第8話

 穹の背丈の倍ほどもある人影は、頭だけを反転させて後ろを見た。振り向いた顔の形は人間であった時と違わない。だが、髪はオゾンを固めたような暗い藍色、瞳は青い炎の如く揺らめいていた。

 代わり果てた姿に、穹は思わず息をのんだ。

「まさか観客が来るとはな。ソーマ・穹、それと巫女か。世界の再生に立ち会えるとは、お前たちは幸運だ」

 我玖の口が長く裂ける。開いた口蓋の中には虚無が広がる。無数に並ぶ短く尖った歯から、蒼い粘液が滴っていた。 

 穹は全身を粟立たせながらも、我玖の瞳を真っ直ぐ見上げた。

「お前は王になって何をするつもりだ」

 震える声を隠すことなく問いかける。

 我玖は目を細めた。瞳を鬼火のように揺らめかせる。

「王を乗っ取るのさ。アガルタシードメモリがあればオゾン生命をコントロールできる。それは王とて例外ではない。俺は王と一体化し、王を介して地球上の全てのオゾン細菌を支配する」

「それが、この世界を救うことになるのか」

「魄樹と化している人々を魄人となって元の姿に戻す。かつての世界で生きたように、人間の姿で皆が生活できる。穹、お前に言った魄樹の無い世界を作るという言葉、嘘ではない」

 我玖は禍々しく顔を歪めた。とめどない憎しみを吐き出すように、全身の文様が激しく明滅する。

「だが、人間は別だ。人類は妬み、争い、支配し、無意味に殺し合う。かつての同胞を殺し、仲間を殺し、己以外を圧する」

「お前はドームに、人類に絶望したのか」

「違うな。俺が絶望したのは、己自身だ。ジャンクデータから復元した、魄樹の発生と敗れた後に関する研究には、人類に残されたリソースから生存できる人口が計算されていた。1万の支配階級と、19万の非支配階級。これは、ドームとプラントの人口と同じ」

 我玖は自嘲気味に笑う。口から蒼いオゾンが吐息のごとくたなびく。人外の容貌に似合わぬ、気恥ずかしさを隠すような表情だった。

 過去から現在まで、ドームの人口は1万人から、プラントは19万人からほぼ横ばい。その事実を知り、我玖は己が忠誠を誓ってきた評議会は人類を救う気などなく、この支配を永久とすることだけが目的であったと気づいた。

 故に、我玖は力を求めた。

 ドームを滅ぼし、それでもなお人々が、魄樹となった者も全ての人間が平等に暮らせる世界を造る。そのための力が足りない己を責め、たとえ脳が焼け爛れようとも、命を削ってでも全てを救う力を手に入れると。

「俺は、人類を守ると誓った。だから、人類には魄人となってもらう」

 その言葉に、穹と朱律は息をのんだ。

 かつて地上を覆っていた植物、昆虫と呼ばれた種、脊椎動物と呼ばれた種、さらには目で見えないほど小さい微生物。全てが消え、地上に残る酸素生命はヒトとその食糧となるものしかないこの地球。我玖の言葉は、それを全て滅ぼし、オゾン生命の星に塗り替えると言っていた。

「魄人となれば俺が支配できる。全ての人間は殺し合うことなく、公平で争いのない安寧の世界が実現する。王なんてのは性に合わないんだが、仕方がない。人類を救うにはそれしかない」

「魂を救わずに何が残るというの! そんなのは救いじゃない! ただ生かされてるだけなんて、生命じゃない」

 変化を否定する停まった空間に、朱律の叫びが響く。

 震える程に握りしめた拳は、手のひらに爪が食い込み指の間から血が滲む。朱律の怒りは空間に生命の輝きを放つが、絶対的な虚無の中では夜空に瞬く星の粒のように弱々しい。

 我玖はぬちゃりと口を開いた。

「救うほどの魂とは一体何だ? そんな物がこの世界のどこにある? 腐敗しきったドームの体制、生ける屍の如く働くプラント。どこもかしこも隣人を蹴落とすことしか考えない奴らばかりだ。まあ、それも仕方がない。他者を思いやる人々を騙し、欺き、抹殺する歴史を繰り返した果て。今生きているのは征服者とその側に取り入った者の末裔だ。そんな奴らが築いてきたのが人類の歴史ってやつだ。より狡賢で、残忍で残酷なコミュニティが子孫を残してきた。例外なく、生粋の同族殺しの血族ばかり。巫女よ、人間の魂なんてものはな、後生大事に後世に受け継ぐほどに清らかな物じゃないのさ。とっくの昔からな」

 朱律は押し黙ったまま、我玖を強く睨みつけている。

 我玖は鼻で笑うと、穹に視線を転じた。

「穹、お前はどうだ? お前は魄樹を憎んでいるんだろう? 俺が魄樹を全て滅ぼしてやる。お前は魄人となって永劫に、安らかな世界を生きられるぞ。一緒に来るか?」

「俺は、そんな世界はまっぴらだ」

 我玖は蒼い目を見開いた。髪のような黒い触手を逆立たせる。口からは鋸のような無数の歯が擦れ合う、耳障りな音が漏れた。

 息をするだけで命を奪われそうな怒気に晒されながらも、穹はきっぱりと首を横に振った。

「誰かが管理する世界には、願いが無い。たぶんそれは、生きる意味がないという事だ」

「そうか。なら俺が王となった暁には、その願いのない世界とやらの中で永劫の苦しみを味わわせてやろう」

「お前が王となる前に、止める」

「止めるだと? 魄人すら滅ぼすこともままならないお前がか。面白い、何ができるか見せてみろ」

 我玖の言葉が終わる寸前に、穹は朱律の体を突き飛ばしながら半歩退いた。

 直後、大地から針のような細い触手が大量に飛び出し、二人の体があった場所を貫く。

 目の前に突如出現した漆黒の糸。一瞬で天高く伸び上がった触手の向こうに立つ我玖から視線を離さずに、穹は朱律の頭を抑えて身を屈める。

 時間が飛んだかのように、天に伸びていた触手は穹の首があった位置を水平になぎ払っていった。

「ゲシュタルトか。人間にしては大層な力であるが。それでどこまで持つかな」

 我玖は愉しげに口の端を歪めた。

 穹は転がるように、我玖に向かって走り出す。その両手には既に拳銃が握られている。上下左右から繰り出される触手を、穹は何も考えず直感に従って避ける。

 恐怖を覚える余裕もない。ただ情報を処理し、次の攻撃をかわすことだけに思考を割く。それは思考と呼ぶのは不適当であるかもしれない。穹は自分がなぜ飛び上がり、左右にステップを刻むのか理解していなかった。頭で考えてから体を動かしていては間に合わない。脳内での思考というプロセスはバイパスされ、脳と体が直結している。意識が判断を下すことなく、脳は体を動かす。それは我玖らナノセカンドのような思考の加速ではない。

 今の穹は思考すら手放していた。

 彼我の距離は5歩。左右に動き、両手の銃から放つ弾丸で触手のタイミングをずらし、火薬のはぜる反動を使って加速しながら駆け抜ける。

 触手が皮膚を掠め、徐々に傷が増えていく。やがて動きが鈍り手足を貫かれる事は自明であったが、それでも穹は次の一歩を踏み出す。

「なかなかやるな。だが4次元生命を超越した俺に勝てはしない」

 我玖の背から、左右の翼を支える一際太い触手が伸びあがる。光沢を持つ黒い表面に毛細血管の如く蒼い筋を刻む触手たち――その数8本。

 花弁のように開かれた先端には細い牙が並び、青い霧を吐き出していた。我玖は空想上の生物である龍の首のような触手を蠢めかせる。

「俺がアガルタを撒く者、アガルタシード。地底王国アガルタをこの世界に顕現させる種。世界は俺が導く」

 朱律が悲鳴を上げるが、穹の脳には届かない。

 自らに迫る死を受け止め、回避するために体は動く。漆黒の触手を撃つべく不安定な姿勢から銃口を向けようと腕をねじる。

 しかし、間に合わない。

 人間の知覚速度を凌駕する速度で伸び上がった触手は穹の体を捕らえ、締め上げる。

 穹の足は宙に浮き、骨が砕ける音がした。肺が締め上げら呼吸もできない穹の眼前に、触手の牙が迫る。触手は大きく先端を広げた。 


   死者眠る死蝋の森

   死者の息は蒼い霧

   王にかしずく白い森

   王はアガルタを統べる者


 朱律の歌が始まった途端、穹を拘束していた触手が解け、音を立てて地に落ちる。横たわり身を震わせる触手は、我玖の制御を受け付けていないようだ。

 穹は受け身もとれずに床に落ちた。肺が空気を求め、荒い呼吸を繰り返す。穹は床に伏したまま指一本動かすことができない。

「観測軸から干渉してオゾン細菌を操る。巫女の名に恥じない芸当だ。だが、それは自らの精神を晒すことでもある。すぐに取り込まれて終わりだ」

 我玖は、朱律をあざ笑う。

 祈りの姿勢を続ける朱律は、前髪が張り付くほどに油汗を吹き出させ、息を荒げていた。両手に填められたダマスカス鋼の腕輪が、体の震えに合わせて擦れ、白銀の音を奏でる。

「朱律、やめろ!」

 呼吸もままならない穹の声は、弱々しく虚空に溶けた。

 視界が明滅し、脳裏にいずことも知れないビジョンが押し寄せる。


 ――荒れ果てた研究施設。生き残ったわずかな研究者たちは皆、その手にアンプルを持っている。褐色の硝子容器にはどろりとした液体が半分ほど注がれていた。

 穹の意識に、彼らのやりとりが去来する。

 本当に大丈夫でしょうか? 人々は我々に賛同してくれるのか。さてなあ。だが、信じるしかない。そうだ。魄人となった人々に問いかけるには、こうするしかない。きっと大丈夫さ。魄樹になってどこまで自我が保てるかね? 分からん。周囲の人間を襲うのでは? その時はまた、誰かが何か考えるだろう。少なくとも、王の復活は阻止できる。オゾン細菌を固定できる。でもきっと。何だ? どっちにしたって僕らは残った人類から大罪人と言われるんでしょうね。7世代もすれば忘れ去られる。どうだかな。いつになるか分からないが、遠い未来には分かって貰えるかもしれんぞ。ええ、きっと。

 いざ、人類の未来のために。

 一人の男がそう告げると、全員が一斉にアンプルの先端を割った。硝子の折れる音が唱和する。彼らの決意と永い行く末を祝福し、呪縛するように。

 変化は劇的だった。

 体中から白い触手が飛び出し、体に巻き付いたかと思うと、あっという間に周囲へ枝を広げていく。伸びた枝は絡まり合い、融合し、一本の太い幹となって床を呑み込んでいく。部屋の壁を食らい、天井を突き破り、周囲の酸素生命を吸収して瞬く間に巨木へと成長した――


 穹は混乱する頭で必死に考える。この光景の意味は何か。なぜ朱律の歌を聞くとこんな光景を見せられるのか。

 穹はここに来るまでに得てきた知識、出会ってきた人々を思い返す。初めは、魄樹を全て滅ぼすことを願っていた。

 それは正しいか。

 茜と朱律は魄樹を守り、魄人と王を滅ぼすことを願った。朱律の父は、そのために魄樹と融合した。

 それは正しいか。

 選定者は、オゾン生命を全て滅ぼし、人類が再び地上を取り戻すことを願った。その願いを胸にナノセカンドと大勢の荼毘人が命をなげうった。

 それは。

 宿羅我玖は、人類を管理することで誰も殺し合うことのない、平和な世界を願った。

 正しいとは、何か。

 誰もが、それぞれが想う正しい世界の在り方を目指している。そこに優劣があるのか、どれが正しいのか。

 穹には分からない。

 だが、様々な願いが存在すること自体が、世界を象徴し成り立たせているのではないか。

 朱律と行動を共にするうちに、穹の願いは魄樹の存在理由を知ることだったと思い出した。その根元にある、魄樹に助けられた体験。魄樹はなぜ穹を助けたのか。

 魄樹の願いは何か。

 答えは、脳裏に流れるビジョンに示されている。


 ――魄樹と化した研究者たちに呼応するように、研究所の中を徘徊していた魄人が動きを止め、魄樹へと変貌していく――


 霞が晴れるように視界が現実に戻ると、朱律の苦しむ姿があった。

「穹は、死なせない。絶対に、諦めない」

 朱律は顎から汗を滴らせ、歯をくいしばっていた。

「愚かだな。そんなことをしても時間稼ぎにもならないぞ」

 我玖はその姿を嘲り、侮蔑を込めた高笑いをあげていた。

 穹は奥歯が砕けるのも構わず、死んだ土に爪を立てる。足はもう動かなかった。力の入らぬ下半身を引きずる度に体が軋みをあげ、穹の顔は苦悶に歪む。

「あと、少しだけ。朱律、頼む」

 我玖の背から伸びる触手は、徐々に動きを取り戻しつつある。不規則な痙攣が静まっていく。

 黒い毒蛇を背負う我玖まであと数歩。

 半身が不随となり地に伏した穹にとって、その距離は果てしなく遠い。

 爪は剥がれ、指は折れた。それでも穹は進む。口に入る死の灰を血とともに飲み込み、痛みに飛びそうになる意識を舌を噛みつなぎ止める。

「俺の、願いは」

 手を伸ばせば、黒い獣に触れる。穹は白いシンプレクタイトメモリを強く握り込んだ。命に代えても離さないように。

「シュクラ・我玖!」

 最後の力を振り絞る。血にまみれた腕を、朱律の歌で縛られたまま直立している我玖に伸ばした。

「どうした穹? わざわざ俺に喰われに来たか」

 我玖は動かぬ首を強引に回し穹を振り向いた。首の繊維がぶつぶつと千切れ、オゾンが青い血煙となって噴出している。

「その体、供物とするがいい」 

 暗黒の肢体に弱々しく当たった穹の腕が、我玖の体に同化した。

 肘から先を喰われ、穹は表情を消した。生命力を使い果たし、笑みを作る力も残されていなかった。瞳から光が消えていく。

 勝利の余韻に浸っていた我玖の表情に亀裂が走った。

「これは。崩れ、る。だと? 馬鹿、な」

 虚無の世界に絶叫が響き渡った。

「貴様何をした!」

 朱律は両手をつきながら、身もだえる我玖に冷たく告げる。

「シードアガルタメモリ、だって。オゾン生命を自滅させるの」

 我玖の身体は明滅を繰り返すように、黒い部位が白化しては崩れ、再生してはまた白く壊れていく。統率を失ったオゾン生命が暴走し、暴れ転がる我玖自身を飲み込みながらオゾンへと還る。

「やったね、穹」

 這いつくばったまま肩で息をしていた朱律は穹に笑顔を向けた。

「ねえ、穹? 穹ってば!」

 朱律は這ったまま穹に近寄る。

 顔を伏せたまま倒れる穹の身体を抱き起こした。

「朱律、無事か」

 穹は乾いた瞳を宙に固定したまま、朱律の腕の中で掠れた声を出した。

「私は大丈夫。でも……」

「いいんだ、もう。俺の願いは、叶った」

「何言ってるの? 違う、違うよ。ねえ、穹は、魄樹に償いをさせるんでしょ?」

「すまん。王は、滅ぼせなかったな。朱律の願いは、受け取れなかった」

「そんな、そんなのは良いから。お願いだから死なないで、穹」

 朱律は、ぐったりとした穹の頭を胸にかき抱く。

 嗚咽とともに零れる涙が、穹の頬で固まりかけた赤い土を濡らす。血の気の失せた穹の頬に赤い斑が浮かび上がっていく。

「俺は」

 穹の末期の言葉を、咆吼が遮った。

 突然の爆風が二人を吹き飛ばす。

「ぞーま、ソら。やぁってぇ、くらたなぁ」

 紅い土煙が収まると、そこには紅蓮の炎に舐められて立つ影があった。

 獣が身震いすると、燃えさかる炎は一瞬でかき消える。

「ふう、まさかここまで追い詰められるなんてな。お前等はそんな奥の手をどこで見つけてきたんだ」

 脳を突き刺すオゾンの臭いと焼けた肉の悪臭が充満する。

 我玖は漆黒の姿を取り戻していた。崩れたはずの体は再生され、何事も無かったように蒼い瞳で嗤っている。

「そんな、なんで」

 朱律は怯えに震え、動きを止めた穹に縋りついていた。

「知ってるか? 超高濃度に濃縮されたオゾンは急激な燃焼反応を起こす。平たく言えば、爆発するんだよ。オゾン濃度45%なんてのは普通の魄樹にはできない。オゾン生命自身が吹っ飛ぶからな。だが今の俺なら。細菌を支配下におけるこの力があればこそ、可能となる」

 動かぬ穹の脇に、白い固まりが落下した。地に落ち潰れる白い樹の塊。中に埋まった白いシンプレクタイトメモリが濁った光を放っていた。

「危なかったよ。その異物ごと犯された部位を吹き飛ばせなかったら、俺は消滅していただろうな」

 触手が伸びる。動きを取り戻した触手は、息をする間もなく朱律の首を絞め、宙につり上げた。

 朱律は触手に爪を立てるが、かすり傷すらつけることができない。激しく宙でもがく足は、次第に動きを鈍らせていく。

「巫女よ、魄人として目覚めたらまた会おう。その時には」

 我玖は朱律の双眸を睨めつけた。

 朱律は脱力した手足を垂らしたまま、なおも我玖を見つめていた。白い顔は紫に鬱血していくが、金の瞳は力を失わない。胸に施された一角獣と同じ金色は、願いを諦めないという固い決意が宿っていた。

「その瞳が絶望に染まるまで、何度でも眼球をえぐり出してやる」

 我玖は嗜虐に目を細め、触手に力を込めた。

 朱律の喉から声にならない呻きが漏れる。縊死する前に朱律の細いおとがいがねじ切られるだろう。

「あか、り」

 地に転がる穹の口が、小さく動いた。

 末期の言葉に割くはずだった最後の力を使い、傍らに落ちている白い塊を掴む。痙攣し言うことを聞かない腕で、純白に輝くオゾン生命の塊を、顎が外れるほどに開いた口に押し込んだ。

 穹の喉元から白いオゾン生命が根を伸ばしていく。一瞬で全身の肌は白く置換され、傷が全て塞がった。

「朱律を離せ」

 白金の軌跡が空間に曲線を描くと、朱律の体が解放された。朱律は激しく咳き込む。

「魄人になったのか? いや、これは違う。お前は一体、何だ?」

 我玖は切断された黒い触手の先を見つめた。切断面は光を放ち、徐々に触手を分解していく。我久は触手の先端を千切り捨てると穹に顔を向けた。

「さあな。自分でも分からない」

 穹は平然と答える。

 驚きに目を見開く我玖の隣から、倒れた朱律の体を白い腕を伸ばして引き寄せる。

 穹の腕が一撫ですると、朱律の首から黒い触手がまばゆい光とともに跡形も無く消えた。

「穹、生きてたんだ」

 朱律は咳き込みながら、痛々しく潰れた声を出した。

「良かった。それ、どうしたの? 魄人になっちゃったの?」

「俺は大丈夫だ。魄人もどきにはなったみたいだが。とりあえず自由に動ける」

「そっか。ありがとう……ごめん」

 朱律はぎこちなく微笑み、穹に身を寄せた。鼓動を確かめるように、穹の胸にそっと耳を寄せる。 穹は荒い呼吸を繰り返す朱律の髪を優しく撫でた。


 ――見知らぬ街角で森が発生した。人々を襲っていた魄人は、森の発生と同時に大半が樹となった。視界が切り替わり、別の町では、森ができても残っていた魄人が人間を吸収した途端、魄樹へと変化していく。地上の魄人を全て取り込み、森は世界を覆い尽くした――


 穹の意識には、常にビジョンが流れ込んでいた。瞳を閉じた朱律の顔を見下ろす視界に重なる、別の光景。現実の視覚とビジョンが脳内で同時に処理され、どちらも網膜に映る映像として認識されている。


 ――変貌した者達の感情が押し寄せる。悲しみ、使命感、後悔、懺悔、希望。言葉にならない感情の波が次々と訪れ、去っていく。それは不老不死への渇望でもなく、他者を支配する欲望でもなく。言うなれば、人類への奉仕。観測軸で繋がった魄人をなだめ、魄樹化を誘う研究者達の願い――


 魄人となった穹には、彼らの思考も目に映るものとして認識されていた。

「シュクラ・我玖。今、お前と俺の前には二つの道がある」

「ほう。随分と余裕ができたようじゃないか。たかが魄人風情が王となる俺に道を説くか!」

 吼える我玖の口からは大量のオゾンが吐き出される。

 穹は吹き付けるオゾンから朱律をかばい、背に隠す。

「お前の願う未来へ至る道と、オゾン生命全てを消滅させる道。俺は」

「穹、お前に残された道は一つだけだ」

 穹の言葉を遮り、我玖は8つの触手を広げた。黒い触手は弾丸よりも速く穹へと迫る。瞬きの間に襲う連撃は、身を躱す暇もない。

 金属の打ち合うような高い音が激しく空気をかき乱す。

 穹は白い腕を振るうが、全てを防ぐことはできない。手数で劣る穹は徐々に体を削りとられていく。黒い触手で穿たれた皮膚は一瞬だけ淡く光り、白濁して崩壊する。

 穹の体はただの魄人の色へと濁っていく。

「そんな仰々しい姿になったのに再生もできないのか?」

 我玖は高笑いをあげる。その哄笑は人間の可聴域を超え、大気を震わせた。揺さぶられた大気が擦れあう甲高い音。

 それは、堕天使が世界の終わりに放つ祝砲となって穹の耳朶を打つ。

「巫女が持つダマスカスの腕輪でも打ち込んでみるか? お前の弾丸も全て打ち込んで見ろ。百でも千でも、俺を滅ぼすには足らんぞ。全てえぐり出してお前等自身に返してやる。諦めろ、お前の未来はもう決定している」

「百じゃあ足りないだろうな。だが、百万ならどうかな」

「馬鹿なことを。もう巫女に力は残っていない。森を操ることもできない。お前らは万策尽きたんだ」

 我玖が顎で示したとおり、朱律の顔は血の気が失せ蒼白に染まっていた。痙攣する体で立ち上がろうとするが、ままならずに唇を噛みしめている。瞳が一瞬裏返ると、魂が抜けるように体が傾いた。

 朱律の体が倒れるまでの1秒に満たないわずかな時間、二人の視線が交差した。

 朱律は、穹の瞳に何を見たのか。倒れる直前に紫の唇を小さく動かすと、魄樹のように白くなった腕からダマスカスの枷を外した。

 もはや手を伸ばす力も残されていなかったのだろう。顔から倒れ込む反動を使って腕輪を放り投げた。

 我玖は放物線を描くダマスカスの白い輝きを目で追いながら、勝ち誇った笑みを浮かべた。

「力尽きたな。終わりだ、穹」

 触手が牙を剥き襲いかかる寸前。その出鼻を挫くように、穹は自らの腹に腕を突き刺した。

 我玖は思わず動きを止める。

「敗北を悟っての自決か」

「違う。負けるのは、お前だ」

 穹は痛痒も示さず、体内で拳を握った。

 黒い触手が動き出す。8つの顎が、絡み合う青い軌跡を描く。

 穹は腹から腕を引き抜き、白く輝くメモリを宙に放った。同時に、腰の拳銃を両手で2丁ずつ持ち、我玖へと投げつける。

 穹を標的としていた触手はメモリへと狙いを改めて襲いかかった。

 漆黒の鎌首がメモリを砕き、改めて穹に標的を定めるまでの数十ミリセカンドの時。溶けた岩石を押すように、ゆっくりと進む時間感覚の中。穹は我玖の嗤いを感じ取っていた。

 ――気が狂ったか?

 ――これで構わない。

 声になる前の気配に、やはり気配で答える。

 穹の脳内には、倒れた朱律の歌声が残響していた。魄人となった穹の心は、空間を越え時を飛び朱律と繋がっている。

 胸の奥を直接震わせる微弱な、かけがえのない歌声。微かな心の震えを頼りに、朱律が見ていた世界の断片を捕まえる。

 己の五感と歌声から得られる観測軸の情報を総体として知覚する。

 穹は新たに引き抜いた拳銃を両手に持ち、宙に廻る4丁の銃を撃抜いた。込められていた弾丸が暴発し虚空に飛び出す。

 弾丸が互いに衝突する度に起こる小さな火花が、穹の周囲に星座を産む。

 穹は右手に携えた拳銃を、頭上から落ちてきたダマスカスの腕輪へと向け、激鉄を起こした。

 銃口の先には、現実と未来が重なりあう二重写しの世界。発射される前の弾道を見据え、引き金を引いた。

 打ち出された弾は過たず腕輪を粉砕する。

 穹の周囲に火花を散らしていた跳弾が、確率を無視してその弾道を収束させ、ダマスカスの破片に次々と衝突し、さらに細かな破片を作り出していく。細かな破片同士もぶつかり合って砕け、その破片が更なる連鎖を産む。

 我玖は驚愕を浮かべようとしたのだろう、しかしその表情が完成する間もなく、百万に砕けたダマスカスの霰が降りそそいだ。

 触手は霧に撫でられただけで分解し、青いオゾンに置換され、分子の拡散に併せてゆっくりと輪郭をぼやけさせていく。

「馬鹿な。あり、えない。王となるはず、の、この俺が」

 体を霧散させながら、我玖は弱々しく叫び声をあげた。

 穹は、二重写しに見えていた視界が統一されていく目眩に襲われる。

「当たってから射る、だそうだ」 

 シードアガルタメモリと4丁の拳銃を投げる直前、穹はいくつもの銃声とダマスカスの砕ける音が重なり合う雷鳴の如き音、稲光の如き軌跡を脳内で体感していた。穹は狙いを付ける必要も感じないほど、己の動きを信じ、ただ時の進むに身を任せたに過ぎない。

 観測軸を回り込み未来の時間軸にあたる3次元世界を観測する。観測された3次元世界は収束し、現実となる。それはすなわち、未来を造ること。

 穹は我玖の蒸発を見届ける。

 その体内に取り込まれた膨大なオゾン細菌から、この空間を囲む大蛇から、死の霧が立ちこめる。

「穹、お前と俺は似ている。お前は魄樹に脅かされない世界を望んだはずだ。ならば、王が必要だ。まだ間に合う。俺の願いを受け継げ」

「断る。俺は、全ての願いを引き継ぐことにしたんでな」


 ※※※


 我玖はその答えに開いた口が塞がらなくなった。消滅していく体の事も忘れ、ナノセカンドの思考が停止する。

「お前は、至高の聖人か? それとも只の馬鹿なのか?」

「後者だ。俺には、どの願いが正しいか分からなかったんだ。だから、どれが永く引き継がれていくか、未来に丸投げすることにした」

「そうか。だがそれで、そこの巫女は納得するのかな?」

 穹は応えず、手元に視線を落とした。白い魄人の体は、塵となって流れつつあった。

 我玖は嘆息する。己を滅ぼした相手にまで情けをかける、そんな自分自身に憤慨と、気高い誇りを感じて。

「一つ教えてやろう。俺は王に近づいた。もう少しで同化していた。その時に、理解した」

 信じるかどうかはお前次第だが、と前置きし王の力の源について語る。

「こいつらの、王のエネルギーの源は『情報』だ」

 王のエネルギー源、すなわちオゾン生命の代謝は、酸素原子が3つ結合したオゾンが担う。だが、大気中の酸素分子に、もう一つの酸素原子を結合させるために使われるエネルギーは如何なるものか誰にも分からなかった。

 栄華の時代、人類は莫大な計算量を誇る端末を得て、遙か未来、宇宙の果てまで解析を行った。その結果、未確定であったフロンティアは予測という形で観測を受け、未来も宇宙の果ても枠に填められることとなった。それは人類の未来を狭める、破滅への足枷に他ならない。

 オゾン生命は観測軸を操作し、観測を無効化する。確定された情報が解かれるとき、情報熱力学に基づきエネルギーが解放される。

「彼らは情報をエネルギーに変換することで、人類が破滅へ向かう足枷を外しているとも言える。王が無くなれば、魄樹も滅びる。やがては人類もな。王が存在することは人類の脅威であり、未来への祝福でもあった」

「訳が、分からない。お前は何を言ってるんだ?」

「だろうな」

 満身創痍の男と、今まさに消えゆく異形は声を揃えて笑った。

 我玖は、もっと早くこの男に出会えればと心のどこかで思う己を一蹴する。どこかでわずかにずれた所で、この結果は変わらなかっただろう。

 最後には世界に絶望し、王に成り代わる選択をしたはずだ。滅ぼした命、その全てに報いるために同じ道を選んだに違いない。そして今のように消滅したのだろう。

 ここに至るまでに殺した人々の憎悪を背負い、無限地獄に堕ちる覚悟はできている。永遠の苦しみの中で懺悔も続けよう。だが、我玖にはまだ一つだけやらなければならない事が残っている。

 命を預けてくれた部下達。彼らが信じたこのシュクラ・我玖の願いを、次の誰かへと託さなければならない。

 このままでは、巫女はオゾンに焼かれて死ぬ。この場に満ちていく高濃度のオゾンは一呼吸で人間の動きを奪い、焼き尽くす。穹の体は崩壊し、無に還る。

 仕方がない、と我玖は心の中で嘆息した。

 目の前の青年が受け取るかは分からない。それでも、彼の心のどこかに残れば、願いの欠片だけでも託すことができれば。

「穹、お前の願いはなんだ」

 最後の問いかけに、穹は言い淀む。

 真剣に眉を寄せる姿を見て、我玖は安堵を覚えた。己の願いは間違っていなかった。手段に過失があったとしても、全人類の安寧という願いは、切って捨てられるものではなかった。

 沈思黙考を続ける青年は、思ったよりも多くのことを受け継いでくれたのだと直感する。

 我玖は消えゆく命の滴を空へと放った。


 ※※※


 我玖の問いかけに、穹は顎に手を当てて考え込む。五指はすでに崩れてなくなっており、分解は腕まで進んでいた。身体が塵に消えていく中にあっても、自らの願いは茫洋としたまま掴むことができず、言葉にならない。

 魄樹は世界を救いたいという願いから産まれていた。彼らも引き継いだ願いがある。それが正しいのかは分からない。ある者にとっては正しく、別の者にとっては誤りなのだろう。どちらの見方が正解かなど判断できない。

 ここは絶望に満ちた世界なのかも知れない。現に目の前で消えゆく男は深く絶望し、富も名声も命さえも棄てて反旗を翻した。

 だがしかし、ここで生きる者に罪はなく、全て生ある者たちは何かの願いを引き継いで産まれてきたのではないか。ならば、それを変えて良い道理はない。

 王ですら、きっと何かの存在からの願いを受けて産まれてきたのだろう。ならば、滅ぼすことが正しいと斬り捨てることはできなかった。

 互いに食い合うこの世界の有様も、悪くないのではないか。むしろ正しい姿なのかもしれない。人類、魄樹、魄人と王。お互いに争い、どれかが欠ければどれもが崩れる。そんな円環こそが、生命と呼ばれる物の本質なのではないか。

 全ての願い叶うことなく、翻って消えることもない。多様な願いが受け継がれ続ける世界を、穹は願った。願いの本質は、実現することではなく、続いていくことなのだから。

 悩んでいる内にさらに混乱した脳裏に、一人の顔が浮かんできた。これが、今の自分が胸を張って願いと言えるもの。

「とりあえず、今は」

 穹が口を開くと同時に、我玖の体からつむじ風が巻き起こる。

 立っているのもやっとな程に強烈な風が、周囲のオゾンを巻き上げ天へと上っていく。シュクラ・我玖という希代の偉才は跡形もなく消え、青く輝くアガルタシードメモリだけが残った。

 穹は落ちているメモリを拾いあげた。懐に仕舞いながら、その手が人の質感を取り戻していることに気づく。

「これは」

 身体を確かめると、傷が癒え元の姿に戻っていた。白く輝く山の頂を見上げる。

「礼は言っておく。だが」

 穹は目を細めた。心にもなく苦々しい言葉を呟く。

「生き残ったら、それはそれで難儀なんだが」

 ――お前は、その未来を選択したのだろう?

 胸に湧いた言葉は、我玖の言葉か、穹自身のものか。

 穹は肩を竦めると、霊峰に背を向けた。

 安らかな息を立てている朱律の身体を仰向けに寝かせる。

 限界をとうに越えた体は、清々しいまでに力が残っていなかった。朱律の隣に寝転がり空を見る。

 雲の切れ間から茜色の光が射していた。横を向くと、亜麻色の髪が黄金の流れとなって煌めいている。その美しさに思わず手を差しだし、ゆっくりと撫でた。

 目覚めたら、朱律はどんな顔をするだろうか。なぜ王を滅ぼさなかったと怒るか、それとも、願いを託す相手を間違えたと笑うのか。あるいは両方かもしれない。

 未来はまだ確定していない。

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Agalta seed 木山糸見 @kymaitm

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