ピアノの音は輝いて
木谷日向子
ピアノの音は輝いて
タン、タン、タタン。
白と黒の重なりから、鋭く尖らせた指を離すと、冬の空気でかじかんでしまったかのように草太は震えた。
「どうしたの」
綾子先生が困ったような笑顔を草太に向ける。
草太は先生の着ている紅色の毛糸で編まれたカーディガンの網目を、震える瞳で見つめていた。
「先生。ぼく、もう弾きたくないです」
ボーイソプラノでか細い言葉を吐くと、ぎゅっと唇を固める。
ピンク色であった唇は、その圧力のせいで白く代わってしまった。
綾子先生は更に草太に顔を近づけると、眉を寄せた。
先生の富士額に河が生まれたかのようである。
「あらあら、どうして? 具合でも悪いの?」
先生は躊躇いながらも草太の前髪をてのひらで上げ、彼の額の温度を確かめた。
先生の手、冷たい。
草太はぼうっと瞳を開きながらそう思った。
「熱は無いみたいね」
ぴったりと貼りついていたてのひらをそっと離す。
そして草太と鼻先が触れるくらいの距離で顔を近づける。
先生の瞳、宇宙みたいだ。吸い込まれそう。綺麗な暗闇。
草太の瞳と先生の瞳が同じ平行線で重なった。睫毛まで触れるんじゃないかって感じていたら、先生はオレンジ色のリップを塗った唇をうっすらと開けた。
「本当に、どうしてピアノ、弾きたくなくなっちゃったの?」
草太はかくん、と首を落とすと、もじもじと両手で指を触り合った。
「前のコンクールでさ。裕二君の演奏を聞いて、音が光ってるみたいに聞こえたんだ。世界が輝いて見えた。それから家に帰って僕のピアノの音を聞いても、何も感じなくなって……」
先生は黙って草太の伏せた瞼を見つめている。
草太の声は話す度にどんどんと掠れていった。
「先生。僕のピアノなんて、弾いても何の意味もないよね。だって、何の色も、光も見えないんだもの。弾き続けても、何も生み出せないんだったら、意味ないじゃないかって思ってきちゃったの」
視線を下に映せば、草太の右手の人差し指は左手の親指と人差し指に固く握られ、白くなっていた。
先生はそれを黙って見つめると、ふっ、と草太の指に右手を重ねた。包み込むように。
草太は握りしめて痛くなった指先が先生のぬくもりによって抱きしめられているように感じ、顔を上げた。
同時に右目の端から涙が一つ零れ落ちた。
「草太くん」
先生の力強い声が草太の鼻先に落ちる。
「音楽の世界は宇宙のように沢山の輪が重なって出来ているんだよ。草太くんは、一段階高い音楽の世界を見て、刺激を受けてしまったのね。でも大丈夫。それを知った草太くんのピアノは空を破って裕二くんと同じ輪の中に入ることが出来るから。でも、入ったからといって、全く同じって訳じゃない。そこからまた草太くんには草太くんにしか弾けないピアノが弾けるようになるのよ」
太陽みたいだ。咄嗟に草太はそう思った。先生の顔が、暗闇の中で赤く光ってるみたいだった。
ピアノの音は輝いて 木谷日向子 @komobota705
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