは、なぜかアストリッドを名指しした。予言はその者を指し示していると。

 エーヴェルトはもちろん納得しなかった。実のところ、アストリッドも同意見だったのだが。


「アストリッド、お前は精霊の長となることを望むか?」


 不意に投げかけられた声に目を向ければ、長い黒髪の青年が、壇上からこちらを見下ろしていた。席の位置からして、立会人のようだった。若々しい容姿に反して、その藍色の瞳に浮かぶ光は深い。

「あなたは……?」

「俺はイーヴァル。一応立会人ということになっている」

「立会人……じゃあ、人間……には見えないから、竜?」

「そうだ」


 精霊の長を選ぶには、他種族の立会い人を要するのが慣習になっていた。この目の前の青年が竜だと言うのならば、おそらくはその容姿よりも遥かに長い時を生き、彼らとは比較にならないほどの破格の力を持っているはずだった。


「望まないよ。あなたが竜だと言うなら、私の力が大したことがないのもわかるだろう?」

 ためらいもなくそう言ったアストリッドに、だがイーヴァルと名乗った青年はただ首を傾げた。構わずアストリッドは続ける。

「いずれにしても、長にはエーヴェルトがなるべきだ。私はそんなものに興味はないからね」

 その言葉に、エーヴェルトがどうしてだか苛立ちの混じった眼差しを向けてくる。だが、長老の一人が断固たる口調でそれを遮った。

「望むと望まぬとにかかわらず、資質のあるものが継ぐべきなのだ。エーヴェルトでは足りぬ」

 その言葉に、エーヴェルトは普段の冷静さをかなぐり捨てて激昂した。

「私では足りぬと⁈ この出来損ないの精霊こそが相応しいとあなた方はそう言うのか? 本人が望んでさえおらぬというのに!」

 ざん、と怒りの風が巻き起こり、アストリッドの頬を切り裂いた。その瞬間、アストリッドの懐に隠れていたジークが姿を現す。

「おいおい落ち着けよ、兄ちゃん。こいつはそんなこと望んじゃいねえんだ。八つ当たりはよしてくんな」


 そう言いながら、エーヴェルトのそばまで常の如く恐れを知らずに飛んでいく。凄まじく嫌な予感がアストリッドの脳裏を駆け巡った。


「ジーク、戻っておいで」

 だが、その声が届いているのかいないのか、ジークは振り返りもしない。

「こいつにキレたってしょうがねえだろ? 文句ならそこの爺さんたちに言えよ」

「小賢しい妖精風情が、私に物申すか?」

 その小さな体は声を上げる間も無く、エーヴェルトの手に握り込まれる。その眼は怒りに燃えていた。

「腑抜けのあの精霊も、己の大切な者を傷つけられれば、その資質とやらに目覚めるやもしれんな?」

 怜悧な美貌が冷ややかに言う。そうして、にぃと、その顔には似合わぬ邪悪な笑みを浮かべた。まるで、何かに取り憑かれているかのように。

「エーヴェルト、その手を放せ」

 低く告げたアストリッドに、だがエーヴェルトはさらにその手に力を込めた。ジークの顔が苦悶に歪む。ジークはただの妖精だ、それでなくとも力ある精霊に敵うはずもない。勝ち誇ったように、エーヴェルトはさらに歪んだ笑みを浮かべる。

「救いたければ力を見せろ、アストリッド。さもなくば、この羽虫の命が消えるだけだ」

「や……めろ、アストリッド。こんな茶番に、付き合う必要はねえぞ!」

「まだ鳴くか」

 ぐい、とさらにその手に力が込められる。

「うる……せえ! アストリッド、あんたはへらへら笑って……のんびり暮らしてんのが似合ってんだよ!」

 苦しげな息の下から、それでもジークは不敵に笑ってそう語りかける。エーヴェルトは、ただ、冷ややかにそれを見つめ、そして、実行した。


 ばきりと何かが砕ける音を、その場にいた皆が聞いた。ごふっという苦しげな呼吸とともに、小さな妖精が血を吐く。


「脆いな。もう終いか」

 そう言って、エーヴェルトは、その小さな体をアストリッドの方に放って寄越した。慌ててその体を受け取ったアストリッドは、全てが手遅れであることを知る。

「なーに……この世の終わりみたいな……顔してんだよ」

 苦しいはずなのに、アストリッドの手の中で、ジークは笑ってそう言う。

「ちょっとばかり……へまやっちまったなあ」

「ジーク……!」

 ごほっともう一度血を吐く。その場にいる誰もが動かない。誰も、その小さな妖精の命など、毛ほどにも思っていないのだ。

「大丈夫だ、命は……巡る。必ず俺が……あんたをもう一度……見つけてやるから、それまで……のんびり、待ってろよ」

「ジーク、もうしゃべるな……!」

 そう叫んで顔を近づけたアストリッドに、ジークはひどく大人びた優しい笑みを浮かべ、その小さな手を頬に伸ばしてくる。

「……泣くんじゃねえぞ?」

 だが、その手はアストリッドの頬に届く前に力を失う。そして、その身体はすぐに光に溶けて消えた。


「ジークヴァルド?」

 呼びかけに応えるものはない。髪の一筋さえも残さず、妖精はその命の終わりと共に消えた。まるで、その存在がそもそも幻であったかのように。


 その瞬間、己の中に駆け巡った激しい感情を、アストリッドは確かに自覚した。それまで感じたことのない、身の内を焼く、そして外界へと溢れ出す奔流のような激情と力。


「——ッ!」


 それは憎悪と憤怒と、そして慟哭だった。その激しい感情は荒れ狂う風と業火へと変わり、目を焼くほどの白い焔が一瞬で全てを呑み込んだ。エーヴェルトも、長老たちも、それだけでは飽き足らず、あたり一面、その街のすべての物とそこにいたほとんどすべての人々は、その焔に焼き尽くされた。


 灰さえも残さずに。



「大した力だな」

 膝をつき、愛しい者がすでに消え去った掌をそのままの形で呆然とするアストリッドを、全身から血を流した青年が見下ろしていた。

 その青年——イーヴァルは、業火に焼かれ、あちこちに深い傷を負いながらも、こちらに向ける眼差しは穏やかだった。だが、今のアストリッドにはどうでもよかった。ただ、後悔だけが嵐のようにまだ身の内を荒れ狂っていた。


「街一つとそこにいた生ける者すべてを焼き尽くしても、まだ足りないか?」


 静かな声に、自分がしでかしたことを知る。けれど、それすらもどうでもよかった。


「——しなせて」


 もともと、精霊の長どころか、自分の生にさえ、執着などなかった。ようやく、生きる悦びの欠片を手に入れたと思った矢先、それすらも失った。


「あいつは言っていただろう、お前をもう一度見つけると」


 ようやく、アストリッドは目の前の青年を見上げる。その眼差しは深く、確かにこちらを哀れむ光を浮かべていた。あの小さな妖精の話を、まともに聞いていた者が他にもいたとは。だが、それが意味のあることとは到底思えなかった。


「……戯言ざれごとだ」

「だとしても、お前がここで死んでどうなる」

「生きてどうなる」

「少なくとも、あれはお前の死を望まないだろう」

「……だから生きろと?」

「そうだ」

「これほどの犠牲を出した私が許されるとでも? また同じことを繰り返すかもしれないぞ?」

「なら、俺が呪いをかけてやろう。お前がその力で他者を二度と傷つけられぬように」

 青年は不思議と静かな目でこちらを見つめている。

「……どうして……?」

「竜たる俺の名にかけて——立会人として、お前を精霊の長と認める」


 ——だから、生きろ。あの小さな命が望んだように。


 愛する者の死を目にしても、涙を流すことすら知らぬアストリッドに、竜の青年はただ静かにそう言った。

 そうして彼女は、呪いと孤独の中で、長い時を生きることになる。


 ただひたすらに、彼女を見つけてくれるという、その存在を待ちながら。

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無邪気な約束を待ちながら 橘 紀里 @kiri_tachibana

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