第7話

 気が付けば身の毛もよだつ落下感はなくなり、代わりに浮遊感がポッドの中を満たしていた。上下も覚束ない暗闇の中、時間の流れすら曖昧になる。本能的に喉元までせり上がる恐慌を押し留めるのは、密着した相手の体温だけ。

「ねえ、穹」

 穹の耳元で、か細い声がした。

 外部からの情報刺激が少なく、顔の前にかざす手すらも視認できない暗黒。他者の存在が、自己を確かめる唯一の術だった。

「なんだ」

「例えば、さ。人間が居なくなって、魄人も滅んで。魄樹だけになったら、どうなるんだろ? 昔の酸素生命みたいな、魄虫とか魄鳥とか、そんなのが進化してくるのかな」

「さてな。考えたこともない」

「なんか、違う気がするんだよね。魄樹は永遠に魄樹のまま、時が止まったように変化のない世界に、死んだ世界になるんじゃないかなって。じゃあさ、魄人だけになったら? たぶん、この星を食い尽くして、最後には自滅する」

「そうだな。魄樹は変わらないだろうし、魄人は食い荒らすだけ。魄人が進化して多様化するかもしれないが、お互いに喰い合った先は資源の枯渇だろう」

 穹の耳元に髪が柔らかく触れる。朱律は言いにくそうに躊躇った気配を示した後、神妙な声で話し出す。

「里を出て、穹と一緒にここまで来て。プラントとか、ドームとかを見て。そしたら急に、不安になったんだ。もし、人間だけになったらどうなるのかなって。大昔みたいにまた緑が溢れて、永い時間をかければ、虫とか鳥みたいな生命も進化してくる? でもその先、ずーっと未来には、やっぱり破滅するのかもしれない。科学が凄く発達してた昔には、この星を、太陽だって壊せるほどの兵器があったっていうし。森が現れなかったら、どこかの誰かがそんな兵器を使ってたのかもしれない」

「そう、かもしれない。例えばプラントがそんな力を手にしたら、今の生活に絶望した誰かが躊躇なく使うだろう。ドームだって同じだ。化け物になったあいつみたいに、全てをぶち壊したいと思っている奴は絶対にいる」

「手前勝手かも知れないけどさ、考えちゃうんだよね。人間が世界を壊さないで済んだのは、魄樹が現れたおかげかもしれないって。確かに生活は大変だし、人も少なくなって、かつての社会からしたら見るも無惨なものかもしれない。けど、星を壊してしまったら、全てお終い。誰も生きられない。それに比べたら、人が生きているだけでも良いのかなって思うの」

 穹は無言で、ぽつりぽつりと語られる言葉に耳を傾けていた。

「なんか変なこと言っちゃった。ごめん」

 朱律は照れ笑いでごまかす。二人の衣服が擦れ、ざらついた音を立てた。

 魄樹が現れなかったとしたら、世界はどうなっていたのだろうか。

 森が現れる前、人類が繰り広げていた三つ巴の大戦。各陣営は内部崩壊寸前で、誰かが気まぐれに大量破壊兵器を起動していたかも知れない。あるいは、どこかの陣営が全世界を支配下に置いたか、争いに疲弊して互いに手を取り合っていたか。いずれにしても、人類は何度でも相争い、最後には滅亡が待っていたのかもしれない。森の出現によって科学技術が廃れ、人類の種の力が衰えた結果、破滅が引き延ばされた。

「俺は、今の世界が正しいとは思えない。プラントがドームに抑圧される事を肯定することも、人が魄樹や魄人に殺される事を良しとすることもできない」

「うん。それは私も同じ。どうにか共生できないかなって思うけど」

「そうだな」

「え?」

「もし、誰も傷つかない、支配されない世界があるとしたら。オゾン生命とすら共存してるんだろうな」

「なんか穹、変わったね」

 朱律の声は、宵の口に一番星を見つけた子供のように楽しげだった。

「一つの願いに固執すると他に何も見えなくなる。自分の願いは正しいのか、常に疑い続けなければならない。さもないと己に失望するか、世界に絶望するか。どちらも結果は、破滅への道」

「どういう意味?」

「里で助けられた時、茜に言われた言葉だ。あの時は意味不明だったが、今は」

 言葉の途中で急激な加速が襲い、穹は舌を噛んだ。

 先ほどまでの浮遊感から一変し、急減速と共に体が左右に振り回される。

 穹は朱律の頭を保護するように胸に抱き込んだ。二つの絶叫が重なる。

 しばらく続いた揺れは、壁に激突するように激しい音とともに停まった。空気が吹き出す音に続いて、真っ暗な視界に縦一筋の光が走り、徐々に太くなっていく。

 開いた扉から朱律が身を捩り先に抜け出していったが、穹は意識が凍り付いたように呆然としたままだった。

「穹、着いたみたいよ」

 穹が口を開けて固まっていると、ひんやりとした朱律の手が頬に添えられる。

「大丈夫?」

 朱律は髪を片手で押さえて小首を傾げつつ、穹の顔を覗き込んだ。はじめは優しく声をかけていたが、なおも無反応な穹に口調が荒くなっていく。

「いい加減に起きる! また引きずってくよ!」

 何度か頬をたたかれ、穹の瞳にようやく焦点が戻る。ふらつく頭を軽く叩きながら、ポットから這い出た。

「酷い目にあったな。ドームを出てどれぐらい経った?」

「うーん。2、30分くらいかな。最後のはちょっと面白かったね」

「勘弁してくれ」

 穹はまぶしさに目を細めつつ周囲を見回す。

 遙か頭上から白い光が降り注いでいる。白色化した木質の壁は波打つような起伏があり、全体として筒形の部屋は捻れつつ上方へとすぼまっていた。二人の乗ってきたポットは反対側の開いた穴から滑り出て、壁に激突して停まったようだ。

 穹は床に転がるポットの側で身を屈める。

「まるで本物の魄樹だな」

 白色光を反射する床の文様は、魄樹の外皮そのものに見えた。

「たぶん。そうだと思う」

「まさか。魄樹を伐採加工なんてできないだろ」

「っていうか。まだ生きてるみたい」

「何を馬鹿なこと」

 穹が物珍しそうに床をなで回していると、どこからともなく声が響いてきた。

『久方ぶりに荷物が届いたと思えば人間が付いてくるとは。珍しいこともあるものだ』

 ただ広い室内のどこにも人影はない。白くうねる壁が震えて声を作っているような、音の区切りが曖昧な声が反響している。

「誰だ!」

『私は研究者と呼ばれている。その前の名は、とうに忘れてしまったよ』

 きまじめそうな声は、懐古の響きをおびていた。

 朱律は目を丸くして尋ねる。

「貴方は魄樹なの? 話ができるの?」

『そうだ。君たちが立つ場所は、私の、私たちの幹の中ということになる。ふむ、そちらの青年は人型があった方が話しやすいかね』

 目の前の床が盛り上がり、白衣を着た男の形ができあがった。

 豊かな髪を後ろになでつけ両手を組んだ外見は細部まで人間を再現しているが、鈍い白色と質感は紛れもなく魄樹のものである。

 穹はもはや驚くことはなかったが、視線は一層厳しくなった。

『そう警戒するな。状況は選定者から聞いている。君たちが持ってきたシンプレクタイトメモリを解析すれば良いのだろう』

「メモリをどうするつもりだ」

 穹は人型と朱律の間になるように移動しつつ、こわばった声で問いかける。

 人型は首を振り、困った様子で眉を寄せる。その動きは人が魄樹の皮を被せられているようで、あまりにも人間じみていた。

『言われた通り解析を行うだけだ。君たちはシュクラ・我玖とかいう、あの黒い獣のを止めたいのだろう? メモリを解析すれば、彼の弱点を知ることができるかもしれない』

 なおも躊躇している穹だったが、後ろから袖を引かれて振り返る。

 穹の服を掴んだ朱律は、瞳に確信めいた色を浮かばせていた。

 その顔を見て、穹はしぶしぶ懐に手を伸ばす。巫女に託された、シンプレクタイトメモリを取り出した。

『宜しい。そこに置いてくれ』

 壁から触手が伸び穹の目の前で止まった。

 穹がゆっくりとメモリを近づけると、触手の先が変形しメモリが結合される。

 人型は難しい表情になった。

『しばし時間がかかりそうだ。上で話をしようじゃないか』

 床全体がせり上がり穹と朱律を上方へと運ぶ。白い光源が近づくにつれ、それが外界に通じる穴であったことが分かる。

 穴を通り抜け、更に上昇していく。

「ここは何のための施設なんだ?」

『この縦穴はかつて月を目指す推進装置を開発するために掘られていたもの。地下300mの深さがある。当時の建材はもはや残っていない。すべて我々の体で置換されている』

 魄樹の中を昇りながら、穹は顎に手を当てて考え込んでいる。

 魄樹でありながら思考を保つ、研究者という存在。彼らだけが特別なのか、他の魄樹は。

「教えてくれ。魄樹とは一体何だ? 俺はその答えを求めてここまで来た」

 切実な穹の言葉に、研究者は白い黒目を大きくした。

『人類は魄樹の探求を諦めたと思っていたが。君は中々の変わり者だな。よかろう』

 人型はわざとらしく咳払いの仕草をする。魄樹の体には全くもって不要な行動だが、研究者の癖だったのだろう。白衣を模した魄樹の皮が翻る。

『魄樹は光合成の如く、大気中の酸素を取り込みオゾンに変換している。一定量を生成すると青い霧として体外に放出し、周囲の生態系を破壊する。酸素生命が周囲に酸素という猛毒を振り振り撒いたように。酸素を生成できるのが限られた微生物であるのと同様、オゾンを生成できるのも一種類の細菌であるという点で両者は似ている。だが、酸素生命は純粋な化学反応から酸素を生成するのに対し、オゾン生命がオゾンを生成するメカニズムは未解明。未知の物理法則を利用している可能性がある』

 流暢な言葉は相手の理解を待たずに一方的に話を進めていく。

 朱律は既に諦めた顔をしており、壁に向かって椅子を要求している。魄樹も律儀に答え、変形して丸椅子を用意していた。

『魄樹はオゾンをエネルギー源として活動、成長する。人間が呼吸によって酸素を用いてエネルギーを得るのに対し、魄樹はオゾンを用いて酸化サーキットを回すことで、酸素生命に比べて高い効率でエネルギーを取り出す訳だ。オゾンの強力な酸化力のおかげで、既に酸素と結合している物質すらも餌とできるため、人間を含めた動植物はもとより、かつての人類が建造した建物や道路などの無機物さえも餌として成長する』

 研究者の演説は益々熱を帯びていく。

 穹は耳に全神経を集めるように目を閉じて聞き入った。

『初めのオゾン生命は、かつてロシアと呼ばれた土地に現れた魄人であると言われているが、伝承の域を出ない。人類の歴史よりも古くから存在していたと考える研究者や、地球外から来たと主張する者、別世界からの渡航者だと主張する者までいる始末だ。その出自は結論が出ていないが、爆発的に増加したのが今から400年前であるのは間違いない。魄樹として地上に現れ、地上を覆い尽くした』

 地下に追い落とされた人類が地上に戻るまで、10世代以上の時が流れた。かつての地上を見たこともない者達は、地から這い出たそこに何を感じただろうか。データでは緑と表現されている木々は白く、褐色だったはずの土壌は赤錆色。他の動植物は絶滅し、青い大気の中に白い森が広がる死の世界。

 穹は、研究者の口から語られる失われた記憶に、魄樹の秘密に引き込まれていた。

『ここは元々、この国の政府機関による研究所だった。かつては月への人類移植を目指すなど多岐にわたる研究がなされていたが、オゾン生命が現れてからはその生態に関する研究一本に集約された』

 人型は、穹を注意深く観察するように見つめながら、口元を小さく振るわせていた。穹が何者か見極めようとしているのか、研究対象にむける鋭い眼光がある。

『特殊な環境にある生命についての研究という点では、オゾン生命の前にも例がある。例えば、深海の熱水噴出口付近に形成されたチムニーと呼ばれる構造周辺に見られる生命圏。ここでは酸素ではなく硫黄を用いてエネルギーを作り出す微生物が知られていた。極限環境であればあるほど、特殊な生命が存在し様々な知見が得られる。それは生命の起源から地球外生命にも繋がるものとして長い間取り組まれてきたテーマだ』

 穹は首筋に手を添えた。後ろではなぜか朱律も同じ場所に手を当てている。

 人型は二人の様子を無視して話を進める。

『地下深部に生息するオゾン生命は、酸素/オゾン置換において電子が五次元空間をわずかに移動するという量子効果を用いていることが確認されている。その原理は観測軸原理に則るものであると我々は睨んでいるのだが。観測軸原理とは、波動関数の収束を1か0ではなく、パラメーター化する理論だ。現実化エンリッチメント値で表すのだが、これは君たちには理解できないだろう』

 穹は顔をしかめ、朱律は頬杖をついている。人型は鼻を鳴らして大仰にため息をつき、話題を変えた。

『我々はオゾン生命の研究を始めた。培養管に隔離して生態を観察し、エネルギー収支を研究していた。しかし、細菌はどんなに厳重に隔離してもたやすく抜け出す。オゾンの酸化力でも破られないはずの封印をすり抜け、外に漏れ出す。そして、人に感染して爆発的に増殖する。そして生まれたのが魄樹だ」

「魄樹は元々、人間だった、のか」

『そうだ。現在ではオゾン症と言えば霧となって消えることだが、当初は魄樹と化すことを指す病名だった。発症すれば瞬く間に周囲の構造物を取り込み急成長し、大地に根を張る。周囲の人間を襲い、その血を啜る』

「嘘だ。じゃあ、人間が魄樹を、人間を」

 穹は蒼白な顔で自らの手を見た。荼毘人の支給品である黒い手袋を嵌めた両手は細かく痙攣している。

『感染者はすぐに隔離し消滅させるが、幾ら対策しても感染者が出る。研究員が減り、奴らを抑える事ができなくなった。今にして思えば、これは必然だったのだろうな。なぜなら、そこの娘のつける腕輪、ダマスカス鋼こそ太古から人類がオゾン生命と戦って来た証拠だ』

 急に話題がおよび、朱律は肩を跳ねさせる。

「何のこと? 昔から代々の巫女に受け継がれてるってことしか、聞いたことない」

『ダマスカスは中東にあった都市の名だ。そこで製造された刀剣は白く濁った白色に浮かぶ、木目のごとく流れる有機的な筋、すなわち魄樹の外皮と酷似した文様を特徴とする。紋様の成因は大量に含まれる炭素繊維に由来すると言われ、多くの炭素と種々の微量金属から成る。微量元素はマンガンをはじめとする、オゾン分解の触媒となる元素が多く含まれる。その刀剣は、切りつける度にナノレベルでの刃こぼれを起こし、切り口から魄樹の体内に触媒を侵入させる。明らかに、対オゾン生命に特化した武装だ。ダマスカス鋼は紀元前より製造されていたが、その製法は歴史に埋もれてしまった故、その存在を知る者も少ない』

「これを使えば。これで武器を作ればあの怪物に勝てるの?」

『無理だ。腕輪を仮に刃に加工しようとも、シュクラ・我玖は多量のオゾン細菌を取り込み巨大化している。切りつけた部分を棄て、再生されるだけだろう』

「何か方法ないの?」

『それを造っていたところだ。解析したメモリからその対となるプログラムを作成した。これを使えばあの黒い獣を、さらに使い方次第では世界中のオゾン細菌をまとめて滅ぼすこともできる』

「それは」

 穹は鋭い視線を向けた。

「全ての魄樹を、森を滅ぼせるということか? 本当に、できるのか」

 絶句した朱律に代わり、穹がその使用方法を問いただす。心の中の葛藤を抑え込むように、胸元を握りしめていた。

 人型の口調は、どこか歯切れが悪い。

『アガルタシードメモリは、このメモリを宿した者が取り込んだオゾン生命の指揮系統を完全に支配し、余剰次元エネルギー生成機構を活用することでオゾン生命の限界を超えたエネルギーを解放するプログラムが書き込まれていた。この機能の内、指揮系統支配を残し、オゾン生命の自滅を加えたものが、このメモリだ。アガルタを摘み取る者、シードアガルタメモリとでも名付けようか』

 人型は触手を伸ばし、穹の手に透明なシンプレクタイトメモリを差し出した。

 受け取り、光にかざして眺める。透き通った結晶中には、包有物が織りなす金糸が呪術的な図形を描いていた。

『使い方はいたってシンプル。黒い獣にそのシードアガルタメモリを埋め込めば良い。アガルタシードが無限の力を授けるマナの壷なら、こちらはアロンの杖。装着したオゾン生命は瞬時に行動不能に陥り、効果を現すだろう。さらに、奴が王と繋がり全世界のオゾン細菌と接続された時であれば、世界中のオゾン細菌は自滅を開始する』

 里の者達が畏れ、我玖が目指すと言った王という言葉。世界に破滅をもたらすかのように語れる者。それはどのような存在なのか、復活するとはどういうことか。

 オゾン生命の根幹に関わる謎を問う時がきた。

「王とは一体何なんだ?」

『王は地下深部にあるセントラルサン。観測軸上に存在する、オゾン生命の司令部といったところだ。地球上に存在する全てのオゾン細菌。魄樹、魄人問わずオゾン生命は遍く王の命令にかしずく。魄樹は、人間の心が残っている内は王の命令に抵抗できるが、屈したものが魄人となる。まあ、いくら自制心が強い魄樹とて人間が近づけば、構成するオゾン生命を止めきれず襲いかかることにはなるのだが』

「魄樹には。心が、残っている」

 穹は呆然と呟いた。朱律は髪を揺らして大きく頷いている。

『そうだ。そして魄人は、この地を目指す。ここから地底へと触手を延ばしてセントラルサンに触れたとき、地核という巨大で高密度なガラス容器に捕らわれた王が地上へと帰還する。王が復活すれば、森の樹も抗いきれない。オゾン生命にとって人間は食糧でしかない。人類は王命を受けた魄樹に食い尽くされるだろう。だが、このシードアガルタメモリがあれば逆にオゾン生命を全て自滅させることができる』

 人型は満足そうに、大仰過ぎて首が外れそうな人外の動きで独り頷いている。

 その姿も目に入らない程、穹は己の無知を恥じていた。魄樹の気持ちが分かると言った朱律の言葉が、脳裏に蘇る。

 穹は唇をきつく噛みしめる。魄樹を滅ぼすために生きてきた。人の心を持った存在を、人類を守っていた魄樹を根絶やしにしてやると。ただ憎しみを燃やし、何も知らず、知ろうとも思わなかった己の身勝手さに嫌悪を抱く。

 肩を振るわせる穹の横で、朱律は人型を半眼で見つめ口を開く。

「メモリはどうやって獣に埋め込むの? 王と接続したタイミングってどうやって分かるの」

『隙を突けば良い。タイミングについては、獣に聞いてくれ』

「はあ? 結局、あの化け物と正面からやり合うのと変わんないじゃない」

 オゾン生命を滅ぼす方法は確かに凄い事なのだろうが、我玖の体内にある埋め込むには接近しなければならない。差し出して大人しく取り込むはずもなく、戦闘不能にするか、巧妙に騙すか。一体でドームの荼毘人を全滅させるような怪物を相手に、たった二人でやり遂げなければならない。

 朱律は幻滅した目で研究者を睨むと、大胆にも研究者につかみかかり、その首を振り回した。

 穹は慌てて駆け寄り、人型から離そうと朱律の肩を抑える。

「もったいぶっといて、この役立たず!」

 なおも朱律は人型の首を前後に揺さぶるのを止めない。

『うむ、だが。何故かな、君たちなら出来るかもしれない。そう思うよ』

 研究者は首を乱暴に揺さぶられても何ら変わらぬ口調であった。白一色の瞳は小さな灯火を見つめるように細められている。

『先ほど君たちの遺伝子をサンプリングさせて貰ったのだが、なかなか興味深い。脳のスキャンも撮ったが、実に驚いた。科学者であるが故に神を信じる私ですら、この運命に身が凍る』

 朱律が首根っこを振り回していた手を止めると、これまで上昇を続けていた床も動きを止めた。

 微かなオゾンの刺激臭が鼻につく。

『灯里朱律。君は、かつてある男が生み出した魔王創造者の末裔だ。そちらの青年は、ゲシュタルト能力者。かつて科学の爛熟期が訪れる前、この世界は滅びかけたことがある。それを止めたのが、巫女と呼ばれる少女とゲシュタルト能力者の二人組だったという』

「何のことだ」

 聞き慣れない単語の連続に、穹は首をかしげた。朱律を見やると、中空を見つめて唸っている。

『大昔、この国には戦乱の時代から変わった力を持つ者たちが居た。ある者は木の葉の揺れから敵陣の配置を見抜き、またある者は弓が当たってから射るが故に必中と宣ったという。それらを、後の科学者たちはゲシュタルト能力者と呼んだのだ』

 ゲシュタルトとは総体知覚を表す言葉だ、と研究者は語る。目に映る万物の移ろい、肌に当たる風、匂いもさせぬ極微量の香り。それらを個々の情報に分解するのではなく一枚の絵として繋ぎ合わせることで、時間も空間を超えて事象を知覚する力。

 穹は眉を跳ね上げ、息を止めた。

『対面した者の本質を見抜く【選定者】、世界の行く末を捉える【巫女】。無関係と思えるデータから理論を導く【研究者】。そして、放つ前に弓を当てる【剣豪】」

「俺は」

 魄人と対峙した時。目で捉えられるはずの無い速度で振り下ろされる触手を穹はなぜ躱すことができたのか。穹の額に汗が噴き出す。

『ソーマ・穹、君は剣豪のゲシュタルト能力者だ。過去に時代を変え、切り開いてきた者たちの先祖帰り』

 研究者の言葉が耳朶を打つ度に、穹の瞳が不安定に揺れる。

 周囲の魄樹の壁も小刻みに震える中、研究者は口調を早めた。

『ゲシュタルト能力者の神経細胞の結合を完璧にスキャンし再現した物が、君たちがドームで会った選定者と巫女だ。人類はゲシュタルト能力を持つ者たちを亡霊として留め、ドームの支配に利用してきた』

「俺は。同類なのか」

 ドームに君臨し、人類の願いを抹殺してきた亡霊たち。それらと己が同類であるという研究者の言葉。

 穹は荼毘人の制服の上から心臓を握りしめた。顔中から溢れる汗が顎を伝い、魄樹の床に落ちて暗い点を打つ。

『ゲシュタルト能力は観測軸を介し、4次元を虚数軸から迂回することで未来を見ているという仮説がある。それは精神世界を覗いているとも言える』

 研究者は人型を左右に揺らす。人間で言えば激しい眩暈に今にも倒れる寸前といった様子だが、語る口調には苦しさは一片も混じっていない。だが、言葉の切れ端にノイズのように聞き取りずらさが発生していた。

 その違和感にも気づかぬほど、穹は己の存在が根幹から揺さぶられていた。

『古の伝承では、地底王国アガルタは長寿の精神体が住む世界であると言われていた。地上で酸素生命が進化し人類が文明を築いたように、地下では独自の生物圏からオゾン生命が現れ、地底王国を作り上げた。地球深部は自然による攪乱が少ない。地上よりも数億年は早く進化できた違いない。その結果、人類と違うエネルギー代謝システム、より進んだ高次元をコントロールする術を獲得することができた。古の伝承にある精神体とは、オゾン生命の特性を過去の人類が知り、後世に伝えたものなのだろう。オゾン細菌は数世紀はゆうに生きるとシミュレートされている』

「そんなこと、今はどうだって良いの」

 朱律が、穹の前に立ち人型と向き合った。その視線は、時空の彼方を射抜いている。

 朱律は、飽き飽きしたとばかりに大きく首を振った。

「昔話はもうたくさん。嘘か本当かも分からない理屈こね回したって有り難くなんてない。大切なのは今、私の願いを託すことができるかどうか。あんたが役に立たないのは分かったから、せめてあの怪物がどこに行ったのか教えなさい」

『シュクラ・我玖はすぐそこにいる。この山は地核の割れ目の直上、3つのプレートが接合するトリプルジャンクション。地下の王を目指すにはうってつけの場所だからな。この地理的特徴と、この国が御神木と呼んで樹木を神聖視し、畏敬の対象としてきたことは無関係ではあるまい。奴は今、大地に座して周囲の森を取り込み、触手をこの星の深部にある王へと伸ばしているところだ』

 人型が頭から崩れた。周囲の壁も結合を失い、青い霞に変わっていく。

 驚く穹の頭上から、収束を失い聞き取りずらくなった研究者の声が降る。

『もう私も取り込まれる。魄樹化した体とデータを結合して思考を保って来たが、体が無くなれば端末の動力も潰える。後は、託す。願わくば』

 そこで言葉はとぎれた。

 研究者はどんな願いを託そうとしたのか。その答えは世界にとけ込み、消えていった。

「まずい。ここを出るぞ」

 穹は朱律の手を掴んだ。一際暗く、むせかえるオゾン臭の方へと走る。床の魄樹が急速に解け、ぬかるみのように足首まで沈む。

 必死の形相で淵まで辿り着き振り返る。背後に地の底まで届く大穴が開いていた。

 二人の足がぴたりと止まる。

 周囲には虚無が充満していた。地上をくまなく覆っているはずの森はなく、見渡す限り裸の大地が剥き出しになっている。

 魄樹が跋扈していたはずの霊峰は、その直線的な輪郭を完全に露わにしていた。

 青い死の霧よりも禍々しい漆黒の霧が、つむじ風と共に周囲に踊り狂っている。霧は渦を巻き、円環をなしていた。

 霊峰に巻き付く霧の輪は、まるで巨大な注連縄の如く大地に横たわっている。

 穹は全身を強ばらせる。奥歯が軋みぎしりと音を立てた。

 朱律は長い髪を嵐にはためかせながら、霧の中心を見つめる。

「あれは、ウロボロス。人類全ての心の底に横たわる畏れの大蛇」

 顔を蒼白に染め、凍えたように震える唇から細い吐息が漏れている。

「子どもの頃、お父さんにせがんで色々な話をしてもらったの」

 朱律の父親は、過去の歴史を研究して各地を放浪していたという。方々の遺跡を探検しては太古の文明に関する情報を収集していた。その途中で里に流れ着いたらしい。里の一員となってからも家族で遺跡を訪れては、娘に様々な話をして聞かせていた。人類が発祥して間もない頃から語り継がれてきた、神話と呼ばれる昔語り。それは幼い朱律の心を虜にした。

「さっきの研究者の話を聞いて、お父さんが話してくれた巫女の由来についてのお話を思い出したの。巫女は、人類の科学で生まれた特別な力をもつ女性、ラプラスの姫君の末裔なんだって」

 爛熟した科学技術が辿りついたのは、人間の脳という未知の領域だった。科学では説明のつかない力を持つ人々の脳を分析した結果、当時は種々の異能者が産み出されたという。その中に、巫女の礎となる女性がいた。

「ラプラス?」

「魔王を産む姫とかってお父さんは言ってたけど、良く分からないみたい。彼女は未来を覗く力を持ち、一人の少年とともに世界を救った。二人が闘った相手が、黒霧の大蛇ウロボロス」

 今、二人の眼前に広がる破滅は、遙かな過去にも起こっていたのかもしれない。どうやって撃退したのか、世代を重ねる間に記憶は語り継がれなくなり忘れ去られた。ダマスカス鋼のようなオゾン生命を滅ぼすための技術は産み出された理由を無くし、製法も徐々に失われていったのだろう。

「この霊峰は不死の山。この国で最古の物語では、不死の妙薬を捧げた場所と言われてる。もしかしたら、地下に眠るオゾン生命を暗示していたのかも」

 月のお姫様の話おもしろかったな、と朱律はぎこちなく微笑んだ。

 穹は手折れるほどに細い腕を掴み、朱律を正面から見つめた。小首を傾げる朱律に、厳しい声で告げる。

「朱律、お前は逃げろ」

 きょとんとした琥珀の瞳、心の強さを見せる細く伸びた眉。穹は脳裏に焼き付けるように見つめた。

「人間だった魄樹を、人間が滅ぼす。俺たちプラントとドームの人間は、罪に汚れきっている。だが、朱律は違う。魄樹と共に生きてきた。だから朱律は、死にに行くことはない」

 死者の灰のような霧の中、琥珀の瞳には堅く強ばった穹の顔が映っている。強風に流れる亜麻色の髪は内側から光りを放つように輝きを絶やさない。

 穹の体に光りが巻きついた。

「私たちは二人だからここまで来れた。そうでしょ」

 穹の胸に顔を埋め背中に手を回す朱律の口調は、ひどく優しい。

「私のお父さんは、里に現れた魄人を止めるために犠牲になった。今まで誰も見たこと無いほど強大な魄人。森も止められなかった。里中の人たちが屋敷に集まって、肩を寄せ合って震えてた。そんな中、お父さんは出ていったの」

 涙を浮かべて送り出す茜を優しく抱きしめ、朱律の父は里の直ぐ外まで迫った魄人へと歩いていく。その背中を見送り泣き崩れる茜を残し、朱律は後を追った。

 一緒に無人の里を歩く。泣きじゃくり戻ろうと懇願する我が子を優しく撫でると、ずっと見守っているから大丈夫だよ、と告げて魄人の前に立った。

「お父さんは魄人に取り込まれて、同化した。魄樹になったの。魄人と混ざり合って、森も一緒に混ざってくれて、お父さんだった形がどんどん崩れてごちゃごちゃになって一本の樹になっていく。その様子を、私は間近で見てた。頭の中には優しい声がずっと聞こえてたから、怖くはなかった。ただ、二度とお話が出来なくなるって子どもながらに分かった。悲しくて、寂しくて泣き出しそうだった」

 穹は、涙を流した。口元はわななき、嗚咽が漏れる。背をさする小さな手の感触に、涙がさらに溢れる。

「お父さんはね、最後に私に言った。いつかきっと、今よりも悲しくて、苦しくて、逃げ出したくなるような時が来る。生きていれば誰にでもそんな瞬間は訪れる。だけど、その時に、そんな時でも隣に居てくれる人が、きっと守ってくれる。だから朱律もその人を守ってあげるんだよって」

 朱律はそっと体を離すと、穹の目をのぞき込んだ。穹の反応を楽しむかのように濡れた瞳を細める。

「穹は言ってたよね。プラントが襲われた時、穹だけが魄樹の揺りかごに守られたって。それはたぶん、穹のご両親や親しかった人達じゃないかな。みんな、穹に願いを託したんだよ」

 朱律は腕輪を填めた手で胸の一角獣をなでる。その手を、穹の胸に当てた。

「両親と里の皆から受け継いだ、魄樹を守るという願い。私の願いを、穹に託す」

「まだ死ぬ訳じゃないだろ。朱律は……俺が守る、絶対に」

 穹は心の底に灯った感情を口にした。それは命を賭すよりも難しく、生きることよりも大切な、魂の言葉。強風にかき消されそうなほど小さくとも、朱律に届いた。

「ありがとう」

 華やかな笑顔が咲く。今にも体を弾ませそうな、はしゃいだ声だった。

「でも、別に生きてたって願いを託しても良いんじゃない? 穹がどの願いを受け継ぐか分かんないけど」

「俺は」

 穹は俯いた。自らの命を賭してと思っていた願いもあったが、今思えばそれは無知が故の盲目だった。滅ぶべきは魄樹か、人類か。何かが無くなればそれで解決するような単純なものではないのではないか。何も理解できていなくては、確たる願いを抱けない。

「奴に、シュクラ・我玖に会おうと思う。奴と話しをしてみたい。一緒に来てくれるか」

「うん」

 朱律は強く頷いた。絶望の霧に袴の裾をはためかせ、遠い空を見上げた。

「穹の出す答えはきっと、世界にとって良いものになるはず。私はお母さんみたいに巫女の力はないから、正しいかは分からないけど」

「朱律は、巫女の力を受け継いでるんじゃないのか?」

「たぶん、ちょっと違う。お母さんは未来の断片が見えるって言ってた。樹の声を聴きながら、聞こえることを忘れていくと見えてくるって。過去の記憶が頭の中に入ってきたり、未来の光景が現実と二重写しに見え出すとか。けど、私にはそんな力はない。樹の声が聞こえるだけ」

 朱律は諦めを浮かべて笑っている。

 穹の脳裏に、彼女の歌を聴く度に襲われる不思議な体験がよぎる。朱律が感じている世界、いずこかの風景をもたらす歌声。

「もしかしたら、朱律の力は」

 今まで見てきたビジョンは、もっと違う風景を語りたがっていたのかも知れない。

 穹は額に手を当てて考え込むが、結局、かぶりを振った。

「いや、なんでもない」

 思考に沈む穹の顔を見て、朱律は小首をかしげる。黒装束を周囲に溶け込ませ立ち尽くす穹の手が、ぬくもりを帯びた両手に包まれた。

「私は、自分が非力だって分かってる。けど、絶望はしてない。穹は自分に力が足りないって思ってるかも知れない。でも二人ならなんとかなるって。これまで何度も死にそうになったけど、立ち止まりそうになったけど、何とかここまで来れたんだからさ」

「ああ。行こう」

 穹は嵐の中心へと顔を向けた。

 無限の円環、流転、生命、すなわち世界そのものを体現する大蛇の胎内へと歩き出す。

 煤煙の向こうに霞む空。高く盛り上がった雲が、夕日を受けて茜色に縁取られている。宗教画に描かれる終末の風景を、吹きすさぶ風に逆らい進む。

 風は更に激しさを増し、朱律は長い髪を押さえた。

 触手が地を穿つ力が増したのか、大地が激しく振動している。まるで液体の中を進むように、濃密な霧は肌にまとわりつく。

 二人は腕で口元を覆いつつ、どぷりと音がしそうなほどに濃密な空気を突き抜けた。

 内側は外の嵐を微塵も感じさせない、時が止まったように凍りついていた無音空間だった。

 停滞し淀む場の中央で、人影が悠然と佇んでいる。

 闇色よりもなお暗い、虚無色の体を覆う有機的な蒼い文様。背には、足下に届くほど大きな翼が生える。

「シュクラ・我玖」

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