ショッキングピンクの印

高村 芳

ショッキングピンクの印

 技術室が好きだ。僕が窓の外をのぞき込むと、木製の角椅子が軋んだ。カキン、と乾いた音がグラウンドで響く。続いて、野球部員の叫び声が聞こえてきた。

 二階建ての校舎の端に位置しているこの技術室からは、よくグラウンドが見渡せる。いくつもの白い野球帽が力強く、連動しあうように動いている。雲間から不意に溢れた夕焼けの眩しさに、僕は目を細めて身をよじった。


「ほら、動かないで」


 慌てて視線を正面に戻すと、坂本さんがこちらを向いて、少し困ったような顔をした。ごめん、と僕。坂本さんは、視線を僕の指先に戻した。正しくは、僕の爪に塗られたショッキングピンクのマニキュアに。



   *



 坂本さんと初めて喋ったのは、この技術室でのことだった。いつからだったか、僕は放課後の部活動の時間になると、この埃と油と静けさと光にまみれた技術室で過ごすことが日課にしていた。微かに聞こえる吹奏楽部の演奏を聴きながら、グラウンドを眺めるのが好きだった。そんなとき、突然、坂本さんがやってきたのだった。


「あれ? 中村くん、何してるの?」


 正直、坂本さんのような人は僕の名前など知らないだろうと思っていたので驚いた。深い茶色の髪と、目尻を強調したような化粧と、視線のやり場に困る短めのスカート。偏見と言われればそうだけれど、僕とは住む世界が違うと思っていた。何て返事をしよう、と焦っている僕を尻目に、


「ちょっとここにいていい? 中村くんの邪魔はしないからさ」


と、僕の斜め前の席についた。何やら可愛らしい小さなポーチを携えている。


「な、何するの?」


 坂本さんと同じような質問をして、しまったと思った。僕は答えていないのに、彼女には問いただしてしまって、なんだかずうずうしい気がしたからだ。坂本さんはポーチから小物を取り出しつつ答えてくれた。


「マニキュア塗り直そうと思って。ちょっと剥がれちゃってさ、それを直したいの。教室でやってもいいんだけど、先生に見つかると面倒くさいし」


 ポーチからは次々と小瓶や、棒や、コットンなどが取り出され、テキパキと机の上に並べられていく。何に使うかよくわからないものもあった。坂本さんは、細い肩にかかる髪を手首のヘアゴムでひとつにまとめている。窓から差し込んできた橙色の光が、茶色の髪を金色に染め上げた。僕は少し彼女と話をしたくなった。


「僕も見てていい? 塗るところ」


 坂本さんは少し驚いたようだった。別にいいけど、とだけ言って、作業を始めた。僕は席をひとつ隣に移動し、坂本さんの目の前に座った。


「これが、除光液、っていうヤツ。これで、剥がれちゃった人差し指のマニキュアを一回落として綺麗にするの」


 透明な液を含んだコットンが、彼女の爪の上にのせられる。嗅いだことのない独特の匂いがしたが、彼女の手が淀むことなく動いていくのに夢中で、そんなに気にはならなかった。小さな爪を彩っていた赤色が拭われて、彼女の本来の爪の色が見えた。


「いつもは塗るときに爪のお手入れもするんだけど、今回は塗り直しだからナシ。ベース、カラー、トップコートの順に塗っておしまい」


 除光液以外の小瓶は3つ。白い液体、赤い液体、透明の液体が入っている。

 彼女の人差し指の爪に、白い液体が一刷毛ずつ丁寧に塗られていく。彼女の顔は真剣でいて楽しそうに見える。彼女が赤色のマニキュアの小瓶の蓋を開け、瓶の口で刷毛をしごいている。いよいよ赤いマニキュアが塗られる段になった、そのとき――。彼女の左手が、僕の右手をぐいと引き寄せた。驚いて思わず手に力が入った。彼女に手を掴まれ、動けなくなった僕。「そのままね」と言い、坂本さんは素早く、丁寧に僕の右手小指の爪を赤色に染めていった。


「ほら、一緒」


 彼女はいたずらっ子のような顔をして、僕に指を見せた。僕の手と、僕より一回り小さい手に同じ赤が艶やかに光っている。

 初めてマニキュアを塗られたその数十秒くらいの出来事を、おそらく僕は一生忘れないだろう。



  *



 それ以来、彼女は僕のとして、放課後時々技術室に来て、マニキュアを塗っては落としてくれていた。最初は小指だけだったのが、両手指の爪を鮮やかに彩ってくれるようにまでなっていた。彼女に塗ってもらっている間、乾くまで何も触ることができないので、自然と会話することが増えた。

 彼女は教室では見せない真剣な顔で、黙々と色を重ねていく。丁寧に、丁寧に。一緒に過ごす時間が増えていくにつれ、この時間がずっと続いていくのもいいと思っていた。この埃だらけで無骨な技術室にふさわしくないカラフルな色が、僕の心を落ち着かせるのだ。


 事件が起きたのは、彼女と最初に話した日から三ヶ月ほど経った放課後だった。いつものように、彼女は僕の爪を太陽のようなオレンジに彩っている最中、技術室の扉がガラリと突然開かれたのだ。僕はとっさに彼女の手を振り払い、机の下に両手を隠した。指先の小さなカンバスから、切り傷のように塗料がはみ出てしまっている。


「こんなところで何してるんだ」


 見つかったのは運悪く、風紀に厳しい学年主任の先生だった。ずかずかと、僕らが座っている窓際の机まで近寄ってくる。せっかくのこの空間が無残に切り裂かれていく気がした。坂本さんは、塗り先の無くなった刷毛を、何も言わず小瓶にそっとおさめた。


 机のそばに立ちはだかった先生は、坂本さんと僕を交互ににらみつけた。机に並べられていた小瓶のひとつがつまみ上げられる。


「マニキュアじゃないか。おい、坂本! マニキュアは落としてこいと何度言ったらわかるんだ」


 神経質そうに眉を寄せて怒鳴る先生に、僕は目を合わせることができなかった。まだ乾いていない爪が、握りこぶしの中を濡らしていた。


「中村とふたりで何やってる。なんだ? 中村、おまえこんなものが好きなのか?」


 先生の口元が右側に少し吊り上がったのを見て、僕は頭の中が真っ白になった。オレンジ色のマニキュアが、僕の手のひらの汗で崩れいくのがわかった。何て返そう、何て言えば。それだけが頭の中を駆け巡っていた。

 先生、と坂本さんが割って入った。


「私がここでマニキュアを塗ってただけです。中村くんはここで宿題をしてました。私が先生には言わないで、って言っただけです」


 それは今までに聞いたことのない彼女の声だった。怒りでもなく、悲しさでもなく、理解してもらうことを期待しない、ただただ極限まで干上がった言葉だった。

 学年主任は坂本さんのその言い方に少しいらついたのか、「二度と学校にマニキュアを持ってくるな」だの、「明日も塗ってたら反省文を書いてもらう」だの捲し立てた。言い終わると、小瓶を机に叩きつけるように置いて、去って行った。その無神経な足音が遠くに消えてから、坂本さんは、はあ、と一息ついた。疲れたような顔をして、無理矢理笑顔をつくってくれているのがわかった。


「ごめんね、私のせいでうるさく言われちゃって」


 僕は机の下で握りしめていたこぶしをゆっくりと開いた。爪からは、オレンジ色の涙が零れているように見えた。


「……そんなこと、ない」


 坂本さんだけを悪者にしてしまった情けなさや嘲笑われた悔しさが、腹の底で渦巻いていた。絞り出すような、小さな声だった。彼女は「え?」と僕の方に耳を傾けた。


「そんなことない。僕のほうこそ、ごめん。僕は坂本さんのマニキュアに――」


 僕は、坂本さんのマニキュアに。


「――救われてるんだ」


 僕が思っている以上に、自然と言葉にできた。そう、僕は彼女に救われているのだ。彼女は静かにひとつ頷いて、鞄の中から小ぶりなプラスチックボトルを取り出した。除光液だった。


「さあ。途中になっていたマニキュアを、もう一回塗り直そう」


 彼女は丁寧に、オレンジ色の涙をコットンで拭ってくれた。



  *



 いつのことだったか、僕は彼女に「なぜマニキュアが好きなのか」を尋ねたことがあった。


「私さ、中学校のとき自分が全然好きじゃなくて、鏡を見れなかった時期があるんだよね」


 彼女はマニキュアを塗る手を止めることなく続ける。


「でも、爪はさ、いつでも自分から見えるじゃん?マニキュア塗ると、それがカワイイ、って思えたんだよね。そのときから、明日は小鳥みたいなイエローにしようとか、指が海みたいにキラキラしてるといいな、とか、毎日考えるのが楽しくて。指先だけでも、自信が持てたんだ」


 話をしてくれているときには気づかなかったが、そのとき塗ってくれていた爪の塗料は少しだけ歪んでいた。


 僕自身、僕がいわゆる「フツウの男子高校生」ではないことはわかっていた。女の子のように爪を彩ることに楽しみを覚える。野球帽をかぶって汗を流している彼を、この技術室から毎日、目で追ってしまっている。この感情は何なのか、このままでいいのか、このままでは駄目なのか。十七歳の僕には、まだ判断がつかない。彼女は僕の歪みに気づいているのだろうか。それとも気づいていないのか。僕には知る術がない。


 「見て。このピンク、カワイイでしょ?」


 昨日新しく買ったという小瓶をかかげて、彼女は笑う。小瓶は窓から差し込む西日を反射してキラキラとしている。彼女と僕の両手の指には、同じショッキングピンクが塗られている。

 それは、この静かな技術室で誰にも言えない秘密の時間を共有し合う印のように見えた。



   了

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ショッキングピンクの印 高村 芳 @yo4_taka6ra

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