第6話
穹と朱律は、プラントからドームへと続く一本道を歩いていた。
踏み固められた地面は足が運びやすく、これまでの森の行軍に比べると体力、時間ともにかなり節約することができた。歩き続けること2日間、彼方に灰色の卵型を望むまでにドームへと近づいていた。
灰色の雲に覆われた空の下、ドームは天空から産み落とされた卵のように大地にめり込んでいる。灰色のガラスは輪郭が背景と同化しており、見つめていると、脈動し収縮を繰り返している錯覚を覚えさせる。
変化のない景色の中を黙々と進んでいると、世界中に鳴り響くような甲高い音が轟いた。
「あれ、は……」
朱律は立ち止まると、自分の肩を抱えた。地面にへたり込み、ドームの頂を見つめる。
その視線の先、ドームの天端に黒い何かが翼を広げていた。遠目にも視認できるほど、その大きさは尋常ではない。曇天に漆黒の翼をはためかせ、よろめきながら蒼い靄の軌跡を残して飛び去っていく。
「翼の生えた、蛇」
朱律は口をわななかせ、畏怖のこもった声音で呟いた。
穹は揺れる蒼い軌跡を見つめる。巨体の後ろには、オゾンだろうか、青い煙が長くたなびいていた。飛び去っていく方角には、古より霊峰と謳われた山がある。森林限界などない魄樹に覆われ、遠目には山頂まで白く染まった正三角形の山体。黒い物体はそこに向かっているように見えた。
「朱律、あれは、何だ?」
「分からない。森の恐怖がすごい。こんな声、今まで聞いたことない」
朱律はその瞳に涙をためている。穹に助け起こされると、袖にすがりついた。
穹は、狼狽える朱律を安心させるように力強く頷いて見せる。
「とにかくドームに行く。俺たちの目的はあそこにある。やるべき事を見失うな」
朱律は涙をぬぐい、大きく首を縦に振った。凍えるように血の気が失せた両手を胸の前で握りしめている。
二人は目くばせを交わし、並んで走り出す。
黒い飛翔体が現れた瞬間から周囲は静まりかえっていた。早鐘を打つ鼓動が聞こえそうなほどの無音。あれに近づいてはならない、追ってはならないと怯えている。
穹は灰色の世界を、紅の少女と共に進む。互いの手の平から伝わる温もり、いま感じれられる唯一の生命の証を、自然と握りしめていた。
灰色のドームが次第に大きくなってくる。遠近感を狂わせる巨大な構造物から目を外し、足下を見つめて走り続ける。
肺が空気を求めてあえぎ出す頃、ついに入り口までたどりついた。
閉ざされているはずの扉はわずかに開いたまま放置されている。薄い隙間から中の空気が漏れていた。
「あれに、襲われたのか」
穹は顔をしかめた。
ドームから漂う空気は、ひどく不快な臭いがする。魄樹に襲われたプラントと同じ、命が蹂躙された臭い。
分厚いガラスの扉に体重をかけ、横に押していく。人一人が通れるほどの隙間ができるまで扉を開くと、一度深呼吸をしてからドームの中を覗き込む。
眼前に広がる光景は、無残なものだった。
「何が、あったの」
目を見開き立ち尽くしていた朱律は、魂が抜けたように呟いた。
「オゾン臭がひどい。魄人に襲われたのか? だがドームには荼毘人も、ナノセカンドもいたはずだ。ただの魄人が何匹いようと、ここまでの被害が出るはずがない」
周囲を警戒していると、朱律が憂いの籠もった声で囁いた。
「もう、終わってしまっている。樹の怯えが、遠くに離れていった」
中央のシャフトまで延びる広い道を、把握できないほど無数の死体が折り重なり、埋め尽くしていた。亡骸はどれも大小無数の穴が空き、恐怖の表情を張り付けたまま絶命している。中には吸収され半ば体が溶解しているものもあった。
人々の暮らしていた硝子の家は飛び散った血で赤く汚れている。高濃度のオゾンに曝された血痕は固結してもなお、動脈から吹き出したばかりのように鮮やかな赤色を呈していた。脱臭され血なまぐさのない液体は、人体から流れ出たものとは信じがたい。
生きながら身体を溶かされた者、オゾンを吸い込み急性中毒となった者、無数の触手で貫かれる激痛にショック死した者。どれもが目玉を眼窩から飛び出させ、顎が外れるほどに口を開いて絶命していた。一様に出口へ、穹たちの立っている場所へ顔を向けている。
二度と動くことの無い彼らの死に顔から、助けを乞う声や無数の怨嗟が滲み出ている。
屍の背を踏み越えなければ、端末のあるシャフトにたどり着けない。しかし、倫理的な禁忌が足を縛り、躊躇わせる。
「ごめんなさい」
隣に立つ朱律は震える声で呟くと、その場に膝をつき両手を組んだ。ゆっくりと瞳を閉じ、冥福を願う祈りを捧げる。
祈りの言葉は、銀の音色となって死者たちの間を優しく流れていく。重苦しく淀んでいた空気が浄化され、死者の顔から無念が薄れて消えていく。
「行こう、穹。まだ生きてる人が居るかもしれない」
硬直した死体。緩んだ死体。足をつけて初めて堅さが分かる死体の道を、二人は肩を寄せ合い慎重に進む。未だ乾ききっていない血が靴に染みをつくる。一足ごとに体をふらつかせながら、いくつもの背を踏み越えていく。
穹はモノリスの如く座すシャフトへと向かって、奥歯を噛みしめながら歩いた。
「あの人、生きてる!」
シャフトの壁面にもたれ掛かる血塗れの男を指し、朱律は声を上げた。
近寄ると、大きな体躯の男が今にも止まりそうな呼吸を繰り返している。破れた黒い衣装は、彼がナノセカンドの一人であることを示していた。衰弱しきっており、もう長くは無いだろう。男は顔を上げる力も無いのか、ゆっくりと視線だけを二人に向けた。赤黒く濁り、瞳孔が開きかけた瞳に二人は果たして映っているのだろうか。
「託す者が、来てくれたか」
喉がつぶれ、ひどく聞き取りずらい声で男は安堵の声を出した。口を開く度に、端から血が流れ落ちる。
「何があったんだ」
穹が問うと、男は呼吸を整えてから語り出した。
「荼毘人の一人が、ナノセカンドが。ドーム、いや、人類を裏切った。そいつは魄人よりも恐ろしい化け物になった。ドームにいた者はすべて、殺された」
無言で聞き入る穹と朱律に、男は途切れ途切れにドームの最後を語った。
現れた魄人に、荼毘人部隊は直ぐに応戦した。単なるオゾン生命との戦いではない。誰もが、それが全ての生命を破壊する敵だと直感し、命をなげうって立ち向かっていった。
通常の魄人であれば、荼毘人の敵ではない。しかし、現れたのはナノセカンドの能力を有し、理性を保ったまま襲い来る怪物。ある者は体を貫かれながらもガラス弾を打ち込み、何十人もの隊員が怪物の動きをわずかにでも鈍らせるためだけに、手足が千切れようともその手足にしがみついた。多くの若い隊員達が、体に爆薬を巻き付けて特攻し散っていく。
荼毘人は怪物を追いつめた。しかし、今一歩のところで予想外の邪魔が入った。化け物の元部下であった者達が、もはや人間ですらない、そのナノセカンドのなれの果てに荷担した。
仲間であるはずの荼毘人に攻撃し、返り討ちになれば化け物の養分となるべくその身を吸収させた。特攻で数を減らしていた荼毘人は混乱し、化け物を滅ぼしきることができなかった。
荼毘人は敗北した。
「俺は隠れ続けた。未来ある若い命、長年仕えてくれた仲間の命、平穏に暮らす一般人。皆の命を囮にして」
男は奪ったシンプレクタイトメモリをコピーしていた。
見境無く人々を襲う怪物は男を見つけ出すとシンプレクタイトメモリを奪い返し、体内に取り込んだ。それまでの損傷を瞬く間に回復させ、黒い獣に変化すると、荼毘人はたやすく全滅した。
後には無数の屍が残り、漆黒の獣はその一部を養分として吸収すると、巨大な翼を得て羽ばたく。ドームの各階層の天井を次々に突き破り、時空が震えるほどの雄叫びを残して大空へと消えていった。
「これを、君たちに託したい」
男の目から、血の涙が流れる。裂けた中指の間にかろうじてひっかけられているシートメモリを穹へと差し出した。
「これで、死んでいった皆に顔向けできる」
穹は無言で受け取り、血にぬめるシートメモリを握りしめた。
文様を画像認識装置に読みとらせることで情報を読み書きできる薄いシートメモリは、可塑性が高く衝撃にも強い。数ギガ程度しか容量はないが、小指の先に隠れるほどに小さく丸めることができ可搬性に優れている。
小指の爪ほどの重さもないはずのメモリ受け取った穹の手は、託された重みに震えていた。冷えゆく男の手に握られていたにも関わらず、生ける心臓のような熱を帯びている。
「怪物の名は、シュクラ・我玖」
末期の言葉を残し、男は動かなくなった。朱律は膝をついて祈りを捧げる。
穹は男の残した名に、背筋を凍らせていた。
「中身を確かめないと。怪物を滅ぼすヒントがあるかもしれない」
朱律の提案に、穹は何も言わず頷く。
丸められたシートメモリを開き、その表面を軽く拭う。シャフトの画像認識装置に差し込むと、中に納められたデータが空間に映し出された。
里の端末で見た時と同じく、2つのファイルが入っている。【.agl】ファイルは文字化けこそしていないものの、無意味な記号の羅列が延々と続くだけだった。
残るテキストファイルを開くと、意味の取れる文章が映し出される。シャフトの電送系にダメージがあるのか、中空に投射される映像は時折走るノイズにちらつく。
二人は肩を寄せ合い空間に霞む画面を食い入るように見つめた。
〝21世紀の初頭、ロシアの地kamchatka半島にて発見された、自然鉄を含む地球内部由来の捕獲岩は、地下にある超還元環境の存在を示唆していた。多くの研究者が地球深部における無機物質循環の観点からあるはずのない還元鉱物の成因を探る中、我々は地下深部に住まう生物の存在と結びつけた〝
「これ、どういう意味?」
「分からない。だがあいつが持ち去ったメモリの中身なら、魄樹に関係しているはずだ」
〝当時、酸素生命とは全く異なるエネルギーシステムを持つ生物種が存在することが分かりはじめていた。我々は地下深部に酸素生命を越える酸化力を持つ物質を用いたエネルギー回路を持つ生物が存在し、その生物が周囲の酸素を奪うことで本来の酸化鉄が還元され純鉄となったのではないかとの仮説を立てた。その仮定上の生命を、非酸素資源型生物AGLTY seed(An-oxGenicaL TYpe seed)と呼んだ。
地底王国アガルタなる荒唐無稽な与太話になぞらえたユーモアであったのだが、後にこれは与太話そのものを証明することなるとは当時は誰も考えてはいなかった。いや、一人の変人を除いては。その変人は。
彼の話はやめよう。彼の方が荒唐無稽で、何より彼について語ることは私の気分をひどく害する〝
「アガルタは、この地底王国とやらからとっているようだな」
穹はふと思い出した様子で朱律を見た。
「朱律の歌にもあったな。王はアガルタを統べる者、だったか。何か知らないか?」
「分からない。歌は昔から、里ができる前から伝わってるものらしいけど」
コピーが不完全であり、欠落した部分を飛ばしながら読み進める。
〝極限環境の生命、それが地下に存在するオゾン生命の正体であった。我々がさらにkamchatkaの地を深く掘り進めると、とてつもなく奇妙な鉱物が発見された。
強い量子もつれを持つホールデン状態にあるその鉱物は、想像力の欠如した輩には単なる量子コンピュータの材料にしか映らなかったようだが、我々は違う。この鉱物を生み出した者、AGLTY seedが存在する証拠なのだ。彼らは量子生命であり、量子法則を駆使して超酸化剤、すなわちオゾンを作り出す。AGLTY seedは、人類が酸素を用いてエネルギーを得るように、オゾンを用いて化学回路を循環させてより高い活動エネルギーを得ているに違いない。
人類は究極の進化への道しるべを得たのだ〝
投影がさざ波をたてる。文字が細かくブレ、見つめると吐き気に襲われる。それでも穹は、貪るように見入る。
〝このオゾン生命細菌を増殖させ、人体に移植するとどうなるのか。研究結果がまとまった。域値を超える高密度のオゾン細菌の固まりを取り込んだとき、細菌は血液を最高の養分として爆発的に増殖する。血管を辿り瞬く間に全身に広がり、筋肉、内蔵、皮膚を置き換えていく。
興味深いことに、神経組織との結合は保たれる。すなわち、体中の細胞をオゾン生命に置き換えてなお、これまで通り自らの意識でコントロールできるということだ。これで人類はオゾン生命に進化する。
だが、妙に引っかかるのは、AGLTY seedのエネルギー収支が合わないことだ。もしかすると彼らは3次元生命ですらない可能性がある。朗報だ。人類は時空の楔すら超越する多次元生命体となるかもしれない〝
文字化けした部分が数ページ続く。その間には不測の事態が起きていたようだ。続く文章には焦りが見え隠れしていた。
〝駄目だ。もはやAGLTY seedを押さえることはできない。こいつらをシリケート封入器から出してはいけなかった。地球が珪酸塩、すなわち硝子の固まりであることはこういったことだったのか。もはや遅い。最高の養分を求めるAGLTY seedを見ていると、馬鹿馬鹿しい吸血鬼の話を彷彿とさせる。アガルタはやはり地獄だった。王が〝
再びデータが破損しており、無意味な記号の羅列となった。
隣で投影を見つめていた朱律が声を荒げる。
「王がどうしたの!」
「コピーが不完全だったんだろう、記述が飛んでいる。王は、オゾン生命と深い関係があるのか。それも、人類にとって致命的な関係が」
スクロールを続けると、再び可読部分に至った。
〝やったぞ。ついに王になる方法が開発できた。一時はどうなることかと思ったが、今となればAGLTY seedが不死身であることが喜ばしい。これで、我々が王となり、全人類を支配することも可能だとういことなのだから〝
その後、延々と軍部や、上司と思しき者への罵詈雑言が並ぶ。これを書いた者は、精神を病んでいたのかもしれない。それは生来のものか、オゾン細菌に晒された恐怖によるものかは分からないが。
〝どうやら嗅ぎつけられたようだ。この崇高な目的が分からない馬鹿者ばかりだ。もはや人ではない? どうしようもないゴミどもだ。私が王となる予定であったが、叶わなかった時のため、このシンプレクタイトメモリに全てを記す。
これを読んだなら、AGLTY seedの密集体を体内に取り込め。経口接種でもかまわない。体内から浸食される痛みはあるだろうが、多次元生命体へと昇華する洗礼だと思えば、痛みすら愉悦だろう。これから未来永劫続く長い命で、最後に味わう痛みなのだから。オゾン細菌に犯された人間、私は魄人と名付けたが、その脳でも良い。彼らは出来損ないだが、AGLTY seedが脳髄に濃集している。
始末が悪いのは魄樹となった奴らだ。微量でもAGLTY seedが着いた人間を吸収しやがる。しかもそのまま固着させて離さない。未来をどんどん食い荒らして拡散させていく。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるななななな。このゴミどもが。人類の進化を妨害するな。
そう、王になる術だ。魄樹への恨みは語り尽くせないが、今は時間が無い。AGLTY seed濃集体を取り込んだら、魄人化できる。それも、意識を保ったままだ。それがそこらの魄人とは違う。やはり自我と思考こそ人の証左だ。そして、魄人になったあとにこのシンプレクタイトメモリを体内に埋め込む。そうだ、名前をつけよう。名前は存在をこの世界に定義し、外界との境界を生み出す重要な、なんだったか。そう、重要なのだ名前は。
このメモリは、Agalta seedだ。アガルタを撒く、うってつけの名だろう〝
穹は息をのんだ。投影を滑る指は止まること無く、驚きに見開かれた瞳に映るテキストが流れていく。
〝メモリを介してAGLTY seedの多次元干渉をコントロールすれば、得られるエネルギーが数十倍に跳ね上がる。この時点で生命を超越したと言っても過言ではないが、まだ、最後の行程がある。その先に、王へと至ることができる。それには、〝
「コピーしてあるのはここまでのようだ」
スクロールが止まり、穹は息をついた。
「肝心な事が書いて無いじゃない! あの怪物はどこに行ったの? あれが王になったらどうなるの」
「分からない。魄樹はなぜ存在するのかも。これを書いた奴の、王となる者の邪魔をしているように書いてあるが」
「どうしよう、このままじゃ」
「とにかく、他を探そう。朱律は里の人間がどうなったか探すんだ。そのために来たんだからな」
「うん。まだ何かヒントがみつかるかもしれないし」
「二手に分かれよう。何かあったら呼べ」
朱律は笑顔で頷く。
「分かった。穹も気をつけて」
無言でうなずき返す穹の頬は、つられてわずかに緩んだ。
朱律は穹の顔をまじまじと見つめるたが、頬を赤らめると、慌てた様子できびすを返した。
同時に、穹も体を反転させる。
二人が足を踏み出した時、くぐもった音声がした。
『それには及ばない。灯里の里の巫女よ、他の者は無事だ。君に会いたいという物がいる。最上階まで来て欲しい』
穹は足を止めて振り返る。朱律が厳しい顔で周囲を見回していた。
『ソーマ・穹。君にも、魄樹の秘密へのヒントを与えられる』
ジリジリとした音を伴い、シャフトから黒い人影が投影された。肘掛け椅子に座す人間のシルエットが二人の前に浮かび上がる。人物の顔はおろか、体格すらもくみ取ることはできない。声音に感情も宿らぬ、無味無臭の幻影。
朱律は眉をひそめて穹に問う。
「穹、どうする?」
「行ってみるしかないだろ。朱律の知り合いもいる、かもしれないしな」
穹は影を睨みつけながら答えた。朱律は小さく頷く。
『シャフトの中へ入りたまえ』
合成音声に合わせ、シャフトの扉が軋みを立てて口を開けた。
極細の黒糸が編まれたような光沢を放つ扉をくぐる。建物の歪みにより光ファイバーの大半が破断されたのか、奥に延びる狭い通路は仄暗い。
途中にある種々の認証は自動でパスされ、二人を迎え入れた。最奥にある、黒色の立方体の箱に乗り込む。
一層暗くなった密閉空間で、20と書かれた銀のボタンだけがかろうじて光りを放っている。箱はガタガタと音を立てながら、ゆっくりと上昇を始めた。視界が効かない中、頭から奈落へと落ちていく感覚に襲われる。
穹が腰を落として耐えていると、全体が軋みをあげながら急停止した。開く扉から漏れ出る鋭い光が網膜に突き刺さる。壊れかけの扉は、半分ほどで引っかかったように動きを止めた。
「なんか、全然きれいじゃないね」
目が慣れるまで佇んでいた朱律は、外の景色を見てぽつりと呟いた。
「ああ。里の方が良かった。あるいは魄樹の森の方がまだマシだ」
「そうそう。穹も分かって来たじゃない。なんか、押し込められてるっていうか」
二人の前には鮮やかな緑の床が広がっている。そよぐ草からは、生命が腐りゆく匂いが香る。
真緑の草原は短く刈り揃えられ、工場で生産されたような画一さ。整然とした、美しい光景ではある。だがそれは、命が飼い慣らされ抑圧された姿。ここを管理する者の征服欲で塗りつぶされた偽りの自然がそこにあった。
ドーム天井に開いた大穴の向こうでは、上空に吹き荒れる風にのって雨雲が次々と流れていく。暗い空と強烈な緑のコントラストの向こうに、白い建物が巨大な顎に囓られたように半分だけ残っていた。
足下で草が潰れる苦い音を重ね、建物のにたどり着く。崩れた入り口を潜った。
『こっちだ』
合成音に導かれた部屋に入ると、朱律が辟易した声を上げた。
「趣味わる」
漂う塵に端の霞む円卓には細かい装飾が施され、高い天井からは複雑な形状の硝子照明が下がる。
内部の過剰な装飾品を見回し、穹も同感だとばかりに鼻から息を吐いた。
入り口から反対の壁を見上げると、穹の両手を広げたほどの大きさがある写映装置が3枚掲げられている。
中央の写映装置に、座した人間のシルエット映る。左右の写映装置はひび割れ機能していなかった。
『良く来てくれた。私は選定者と呼ばれている。このドームを預かる評議会の一人だ。3人いたメンバーも私一人を残すだけとなり、住民も死に絶えた今となっては預かるも何も無いが』
自嘲する言葉は、平坦で抑揚がない。
穹が口を開くよりも早く、朱律は磨き込まれた円卓の端を両手で叩いた。烈火の如き剣幕で身を乗り出す。
「里のみんなは無事なの? 私に会わせたい人って誰?」
せき込むように訪ねる朱律の横に並びながら、穹も問いかける。
「魄樹の秘密を知っていると言ったな。それに、シュクラ・我玖はどこに行った? 奴の目的は何だ?」
選定者と名乗ったシルエットは微動だにせず、淡々と機械的な音声を返す。
『順番に答えよう。灯里の里の人間については全員無事だ。一足先に危機を伝え、混乱に乗じてドームを脱出した』
朱律は安堵の息を漏らした。
がらんとした室内に殊の外大きく響く吐息の音に、無機質な音声が重なる。
『次に、君に会わせたい物について。これは後にさせて貰う。この場にあるのだが、物事には順番という物がある。先にシュクラ・我玖の件から話そう』
穹は写像装置を真っ直ぐに見つめる。その視線にたじろいだ訳ではないだろうが、合成音は一泊の間を置いた。
『あれは、幼少の頃から図抜けた男だった。思考の加速力、制御力ともに人類の最高到達点と言える。信義と冷静な判断力を持ち合わせた、次世代を担うにふさわしい人材だった』
感情を滲ませない声であっても、我玖に並々ならぬ期待を寄せていたことが感じられる。
彼は天賦の才と気高い心性を併せ持った男だったようだ。そんな人物がなぜ、ドームを蹂躙し、怪物へと変貌する道を選んだのか。
『評議会は彼の人類への愛を汲み、重要な任務を任せた。それはある意味で矛盾をはらんでいるかもしれない、ドームの闇の部分とも言えるもの』
「奴に何をさせていたんだ?」
『人口管理だ。プラント人口が増え過ぎないよう間引きする。具体的に言えば、生産力の落ちたプラントの住民を細切れにし、焼却した灰を土地に撒き土を蘇らせるといった作業だ』
選定者はただ淡々と語る。
人を殺し、その死体を損傷し畑の肥料にするという命の冒涜に対して、なんの感情も含まれていない。
「ドームは人類を救うためにあるんじゃないのか」
プラントが虐げられているのは周知の事実。ドームが絶対正義だと信じている者などいない。だが、魄樹から人類を守るためには致し方ないと、ドームは人類の味方であると誰もが認識していた。
「お前等はプラントを搾取するだけでは飽きたらず、そこで暮らす命を弄んでいたのか。そんなことしなくたって、毎日人は死んでいるだろうが!」
喉が破れんばかりの声は、世界を呪う悲痛な叫び。穹は怒りに髪を逆立たせる。
『ヒトという種は強い。自分たちが思う以上に。魄樹の森に囲まれた環境であっても、その数を際限なく増やすのだ。だが、コントロールすることを知らない。これは致し方ない事。作物を得れば大地は枯渇していく。現在の人類が使える資源では、養うことのできる人口は決まっている。問題を解決するには、増えすぎた人間を肥料とし土に戻すしかない。人類を、その系譜を絶やさないことがドームの至上命題なのだから』
「狂ってる。ずっと人間を殺しながら、人類を守ると嘘を吐き続けてきたのか。数多の命を奪っておいて、何が人類の守護者だ!」
『見据える先の違い、視点の違いがあるというだけだ。死して大地の養分となった者たちとて、産まれ来る人間の一片として人類存続の礎となる。そうやって、ヒトの命は続いていくものだ』
穹の体の震えは、ぴたりと収まった。殺意という言葉すら生ぬるい、絶対零度の瞳が写像を貫く。
穹は腰から抜いた銃を支配者ずらをした亡霊に定めた。
天井から落ちる声は、穹の挙動を意に介さず淡々と続ける。
『我玖も肉体というくびきが故か、君たちと同様に感じていたようだ。命とは脳という神経細胞の結合総体に宿ると思い違いしていたのだろう。彼は任務を忠実にこなしたが、歪んでいった』
穹はもはや眉一つ動くことなく、引き金を絞る。
「穹、無駄だよ」
無意味と知りながらも写像器を破壊しようとする穹の腕に、朱律の手が添えられた。
朱律は金色に燃える瞳で亡霊を見る。
「あんたらの方がよっぼど歪んでるわよ。人間は神経細胞のなんちゃら? 馬っ鹿じゃないの! だったらあんた達は肉しか守ってないのね。人間の形をした入れ物があれば良くて、心や感情、未来への願いを全て葬り去って来た。評議会だか偉そうな名前付けて、自分たちの考えを押しつけてただけじゃないの!」
『ふむ。これでは平行線ようだ。先に進めよう』
朱律はなおも選定者を罵るが、選定者はそれを無視して語り続ける。
『我玖は人口の増加に釣り合う速度で森を滅し、人類圏を広げることは不可能だと理解していたはずだ。だが』
写像機に浮かぶ映像には何の変化も無い。穹は、その向こうにある魂の形を見定るように視線に力を込める。
『人を殺さねば人が生きられない。どこまでいっても人を殺め続ける世界。ドームはそんな世界を肯定し、固定し続ける。それに加担する己が存在を認識し、我玖の精神は狂気に落ちたのかもしれない』
ドームの崩壊、大虐殺を行った大罪人、シュクラ・我玖。彼の憎悪はいかほどであったか。
魄樹の森によって人間は囚われている。生きるための食糧は限られ、すべての人間を養うことは不可能。人類を守るためには人を殺すしか無いという矛盾の円環に捕らわれれば誰しも、このシステムを築き上げた者達を憎むに違いない。
『オリジナルの私であれば、我玖の行く末を見抜けていたのかもしれない。だがコピーに過ぎない選定者というこの存在には、この結末を、我玖の心に宿る羅刹を見抜くことができなかった』
穹と朱律は首をかしげる。
選定者は逡巡したように口を閉ざした後、紹介しよう、と朱律に声をかけた。選定者の影が消え、別のシルエットが映し出される。
『朱律、よくがんばったわね』
「え?」
無機質な声で語りかけられ、朱律は目を白黒させた。その様子に、新たな声はがっかりしたような空気をにじませる。選定者とは違い感情が見える、人間的な存在感を有していた。
『やっぱり分からないわよね。選定者さん、せめて声色だけ再現してくれないかしら』
『無駄なエネルギー消費は控えるべきだ。いつまでもつか分からないのだから』
声だけが響く選定者に、影は見上げるようにして話しかけている。
『大丈夫よ。最後なんだから出し惜しみなんて要らないわ』
同じ声同士のやりとりであるが、明らかに異なる人格による対話であると理解できる。
両者はなおも言い争いを続ける。ケチだのと卑近な言葉使いが混じり、緊張感が削がれていく。
思わず吹き出しそうになっている朱律を見て無益を悟ったか、選定者はついに折れた。
『これ以上はさすがに時間の無駄だ。声紋再現を了承する』
省力化のためか写像が消えた。どこかで光ファイバーが断線したのか、室内がわずかに薄暗くなる。
朱律はそわそわした様子で、あたりをしきりに見回していた。
『これで良いわ。じゃあ改めて。朱律、ここまで良くがんばりました。偉い偉い』
「お母さん! 無事だったの?」
『ふふふ。穹もお疲れさま。ところで、二人ともずいぶん仲良くなったみたいじゃない』
難しい顔でたたずむ穹から、朱律は一歩距離をとった。
『青春ね。私もあなたのお父さんと出会った頃はねぇ。あの人も穹と一緒で遺跡が仕事場だったから、よく二人で出かけたものよ』
『巫女よ。久闊を叙する気持ちは分かるが』
選定者の声は、低くしわがれているが、どこか好々翁のようであった。
『はいはい。時間ね、省エネね。分かってます』
茜が拗ねたように頬を膨らませている姿が目に浮かぶようだ。
朱律は腰に手を当て、胸を膨らませた。母をたしなめようとしているのだろう。
穹は居たたまれない表情で俯いている。
『穹は薄々気づいているようだけど』
巫女はこれまでの軽い口調を一変させ、固い声音で切り出す。
口を開きかけていた朱律は、神妙な様子に言葉を飲み込んだ。
『私はもう、朱律の知ってる灯里茜とはちょっと違う存在になってしまったの』
「何言ってるの? 誰がなんて言ったってお母さんだよ。娘の私が言うんだから間違いない。いいから出てきて。声だけじゃなくて、姿を見せてよ」
『さっきの朱律の言葉でいえば、私は肉体が無くて心だけがある存在。灯里茜ではなく、巫女と呼ばれる、亡霊? みたいなもの。ちょっと色々とされて、灯里茜の脳内に紡がれていた神経結合がそっくりそのまま装置に転写されている』
「そんな、こと。それって」
朱律は震えだした。次第に激しく、全身に広がり、やがて嗚咽となっていく。
『もう、我が子を抱く腕もない。いえ、愛おしい我が子を産み育てた灯里茜は、消えてしまったの。その記憶だけがデータとしてある。だから私は、灯里茜の亡霊』
「私は……、間に合わなかった、の?」
朱律は顔を両手で覆いくずおれた。とめどなく流れる涙が手首を伝い、白い腕枷を濡らしていく。悲痛な泣き声が室内にこだました。
穹はその傍らに膝をつくが、かける言葉が無かった。壊れそうなほどに細い肩に伸ばかけた手は、ただ中空を漂っている。
巫女は無言になった。沈黙は慈しみに似た、優しい抱擁となって朱律を包む。
『データでしかない偽物だったとしても、願いは受け継いだ』
悲哀や後悔は感じられない、何者にも犯されない決意を込めた言葉。
『シュクラ・我玖がドームに帰還した時点で、里の皆には脱出の準備を整えるように言ったから大丈夫。そして、貴方たちが来る時のための用意もしておいたわ』
巫女の声に従い、穹の前で円卓に四角い穴が開いた。
穹が穴を覗き込むと、六角柱の蒼い結晶、シンプレクタイトメモリがあった。アガルタシードの刻印は施されていない。
『虎の子のシンプレクタイトメモリに、シュクラ・我玖が一時的にアクセスした端末から吸い出したデータと二人がさっき閲覧したシートメモリのデータを併せて作成したものよ。復元率は9割程度らしいけど、これを研究者のところへ持って行けば、きっと何か分かるわ』
穹は新たなメモリを胸に納めた。データが入っただけの無機質な鉱物は、地上でナノセカンドの男が残したシートメモリと同じく、柔らかな熱を宿しているように感じられた。
自らの肉体が滅び、精神をデータ化されるという所業を受け、なお人類の未来のために尽くす巫女という存在に、穹は心からの敬意を伝えるように深く頭を垂れた。
傍らで座り込んでいた朱律は、穹の姿を見て目を丸くする。涙を袖で拭って立ち上がると、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう、お母さん」
朱律の言葉は、誰に向けられたものだろうか。茜に対してか、巫女に対してか。あるいは、彼女はどちらも同一だと伝えたかったのか。まだ赤い目には大粒の涙が溜まって光を反射し、朝日の色となる。長い強行軍で纏う衣に付着した砂粒すら、神々しく煌めいていた。
「で、研究者ってだれ? 私たちは何処に行けばいいの」
吹っ切れた様子で天に向かって問いかける朱律に、選定者の声が答える。
『この国で古来より霊峰と言われた富士の山。その麓にある、栄華の時代から使われてきた地下研究施設だ。そこに研究者と呼ばれ、過去の科学技術を受け継ぐ存在がいるはずだ。シャフトにそこまで直接繋がる緊急脱出口がある。使うと良い』
しわがれた声は湿り気を帯びていた。
朱律が大きく頷くと、衣の袖から白い腕輪が覗いた。選定者が驚きの声を発した。
『ダマスカス鋼か。それで切りつければオゾン生命を断つことができる。荼毘人の隊長クラスに支給されていた物は全て我玖に破壊されてしまったが、その腕輪を加工できれば。しかし、刀鍛冶も殺されてしまったか』
選定者の声はすぐに落胆に変わった。
感情豊かなその声に、穹と朱律、そして巫女はそろって笑い声をあげた。選定者が、笑い事ではないと怒れば、さらに笑いが大きくなる。
『腕輪はちゃんとして行くのよ。お守りだと思って、ね』
「分かってる。小さい時からしてるから、無いと不安になるくらいだし」
『里の長の家系に生まれた女は、鉄の手枷で体を慣らすもの。そして、巫女となった暁には魄樹の文様の腕輪を受け継ぐ。頼んだわよ』
「任せておいて」
巫女は胸を叩いて見せる朱律の姿に、朗らかな吐息をついた。
『私は、亡霊となって気が付いたのよ。願いは叶えるものではなく、引き継ぐもの。時代を超え、世代を超えて引き継がれ続けた願いを、人は正義と呼ぶ。過去の亡霊が後生大事に抱えた願いは、いつまで経っても正義にはならないわ。だから私たちは、願いを手放して次の世代に問いかけないといけない』
すでに手の届かない場所に居る者達に送る、万感の想いが込められた巫女の言葉。同じ想いを滲ませて、選定者が続ける。
『我々を、シャフトの中枢端末を破壊してくれないか。我々の願いと、シュクラ・我玖の願い。どちらが引き継がれていくのか。それは、君たちのような新しい者が決めることだ。亡霊の居場所は、あってはならない』
蒼穹は、確たる信念を宿した瞳を天井に向けた。
「分かった」
選定者は、自壊プログラムの起動方法と、シャフトの緊急離脱システムの使用方法を説明した。
『頼んだぞ、新しい者たちよ』
『朱律、いってらっしゃい。あ、その前に』
「え? なに」
両手を胸の前でポンと打つ仕草が浮かんできそうなほど脳天気な巫女の声に、朱律は拍子抜けした声を上げた。
『二人とも、お風呂に入って行きなさい。昔と違って雑菌なんていないから、臭いなんて気にならないでしょうけど。二人とも随分と薄汚れてるわよ』
「あのねお母さん。今はそれどころじゃないでしょ」
『入らないと、たぶん後悔するわ。着替えは準備してあるから、そこの扉を出てまっすぐ行った突き当たりがお風呂よ。はい、行った行った』
朱律は頬を膨らませたが、ちらりと自らの身なりを見下ろして顔をしかめた。
「行ってくる」
朱律は胸元をかき抱くと、そそくさと出て行った。
残された穹は一人頭を掻く。選定者のため息に同調し、同じように息を漏らした。
『ほら、穹も行く』
「いや、俺は」
『早くしなさい。時間が無いんだから』
巫女に急かされ、穹は逆らう気力が失せた様子で扉へと向かう。選定者の諦めた気配を背に部屋を出た。
言われた通りに進んだ先にある更衣室の戸を開くと、ちらつく灯りに充満する白い湯気が見えた。
穹が自棄ぎみに服を脱ぎ捨て浴室に入ると、湯船には既に湯が張られている。
素早く身体を流して出ると、用意されていた荼毘人の制服に袖を通した。体を締め付けすぎずも隙間なく張り付く服は、完全に穹の身体に合っている。
湯を沸かすのは実体を持たない巫女でも電子制御で可能かも知れないが、制服を置いたのは生身の人間のはずだ。怪物に襲われている狂乱の中でどう言いくるめたのか。
「巫女は、とんでもないな」
真新しい袖を一撫でしながら、穹は苦笑した。
喉元のファスナーを引き上げる。太いベルトを腰に巻き、六丁の拳銃を吊した。全てが抜きやすい位置にあることをチェックしてから更衣室を後にする。
ふと振り向くと、壁に掛けられた鏡に金糸の一角獣の半身が映り込んでいた。
「俺が荼毘人のまねごとか」
穹は仏頂面吐き捨てると、廊下を軋ませて立ち去った。
評議会室に戻った穹を、巫女が凛々しいだの似合うだのとほめそやす。穹が無言を貫き朱律を待っていると、ようやく廊下から足音が聞こえてきた。
穹は安堵のため息と共に入り口を振り向くと、そこに現れた朱律の姿に息を呑んだ。
白と黒を基調とした巫女装束。袖のゆったりとした墨色の上着は、襟から合わせにかけ首回りを純白の線に縁取られている。胸には、モノトーンの中で一際栄える荘厳な金の聖獣。
頬を薄紅に染めて顔を背ける佇まいは彼岸花――いまや実物は忘れ去られ、陰ある美しさの象徴としてしかその名を残す華――だった。
『ぴったりじゃない! 我が娘ながら最っ高の巫女姿だわ』
朱律は敷居の前で小さくなっていたが、観念したように歩き出すと穹の隣に並んだ。
折り目正しい墨色の袴が歩みに合わせて揺れる。闇夜を舞い降りる雪のように静かなな輝きを見せていた。袴が揺れるたびに覗く細い足首からつま先までは、薄い炭素繊維のタイツに包まれ素肌よりも返って艶めかしい。
『ああ、娘の晴れ姿が見られるなんて』
「変な事言わないで!」
穹は母娘のやりとりも上の空に、朱律を見つめていた。
『どう、穹? 可愛いでしょ? 似合ってるわよね』
穹は答えず、顔を逸らした。朱律は口を挟まず、ちらちらと穹の顔を見ている。
「ああ」
穹が咳払いとともに短く答える。
朱律はわずかに口の端を上げた。直ぐに慌てた様子で顔を背ける。流れる髪から覗く小さな耳は、赤く染まっていた。
同じように顔を真っ赤にしている穹の顔には、穴があったら入りたいと書いてある。
祝言の場と化していた中、選定者が申し訳なさそうに口をはさむ。
『準備は済んだようだな。時間だ』
穹は助かったとばかりに、表情を引き締めてた。
『どちらも荼毘人に与えられる支給品だ。これから向かう場でも役に立つだろう。この程度の餞で申し訳ないが、頼む』
『朱律には、二度も辛い役目を押しつけちゃったわね。ごめんなさい。でも、二人ならきっと未来を切り開けるわ。どうか、お願いね』
穹と朱律は、二つの声を聞きながら目の前に現れた自壊プログラムの実行コマンドを見つめる。
どちらからともなく伸びた二本の指が、同時に写影に触れた。
ドームの終わりを告げる警報が鳴り響く。高らかに新たな時代の幕開けを告げている。
二人は短く黙祷を捧げると、後は振り向くことなく走り出した。
※※※
外界への出力が失われた主演算機。データの消去と物理的破壊が同時に進行していく中、巫女の擬似思考は晴れやかな思いを浮かべていた。
穹の背で躍動する一角獣を眺めているのか、遠ざかっていく背中に向けて回路の中に電子のさざ波が起こる。
『あの二人は、どうするかしらね』
『さて。聖櫃の声が聞かれなくなって久しい。もはや誰にも未来は分からんのだ』
選定者のとぼけた応答に籠められたのは、長年の重圧からの解放による安堵か、次世代へと向かう背中を見れた喜びか。
『聖櫃? それは』
『神話にある実物か、はたまた人類が栄華の頂点で造り上げた別物か。機能を停めた今となってはどうでも良い話だ。これからの世界は、これからを生きる者に託すしかない』
『そうね。あの子たちならきっと』
天井が崩れ、写像機が床に落ちて砕け散った。破壊は主要部にまで至り、収められた情報は全て消失した。
永きに渡りドームを、世界を支配してきた存在は、築き上げた全てと共に崩れ去った。
※※※
穹と朱律は崩落に追われながらシャフトにたどり着いた。選定者に教えられていた場所に手を添える。見えない継ぎ目が外れ、2人が体を密着させて入れるかどうかといった大きさのシリンダー型ポットが現れた。
朱律は困ったように眉を寄せつつ、穹の顔色を伺う。
「これ、狭すぎじゃない?」
「このままだとドームの巻き添えだ。入るしかないだろ」
「そうだけど」
「背中合わせで入れば良い」
「うーん。ちょっと不安というか」
朱律は横を向き、やたらに髪を撫でつけ、黒い袴の裾や上着の合わせを直している。
周囲には崩壊が迫り、天井が落ち床が傾き始めた。
穹は業を煮やし朱律を抱き寄せた。朱律の悲鳴を無視し、ポットに飛び乗る。
「抗議は後だ」
「後じゃ抗議の意味ないでしょ! スケベ! 変態!」
「しゃべるな。舌噛むぞ」
二人がなんとか収まると、ポットの扉が自動で閉じる。
穹は暴れようとする朱律の体を抱きしめた。
内部に張られた柔らかな布が膨らみ、隙間をなくすように二人の体を固定する。無機質な音声ガイドの声が告げる。
『発送3秒前』
朱律の動きが止まった。
「発送っておかしいよね? 普通、脱出とか、せめて発射とかって言わない?」
「確かにな。恐らく、かなり覚悟した方が良いんじゃないか」
「ふえ?」
朱律の呆けた声を残し、ポットは高速で降下をはじめた。
急激な加速に体中の血液が頭に集まり、全身の毛が逆立つ。ポット内に反響する朱律の絶叫を置き去りにするように空間は速度を増し続ける。
穹は意識を途切れさせまいと歯を食いしばった。鼻先をくすぐる柔らかい髪からは、少し甘い香りが漂っていた。
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