第4話

 我玖の碧眼には、突然現れた朱い女が穹と共に逃げていく姿が映っている。

「あれは……」

 眉をひそめ呟く。

 二人が森に入る寸前、視界を覆う霧越しであったが、女の腕に填められた枷が視えた。表面に浮かんだ、離れていても判別できる特徴的な文様。それは、極めて稀な合金で作られていることを示唆していた。

「あれはダマスカス鋼か。世界は広い。まさかドームの外で現存しているとはな」

 感心する我玖の隣に、部下が駆けつけた。挨拶もそこそこに、プラントの状況を報告する。

「制圧完了しました。生存率は8割程度です。到着が遅れたのが響きました」

「仕方がない。むしろ魄人が現れて2割の犠牲で済めば大金星だ。まあ、あの六丁拳銃が時間を稼いでくれたおかげだが」

「追いますか」

「放っておけ。礼は済ませておいた」

 我玖の声は喜色を帯びていた。首をかしげる部下に次の指示を飛ばす。

「ドームに帰るぞ。後続部隊にプラントの人間を引き渡す準備を。滅菌の下準備もな」

「了解」

 部下の肩を軽く叩いてやりながら、我玖は森に背を向けた。右手を胸に当て、手に入れたシンプレクタイトメモリの存在を服の上から確かめる。踊り出す心を必死に押さえ込むように、厳めしい顔を取り繕う。

「これで、全て揃った」

 我玖の独り言には、崩壊したプラントにふさわしい荒廃の匂いがある。

 背後の森では、魄樹の枝が慄くように蠢いていた。


 ※※※


「逃げ切れたみたい。ちょっと休もっか」

 わずかに開けた場所に出ると、朱律は引いていた手を離した。すとんと地面に腰を下ろす。

 穹は思考に没入したまま、立ち止まったことにも気づいていないようだ。朱律の乱れた息が整ってもまだ、穹は立ち尽くしている。

「穹も休みなよ」

 声をかけるが反応を示さない穹に業を煮やしたのか、朱律はその腕に手を伸ばした。

「ねえってば」

 化学繊維の袖を捕まえ、座らせようと引く。

「朱律、魄人ってなんなんだ?」

 穹は伸ばされた腕を逆に捕まえると、細い身体を引き寄せた。小さく悲鳴を上げて立ち上がった朱律の顔を見つめる。

 掌から伝わる朱律の体温に動じること無く、穹は白い腕を固く掴んで離さない。

 朱律の腕に嵌められた白い腕枷が白磁の肌を滑り落ちる。穹の爪先に当たると、見た目よりも軽い乾いた音がした。

「何よいきなり」

 朱律は上気した頬を更に赤らめた。琥珀色の瞳が、魄樹の枝間から差す光を反射している。

「あれは、魄樹とどう違う? 魄樹と魄人は仲間なのか、敵同士なのか。どっちなんだ」

「それは……」

 朱律の瞳は、万華鏡のように強い煌めきと陰りを繰り返している。静かに見つめ続ける穹に、朱律は観念したように息を漏らした。

「たぶんどっちでもないし、どっちでもある」

 無言で説明を求める穹に、痛いから離して、と囁いた。

 解放された手をさすりながら、朱律は彼方に視線を向けた。亜麻色の前髪がその表情を隠す。

「里に伝わる伝承では、魄樹は魄人から産まれたと言われてる。この地に現れた魄人は人を喰らい、やがて動きを止めて大地に根ざし、一昼夜にして巨大な魄樹と化した」

「全ての魄樹はかつて魄人だった、と」

「真実は分からないけど、里にはそう伝わってる。ただ、仲間って訳じゃないと思う。魄人が現れると魄樹は一丸となって攻撃するし、魄人は逆に周囲の森を取り込もうとすると言われてる。そして、魄人が森を取り込み強大になると、恐ろしいことが起こると伝えられてるの」

「恐ろしいことって、何が起こるんだ?」

「王が復活する」

 厳かに告げる朱律の言葉、王という単語に穹の表情は凍り付いた。

 我玖は、自らが王になると語った。王、オゾン生命を遍く統べる者。それは、魄樹を滅ぼし尽くすという穹を同志と呼んだ我玖の目的と、どんな関係があるのか。

「王とは、何だ」

 勢い込んで問いかける穹に、朱律は首を振った。髪に隠れその表情は伺うことができないが、俯き体を震わせる姿から、彼女が感じる強い恐怖が伝わってくる。

「分からない。ただ、途轍もなく恐ろしいことが起きる、王によって世界は滅ぼされる。そう伝わってるだけ。私たちは、魄人だけは絶対に倒さないといけないと教えられてきた」

 朱律は両手で自らの肩を抱くと、屈み込み背を丸めた。

 そのまましばし震えていたが、突然何かに気づいた様子で立ち上がると、穹に詰め寄った。

「穹は何でそんなことを訊くの? あの荼毘人の男が何か言った?」

「あの男は、自分が王になる、と言っていた。王となり、魄樹のない世界を造ると。そのための鍵が、俺が拾ったシンプレクタイトメモリらしい」

「絶対に止めなきゃ!」

「何故だ? 魄樹がいない世界の何が悪い。それはつまり、魄樹も魄人もいないんだろ。誰も殺されない、死の霧もない、ドームに支配されることもない。平和な世界じゃないのか。なぜ阻止する必要があるんだ」

「魄樹は世界に必要なの!」

「魄樹に近づいた人間は襲われる。魄樹はオゾンをまき散らす。どこが世界に必要なんだ」

「魄樹は、王の復活を防いでいる。王は、世界を滅ぼす」

「じゃあ、王って何なんだよ」

「だから分からないってば!」

「本当にいるかどうかも怪しい王とやらを怖がって、現実に脅威を及ぼしてる魄樹を庇うのか。魄樹のせいでどれだけの人間が死んでいる? 森のせいでどれだけの生活が搾取されている? お前は里の外の人々の暮らしがどれだけ悲惨か分かっていない」

「プラントとかドームとか、確かに私は何も分からない。けど私は、魄樹の考えていることが分かる。彼らは怯えてる。そしてずっと後悔してる。言葉が通じないから何に怯え、後悔しているかは知らない。でも、心を通わせて、共生できる。里はそうやって命を紡ぎ、生活を築いてきた。プラントとは違う生活は現実に存在した。それを嘘だとか現実じゃないなんて、誰にも言わせない」

 朱律は怒りを露わにし、穹を両手で突き飛ばした。

 穹は半歩よろめき、二人の間に距離ができる。

 朱律が右手を水平に振るうと、穹の足下から触手が絡みつく。とっさに腰の銃に伸ばした手は、左右から伸びた触手に拘束された。

「穹、ここでお別れよ。あんたが教えてくれたとおり、私には命を賭けてやることがある。自分の命だけじゃなくて、他の誰かの命も賭けてでもね」

 触手が次々と巻き付き、穹の身体を包み込んだ。

 目前に死が迫っているにも関わらず、穹は何故か穏やかな目つきをしていた。

「そう、だったのか」

 体を覆う樹の感触が、遠い昔の記憶を呼び覚ましていた。

 目の前で仲間が殺され、その光景をまぶたに焼き付けていた時。激情の捕らわれて気にも止めず、彼方に埋もれていった記憶。母親に抱かれた幼子のように、顔が自然と綻ぶ。

 その姿を、朱律は眉根を寄せて見つめた。

「死ぬのがそんなに嬉しい?」

「いや、思い出したんだ」

 更に眉をひそめる朱律に、穹は穏やかな口調で語る。

「俺は、両親と仲間を魄人に殺された」

「里で聞いた。同情しろと言われればするけど、見逃すことはしない。穹が生き延びて、ドームに私の目的を話されたら困るから」

「命乞いじゃない。単なる昔話、いや、思い出話か」

 穹の体に幾重にもまわる触手同士が擦れ、硬質な音を奏でる。それでも、穹の顔に苦痛は現れていない。生きるために痛みよりも必要なものが、穹の感覚を満たしていた。

「周りが触手に無惨に切り刻まれる中、何で俺は生きていたと思う?」

「え?」

「皆が触手に切り刻まれている間、何故か俺は魄樹に守られていたんだ。親が、友達が、親切にしてくれた大人達が。手足をもがれ、血の一滴すら残さず吸い尽くされていく中で」

 穹は、全身を包み込む魄樹の触手を眺めた。ごつごつとした節が肌に食い込んでいる。全身の骨が砕けるほどの痛みを、郷愁をもって受け入れている。

 肺が圧迫されて呼気が絞り出される苦痛に苛まれながらも、胸の奥から忘れさられていた事実が湧き出してくる。

「俺は、魄樹に包まれて眺めていたんだ。ちょうど今みたいにな」


 ――両親は、一瞬でバラバラになっていた。2つの頭部が転がり落ち、地中から現れた触手に取り込まれた。

 魄人の破壊が迫り、自分ももう終わりだと思った時。

 足下から魄樹の苗木が生まれた。それは溢れるように成長を始め、瞬く間に穹の小さな身体を取り込む。なすすべもなく、一瞬のうちに自由を奪われる。

 このまま吸収され同化することを覚悟し、死への畏れと両親と共に行ける安堵で抵抗もできなかった。

 しかし、魄樹は小さな穹の身体を包んだだけで、そのまま守るように表皮を分厚くしていく。何度も大きな衝撃が襲ってきたが、魄樹の殻は傷つく度により強固に再生し、穹を守り続けた。

 驚きに見開いたままだった目はもはや涙も出せないほど乾き、オゾンの臭いが満ちる世界を網膜に写しつづける。まだ幼く、柔らかだった穹の心を歪ませるように、強く擦り込むように、ゆっくりと知覚される残虐の一部始終――


 厚く塗り固められた記憶の殻が破れ、穹は魄樹の揺りかごの中にいた己を思い出していた。

「俺は誓った。魄樹を全滅させると」

 朱律は神妙な表情で口を開いたが、結局何も言わなかった。上げていた腕を下げる。それを合図に、穹の体を締め付けていた触手が解けた。

 自由になった体で、穹は森の大地を踏みしめる。

「だが、それは魄樹について理解してからだ。なぜ魄樹が俺を生かしたのか、俺だけを殺さなかったのか。それを突き止めてから、俺から全てを奪った魄樹に償いをさせる」

 穹は決意を言葉にする。魂に刻み込むように熱を込めて。

「俺は魄樹の秘密を追う。魄人、アガルタシード、王。そいつらと魄樹の関係を突き止める。そのためにまずは、あの男を追ってドームに行くつもりだ。一緒に行くか、朱律」

 穹は、自然な仕草で右手を差し出した。

 その手に、柔らかい手が重ねられる。赤い衣を彩る純白の流れ。可憐な細腕に嵌められた枷に浮かぶ魄樹の紋様。

 凜々しい朱律の面持ちは、雅と呼ぶにふさわしい品格があった。

「分かった。でも、魄樹は殺させない。穹が魄樹を滅ぼそうとするならすぐに止める。殺してでもね」

 この手に魄樹の秘密の一端を掴み、穹の胸は高鳴った。だが、本当にそれだけなのか。穹は、ごまかすように手を離し、背を向けた。

 朱律の顔から先ほどまでの剣幕が消え、屈託なく微笑んでいる。夕暮れ時に降る優しい雨のように、その瞳は茜色に濡れていた。

「なんか、穹と私は似てる気がする」

 穹は何も答えない。その沈黙は拒絶ではなく、振り向き目を合わせることを憚かっているようだった。

 太陽が西に傾いていく。長く伸びた影を重ね合わせる二人の周囲を、冷めゆく風が吹き抜ける。森は凍えるように枝を揺らしていた。

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