第5話

 半径3キロメートルに達する巨大な半球体。内部には1万人が暮らす都市を内包している。ドーム――それがこの構造物の名であり、都市の名でもある。そして、搾取する側の総称でもあった。

 外壁の厚みは最大100メートルにおよび、下部ほど厚く、上部に向かうにつれて薄くなる楕円形となっている。オゾン分解を促進する触媒として添加されている微細包有物が白濁した表面に黒く分布しており、遠目では灰色の卵が横たわっているような姿をしていた。

 ドームは地上部20階層と地下部分から構成される。かつて人類が地底に逃れた時に暮らしていた地下部分は工廠となっていた。シリケート鋼材をはじめとする各種工業製品を作り出している。人々は地上部に住居を構えていた。

 ドームに住まう人々の職業は大きく2種類に大分される。ドーム内で作られる様々な製品の製造・流通に従事する者と、ドーム引いてはプラントを含めたこの人類圏の統治機構である荼毘人に所属する者である。

 軍部における最上流階級、最高の能力を有すると認められた兵士である我玖は、部隊を率いてドームに帰還した。

 見張りが厳重なロックを解除すると、外壁の一部が大きく口を開く。

 扉の先に出迎える者は無い。

 壁が開いたことに驚き、遠巻きに眺める住民の顔には、最下層民の不満と服従があった。ドームでは底辺とされる彼らですら、染色された数種の布を縫製して設えられた服を纏っている。過度な装飾は実用性からはほど遠い。

 彼らの華奢な体は、プラントで生活すれば1週間と耐えられないに違いない。夜霧の恐ろしさも、隣人はもとい、腹を痛めて産んだ我が子するも堆肥とする無念も知らない彼ら。自分達の生活する場所が明日には無いかもしれない恐怖を知らない彼ら。豪華に着飾った肉塊。

 我玖を先頭にして、部隊は歓迎とはほど遠い視線を浴びながらドームの中心へと歩き出した。

 ドームの空は濁った白色をしている。

 外壁には1平方センチメートルあたり平均100本の光ファイバーが通されており、その極細繊維に入る光を全反射させることで内部に光を届けていた。内側はどこも均等に光を発しているため太陽の方角も分からない。牧歌的な悪夢を見ているようだった。

 足下は一面ガラスで覆われている。歩道部分は長方形の溝が掘られ、各ブロックはくすんだ褐色に染められていた。レンガと呼ばれた泥を焼き固めた建築材を模しているようだが、つるりとした光沢はどう見てもガラスでしかない。

 軍靴の足音を立てて目指すのは、3キロ先にある天井を貫く黒柱。柱と呼ぶには太すぎる、一回りするのに10分はかかるその構造体はシャフトと呼ばれている。地下から頂きまでドームを貫くシャフトは、階層間を移動できる唯一の手段である昇降機の機能も有していた。

 周囲のプラントから集められた食糧や地下工廠で製造された製品は、地上のシャフト周辺に広がる中心街に集められて各階層に配布される。半楕円体という構造上、下層部の外壁付近は物流の不便な地域となる。上階に行くほどシャフトまでの距離が近い区域の割合が高いことから、高層階にはより地位の高い、裕福な者が住まう。

「いつ見てもこいつは、醜悪だ」

 我玖は階層社会を象徴する黒いデカブツを憎々しく眺めた。

 今から約一千年の昔。人類は科学技術を極限まで発展させ、地上のほぼ全域を生存圏に収めていた。その時代、人口は200億を越えていたという。絶頂にあった人類は宇宙の最果ての姿、遠未来の予知など、森羅万象の真理まで手にしていたと言われる。

 一方で、人口増加や環境汚染などの問題を抱えていた。その最たるものが、格差の拡大である。富めるものは更に富み、持たざる者は更に貧困に落ちていく。その構造は、地表のほぼ全てを魄樹に奪われ、わずかな資源しか残されていない現代でも変わっていない。

「反吐が出る」

「なんすか? 隊長」

 口の中で呟いた言葉に部下が反応し、我玖はばつが悪そうに顔をしかめた。

「いや、何でもない」

 軽く手を振り、ぶっきらぼうに告げる。

 不思議そうに首を傾げている部下に、我玖は独り言を続けた。

「かつて、地球上には多くの国々があった。しかし自国だけで経済を成長させるのは、どこも限界に達していた。そこで新たな市場を求め、各国間で経済協定が結ばれていく。その結果、世界の経済圏は大きく3つに分割された。もっとも早く国を越えた経済圏を成立させた欧州、軍事および経済の大国であった米国を中心とした環太平洋地域、莫大な人口を抱えて急成長を遂げた中国を中心とする共産主義同盟」

「なんすかいきなり」

「こんな愚にもつかないことを考えていただけだ」

「なるほど。いつも通りっすね」

「そうだな」

 疲れた笑顔で頷き合う。小難しいことに興味のない部下は前に向き直った。

 我玖はふっと息を漏らす。近づいてくるシャフトを遠い目で見つめた。

 成長にはエネルギーが必要である。それは生物であろうと、経済であろうと変わらない。都市が繁栄するのは、周囲の村落から労働力というエネルギーを搾取した結果。国が発展するのは発展途上にある国の労働力を利用するが故。それは分割された経済圏でも変わらない。限られた国だけが、その他の国から労働力を搾取し繁栄を遂げる。富める者はさらに富む。

 当然の帰結として、貧困に喘ぐ国々は反乱を企てる。火種は決して小さく無い。国内における一地方の反乱程度であれば武力で制圧することもできるだろう。しかし巨大な経済圏においては、仮にも一国が反乱を起こす。それを制圧することは、大国の武力を持っても難しい。

 経済圏の統合など、所詮は武力で殺し合う事の代替行為でしかない。自らの圏内の不満を逸らすため、3つの経済圏が出した結論は共通していた。他の経済圏への侵略が始まった。

 それぞれの経済圏は互いへ侵攻しつつ、内側の反乱を取り締まる。経済圏内の結束は崩壊寸前であるが、それでも瓦解してしまえば他の経済圏に攻められる。外と内に手を焼き、3つの勢力は加速度的に疲弊した。そして世界大戦の手前まで緊張が高まっていった。

「もし魄樹が現れなかったら、今頃どんな世界だったんだろうな」

 一度火蓋が切られれば、世界中に戦火が広がり人類は滅亡していたかもしれない。そんな黄昏の時代に突如として現れたのが魄樹であった。

 独り言のような我玖の言葉に、部下は悩んだ様子も無く答える。

「さあ? さっぱりっすね。魄樹潰して飯食ってますし。自分、これ以外知らないんで」

「そうだな。過去にもしもを問うても詮方ない。仮定は未来に向けてすべきもの、か」

 我玖は肩の力を抜いて笑う。部下と交わす視線は穏やかなものだった。

「魄樹が急激に地表に蔓延り、酸素生命を駆逐しなければ。魄樹が街を喰らわなければ、大気を青く染めあげなければ」

 今度は、部下は答えなかった。お手上げのポーズで思考を放棄している。

 我玖の瞳は暗く、胸の内に向かっていく。

 オゾン生命による侵略という危機に瀕し、人類は団結するはずだった。だが白い森に分断され、叶わなかった。遠く離れていてもリアルタイムで映像通信が可能なほどに科学技術は発達していたが、人類の精神性がそれに追いついていなかったのだろう。直に顔を合わせなければ互いを頼ることも信じることも出来なかったのだ。

 魄樹が生まれた原因は何であったのか、敵が作ったのか味方が作ったのか、自然発生であったのか。疑心暗鬼を抱えたまま、人類は衰退していった。

 そして人類は白い森とオゾンが支配する地上から逃げ、地下に潜る。その時、世界人口は100万を切っていたと言われている。人類が混乱から立ち直り、地表に戻るまでに種の力を回復させたのは200年後の事。その時、地上は白い森が支配する、オゾン生命だけが存在する世界となっていた。

 続く200年は地上への足がかりを作ることに当てられた。大気に満ちていたオゾンはフロンガスを散布して取り除く。拠点となる土地を得るため、魄樹を滅ぼす術を探る。そこには数多の犠牲が出たという。 

 試行錯誤を繰り返した人類は、ついにドームを造りあげた。外壁はオゾンの酸化に耐えられるようにフロンを混ぜたシリケート建材を用い、通気孔には同じくフロンコーティングを施し、外気が直接流入するあらゆる隙間を無くした。エネルギーは太陽光発電で賄い、採光はファイバーで引き入れる。オゾンの世界に人類生存の礎を築く超高層建造物。着工から完成までに半世紀を必要としたが、ついに人類は地上に戻った。

 地下で人口の増加と食糧危機に陥っていた人類は、地上で新たな土地を開拓し続けた。

 そして半世紀。これまでにこのドームが切り拓いた土地は1000平方キロメートル。人類は再び地上の支配者となる道を歩み出した。

「だが、人間の愚かさは変わらない」

 我玖の口から低い呟きが漏れる。周囲を見回すが、部下は気にとめていなかった。きまりが悪そうに頭を掻きながら、シャフトに辿り着いた。

 頭上から落ちる黒い滝のように光を反射する巨大な円柱。それは完成されたおぞましさを体現していた。権力への浅ましい執着と他者を従えたいという願望。憎悪に満ちたドームの落とし子。

「隊長、今日はもう待機っすか」

 命令されずとも自然と整列して待っていた部下たちから、動かない我玖に声がかかった。ふざけた口調であるが、まっすぐに立つ姿は一部の隙もなく整然としている。

 しかし、振り返った我玖の目は、彼らの身のこなしのわずかな齟齬、不必要に力む筋肉の動きを捉えていた。

「ああ。強行軍だったからな。皆ゆっくり休んでくれ。解散」

 部下たちは、おつかれっしたー、お疲れさまですなど、思い思いの言葉を残して去っていく。

 彼らはその有能さにも関わらず、最下層に暮らしていた。上司である我玖が汚れ仕事専門だからか、常に上層部から煙たがられている。

 彼らの態度には、不満や不平など微塵も感じられない。己の道に後悔はなく、従う男への全幅の信頼、忠心に満ちていた。

 見送る我玖の無表情に陰がよぎる。耐えかねたように碧眼を伏せた。

 しばらく肩を落としていたが、大きく息を吐きだした。

「亡霊どもに会うのは気が進まないな」

 柔和な笑顔を貼り付けるように顔をなでると、背後に聳える柱へきびすを返した。

 シャフトは軽さと強度を兼ね備えた炭素繊維で造られており、その表面は細い糸が幾重にも編み込まれ黒い光沢を放っている。

 外周に沿って情報端末が並び、そこから過去の様々な情報を閲覧できるようになっていた。

 人類が地下に潜り永い年月が経った結果、かつて電子媒体に蓄えられていた情報はそれを取り出す技術が失われてしまった。地上に再び戻れるだけの力を回復させ、ようやくその情報を取り出すことができるようになったが、未だ不完全である。 膨大なデータから欲しい情報を取り出そうにも端末の処理速度が追いついておらず、キーワードで検索をかけることは出来ない。かつては整然と分類されていたのかもしれないが、まるで途方も無く広い円盤に記録された情報をジグザグに読み込んだような有様で時系列が乱れている。

 基本的にシャフトに併設している端末でしか閲覧できず、外部からアクセスできる携帯端末は限られた人間、部隊長クラスにしか支給されていない。

 一般人にとっては暇つぶし程度の役割しかないが、記されていた情報が独りでに消えている、悪魔が情報を食べているなどと囁かれ、大半の住民は近づきもしない。利用するのはよほど酔狂な人間や、一握りの研究者、そして遺跡の情報を求める盗掘屋ぐらいなものだった。

 我玖が一角にある認証機に右手をかざすと、昇降機へのロックが解除された。一見すると継ぎ目の見えない壁の一部がスライドし、我玖を迎え入れる。

 狭い通路を中心部に向かって進む。さらに指紋、虹彩、声紋認証を潜り、ようやく昇降機にたどり着いた。窓も無い円柱形の箱に乗り込み、20と書かれた銀のボタンを押す。

 急な加速に我玖は膝を曲げて耐える。天井から落ちる小さな白色光に照らされる壁は漆黒。無限の闇に閉じ込められ時間感覚を見失いそうになる頃、上昇が止まった。

 扉が開ききるのを待たず、半身になって外に出る。

 ドームのガラスが薄いため、第1階層に比べ格段に明るい。足下は、他では目にすることのできない天然の芝で覆われていた。見渡す限りの目に突き刺さる緑。ただ広い平原の中央に評議会棟があった。

 塵一つない緑の地平に足を踏み出す度、植物を踏みつける耳障りな音がする。数多の搾取の上に築かれた、ヒトの醜悪さを極めた虚構の自然。

 我玖は顔をしかめながら進み、白く聳える箱の前で足を止めた。

 外壁に岩石板の化粧張りが施された四角四面の建物。緑に囲まれた白亜の神殿を彷彿とさせる光景は、下層との格差を如実に表している。

「全くもって亡霊どもの住処に相応しい」

 我玖は口にだして毒づいた。

 気分がささくれ立っていることを自覚し、冷静さを取り戻そうと深く息を吐く。入り口へと続く石段を登り、豪奢な木製の扉を乱暴に押し開いた。

 内装には貴重な酸素樹木が惜しげもなく使われている。灯里の里ではどこもかしこも木材であったが、本来であればもはや手に入るものではない。古い木の香りは、遙かな昔に時間遡行した不安を抱かせる。

 天井には、中世と呼ばれた遙か昔に製造された豪奢なガラス製の照明器具が高い窓から差し込む光を受け、傲慢に輝く。床は、やはり大昔の職人によって織られた赤い絨毯が敷かれている。意図して作られた格調高さは、訪れる者を威圧していた。

 絨毯を踏みしめて進んだ先にある巨大な扉。顔を写し込むほどに磨き込まれた真鍮の取っ手を掴み、ゆっくりと押し開く。

 中は百名は収容できるほどに広い。遠い壁には背丈ほどもある写像機が掛けられていた。

 我玖は跪き、頭を垂れた。映る影を相手に成果を報告する。影はただ頷く仕草を示すのみ。謁見はあっけなく終了した。

 我玖は建物を後にすると、シャフトに戻り19階層ある自室へと向かう。

 最上階とは違い、大きなフロアを4つに区切った仕様となっている。染みひとつなく、一片の曇りもない硬質樹脂の白壁も、床全体に敷かれた幾何学図形を組み合わせた絨毯も上物には違いない。だがこの空間には、生活感や温かみといったものが欠落していた。

 乱暴な足取りで部屋を目指す。我玖は肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返していた。戦場では決して見せることのない、追い詰められた姿であった。白壁に手をつきながら、味気ない白い塗装された扉にたどり着いた。

 身体を預けるようにして扉を開くと、堅い床の上に倒れ込んだ。

 体を丸め、歯をくいしばる。額には脂汗が浮かび、苦悶の声が漏れた。しばらく苦痛に喘いだ後、顔を歪めながら室内へと這っていく。

 天井にある半球の照明が室内を茫洋と照らす。プラントの住居の数倍はあるリビングには、最低限の家具しかない。空間を持て余した室内は、主の苦しむ姿にも素知らぬ空気を乱すことはなかった。

 我玖は薄い強化ガラスで造られた文机の脚にしがみつく。腕の力でよじ登り、机の上に置かれた小瓶に手を伸ばした。その拍子に机が倒れ、整然と積まれていた書類の束が盛大に散らばる。

 床に転がったまま震える手で瓶の蓋を取り、大量の錠剤を喉に押し込んだ。

 目をきつく閉じて痙攣を繰り返していたが、やがて薬が効きはじめ、立ち上がれるほどに回復した。

「もう、長くはない、か」

 我玖は頬をひきつらせながら自嘲する。

 弱々しい笑みであったが、その目には強烈な飢餓感にも似た、追いつめられた生命力が宿っていた。

「何とか間に合った。俺は、ここまできた」

 我玖は壁の一部を拳でなぐりつけた。壁紙だけが張られていた隠し場所には、透明な液体で満たされたガラス瓶がある。

 一抱えほどある瓶の底には、握り拳ほどの物体が沈んでいた。輪郭を仄かに蒼く滲ませ、幾つものチューブを丸めたような灰色の物体。それは、魄人の脳髄であった。

 我玖は拳で瓶を叩き割り、灰色の脳髄を鷲づかみにする。

 脳髄は目を覚ましたように微動すると、細い無数の触手を我玖の腕に突き立てる。触手は次々に我玖の体内へと侵入し、周囲にオゾンの霧が立ちこめた。

「俺は王となる」

 万感の思いを込めて呟くと、なんのためらいもなく手の中で脈動する脳髄にかぶりついた。

 咥内に触手を突き立てられながらも咀嚼し、飲み込む。喉がオゾンで焼かれ、体内から触手に貫かれていく。激痛すらも悦楽とばかりに我玖は更に脳髄を喰らい、己の拳にまで歯を突き立てる。

 歯が折れるのも構わず噛みちぎり、喉に突き立つ触手ごと嚥下する。体内に入った脳髄はなおも活動を続けており、吐息は青く染まっていた。

「気が狂ったか、シュクラ」

 部屋の入り口から、侮蔑に満ちた声した。

 内蔵から延びた細い触手が筋肉を突き破り皮膚下でうねる恍惚を感じていた我玖は、ぎしぎしとした動作で入り口を振り向く。

 照明を背に、3人の荼毘人が立っていた。彼らの表情には嫌悪が浮かび、殺気を漲らせている。

 分厚い胸板の短髪の男、長髪の優男、そして長身の女。いずれも荼毘人の頂点に立ち、それぞれが部隊を束ねるナノセカンド達であった。

「ナノセカンドを3人も送って来たか。亡霊どももヤるときはヤるもんだ」

「お前は」

 一際体格の良い短髪の男が怒声を上げかけるも、おぞましい我玖の姿を見て絶句する。

 今や我玖の口や耳、体中の穴から蒼い霧が吹き出していた。関節が人体の可動域を無視して捻れまわり、皮膚を突き破った細い触手が蠢いている。

 ナノセカンド達は目をむいたが、一瞬後には得物を取り出し、我玖に襲いかかった。

「さすがに3人相手は分が悪いか」

 体内で暴れる触手に身体を操られながらも、我玖の思考はいささかも鈍っていなかった。

 これは、王へと至る儀式。我玖が食したのは、魄人の脳髄、すなわち、オゾン細菌がもっとも密集した部位。かつて任務で滅ぼした魄人の脳髄を持ち帰り、保管していた物だった。

「シュクラ・我玖。お前はすでに人類ではない。消えろ」

 優男が、銃口を我玖に向ける。

 の世界では、引き金を絞る動作もゆっくりと流れる。短髪の男と長身の女は、左右に展開して我玖の動きに鋭い視線を向けている。

 ナノセカンド同士の戦いは手の読み合いとなる。筋繊維一本の力み、重心のわずかな揺らぎ。そういった小さな一手から、相手の数手先を読みきり必死の状況に追い込んでいく。

 こちらの動きに対する相手の動きの変化から、さらに裏をかくべく動きを変える。延々と、10億倍に引き延ばされた時の中でフィードバックを繰り返す。

 ブラフの動きを混ぜ、数手後にはブラフが本命になり、さらに数十手後にはブラフに戻る。引き金が引かれるコンマ1秒ですら、ナノセカンドにとっては常人の1億秒。4年以上を体感している。

 本来、ナノセカンド同士が本気で殺し合うことなどあり得ない。

 荼毘人の隊員を構成するミリセカンド、千倍の思考速度を持つ者たちですら、人口比で1000人に1人、ナノセカンドはさらに1000分の1未満と言われる。現在のプラントを含めた人口、20万人では1人いるかどうかといった確率である。加えて、天賦の才を薬物や暗示を用いて開花させる訓練では、時に脳が壊死し植物人間となったり、気が狂い自害する者もある。それをくぐり抜けるだけの才能を持つ者が、10億分の1の世界に到達できる。

 当世は4人のナノセカンドが同時期に存在する希有な時代であった。まるで、暴走する者を押さえるべく用意されていたように。

 我玖は二人の動きに合わせて体捌きの初動を調整しつつ、懐のナイフに手を伸ばす。

 シリケート建材が雨粒で削られ丸みを帯びていくような、悠久の時間感覚が経過する。

 我玖はナイフの柄を握った。同時に、優男の銃弾が発射された。

 止まっている矢の如く迫る銃弾に合わせて、二人のナノセカンドが接近を開始する。発射音が耳朶に届く頃、両者の間合いが交錯した。

 完全に同期した左右からの挟撃。我玖が後退すれば正確に追尾され防戦一方となり、左右どちらかに近づけば背後を取られる。

 我玖は体中を触手に食い破られながらその場で迎え撃つ。

 短髪の男が、その太い腕に漲る筋肉に任せてナイフを振り下ろす。重い一撃は、両手でなければ防ぎきれない。反対からは女の刃が迫る。

 我玖はあえて右腕一本で男のナイフを受け、骨が剥き出しとなったままの左手で女の刃物を受け止めた。右腕はかかる負荷を流そうとするが、その動きが読まれ手首の関節が破壊される。体が振り回されるに任せ、左手で女の顔面を殴りつけた。 女は目を閉じることもなく、吹き飛びながらもナイフで我玖の左腕の動脈を切り裂く。

 我玖は体内の血流が変わった影響で、ほんの一瞬、身体が固まった。

 計算しつくしていたように、遙か昔に優男が放っていた弾丸が我玖の右目をから侵入し、脳髄を破壊して貫いていった。

 人間であれば即死の一撃を与えたにも関わらず、優男は更に銃弾を浴びせる。二人のナノセカンドも得物を銃に持ち替え、我玖の体にガラス弾を撃ち尽くした。

 我玖の喉から蒼い吐息が吐き出される。体内に侵入した無数のガラス粒子が触媒となり、オゾンを分解していく。内蔵から筋組織まで置き換えつつあったオゾン細菌が青い霧に還っていく。

 全身穴だらけとなった我玖は、壁に叩きつけられ床に落ちた。体中の皮膚は焼けただれ、内側からオゾンの泡を破裂させ崩れてゆく。

「シュクラ。言い残すことはあるか」

 短髪のナノセカンドが厳かに告げる。

 人外に墜ちたとはいえ、長いつきあいであった我玖を悼んでいるのだろう。銃弾を撃ち尽くした他の2人も、我玖の最後を神妙に見つめていた。

「昔話を、しよう」

 体の半分以上を喪失し霧となって消えていく中、かろうじて声を発する喉。人間としてのシュクラ・我玖という存在は、すでに終わっていた。

「俺は魄樹を滅ぼすことが。力を授かった者としての、使命だと考えていた」

 我玖の声は途切れ、掠れ、時に声にならず非常に聞き取りづらい。それでも、ナノセカンド達は口を挟むことはなかった。

「10年前、だ。そこから、俺の絶望は始まった」

 当時、我玖はナノセカンドとして部隊を率いたばかりだった。魄樹を滅ぼし、人類の生存圏を回復するという荼毘人の使命に燃えていた。日々鍛錬し、部隊を訓練し、そして、シャフトの端末を読みあさっていた。

 端末に記録された膨大なデータの中に、もしかしたら魄樹の、オゾン生命の弱点があるのではないかと一縷の望みを賭け、莫大な体感時間をつぎ込んだ。支離滅裂な、無秩序に断片化されたデータを全て頭にたたき込み、脳内で繋ぎ直す。無数のジャンクデータの果てに、ついに我玖は致命的な研究記録に至った。

 魄樹が現れた初期の時代に行われた研究の成果。細切れになってシャフトのアーカイブに埋もれた情報を頭の中で再構築し並べ替えた結果、それは魄樹の発生メカニズムが詳細に調べられた成果だった。レポートの末尾には人類がオゾン生命に破れた後の計画が載っており、それを読んだ時、我玖の信念は音を立てて壊れた。

「研究の最後には、王の存在が示唆されていた。王へ至る方法と共に。その鍵がアガルタシード」

 いつしか身体の損壊は止まっていた。口調も滑らかになり、先ほどまでの息も絶え絶えといった様子が消えている。

 ナノセカンド達の顔に緊張が走る。

「俺はついに手に入れた」

 まるで映像が飛んだように、いつの間にか我玖は両足で立っていた。

 絶叫があがる。

 優男の身体が無数の黒い触手によって貫かれていた。

 隣りで目を見開いたまま固まっている女の身体にも、漆黒の触手が降り注ぐ。短髪のナノセカンドは咄嗟に飛び退いており、目の前を流れる触手の群に驚愕の表情を浮かべた。

 我玖は床に潜らせていた触手を体内に引き戻す。 ゆらりと立つ我玖の体は、光を吸い尽くす漆黒と化していた。皮膚に走る無数のひび割れが蒼く明滅している。碧眼は魄人のように蒼い双眸へと変化していた。

 その気配は魄樹とも魄人とも異なっている。酸素生命もオゾン生命も、生きとし生ける全てを否定する異形の存在感を放っていた。

「お前は、なんだ」

 短髪のナノセカンドは怯えた声を出した。

 死んだはずの人間が化け物となって復活したことに、計り知れない恐怖を抱いているのだろう。萎縮した瞳孔で我玖を見つめている。

「魄人の脳髄にはオゾン細菌が密集している。それを取り込むと体組織と融合し、次いで脳細胞を置換する。結果、理性を保ったままオゾン生命と化すことができる。人類が残した研究の成果だ」

「オゾン生命と化したところで、ガラス弾で打たれれば滅びるはずだ!」

「そうだな」

 我玖は喉の奥で嗤うと、黒い腕を翼のように広げた。

「さらにシンプレクタイトメモリを用いることで、オゾン細菌の量子生物能力を制御し、無尽蔵のエネルギーを得ることができる。それが、今の俺の姿だ」

 我玖は胸に埋まった黒い結晶メモリを頼もしそうになでる。

「なんのためにそんなことを」

「決まっている」

 我玖は不敵に微笑むと、漆黒の触手でナノセカンドの頭部を握った。あまりの速度に、男は知覚することもできなかっただろう、無抵抗に捕まり吊るし上げられた。

「人類を守るためさ」

 触手に力が込められる寸前、倒れていた優男が最後の力を振り絞ったようにガラス刃を振るい、触手を切断した。

 同時に女が飛びつき我玖の胸にナイフを突き立てる。女はその手が焼けるのもいとわず、我玖の胸に開いた傷口に腕を突き立てるとメモリを奪い取った。

 機能不全に陥った我玖が動きを止める。

 女は床に崩れる短髪の男の手をとり、メモリを握らせた。炭化した腕で男を突き飛ばすと、我玖に飛びかかっていく。優男は狙いもつけずに銃を乱射している。

 短髪のナノセカンドは何も言わず、無駄な時間を浪費することなく、メモリをきつく握りしめて部屋から脱出した。

 我玖の身体は、ありふれた魄人に戻るように急速に白色になっていく。

 それでも、死にかけのナノセカンドに劣ることはない。最後のあがきを見せる2人の頭部を一閃で切断すると、無数の細い触手を突き刺して二人を吸収した。

 表皮の罅から悦びの霧を吐き出すが、それを最後に全身は完全に白化し、漆黒の怪物はただの魄人に戻った。

「まったく、悪足掻きを」

 我玖は口の端を吊り上げて嗤うと、逃げた男を追う。部屋には、破壊の爪痕と死の霧だけが残った。

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