第3話
朝日を浴る白銀の森の中を、穹は朱律と共に逃げていた。
魄樹は葉をつけることがなく、その枝は硬質で風にそよぐこともない。鳴き声を奏でる生き物もなく、停止した時の中を走っているような錯覚に陥る。
二人の荒い呼吸と地面を蹴る音が響く。
手を引かれている朱律の息は激しく乱れている。何度もつまずき、その度に走る速度が落ちていく。
「少し歩く。止まるなよ」
穹が早足になると、朱律は無言で歩調を合わせた。
朝の空気が汗ばんだ体を冷やす。魄樹の枝がつくる影が、網となって二人を覆っている。
穹は呼吸を静め歩きながら、自らの吐息が樹に取り込まれ、酸素を経てオゾンへと変換されていく様を思い浮かべた。オゾンは樹の体内を巡り、酸化剤としてエネルギー変換に使用され、余剰分は死の霧となって放出される。そして、霧を吸い込んだ誰かを殺す。自分の一呼吸が誰かの死につながっている。乱れた己の呼吸すら罪深く感じられた。
朱律は肩を激しく上下させ、俯きながら歩いている。時折足がもつれては、穹の腕に引き上げられて足を動かし続ける。ひくりと呼吸を乱し、目元に溜まった涙があふれた。朝露のような涙が上気した頬を流れ落ちていく。里で見せていた快活さは見る影もなく、表情は暗く沈んでいた。
どこまで行っても同じような風景の中を黙々と歩いていると、穹の思考は自然と昨晩の出来事に引き戻される。
「この子をお願いします」
寝ていた所を叩き起こされた穹に向かって、茜は深く頭を下げた。
男達の悲鳴が、次第に近づきつつある。この里の命運は、既に尽きていた。このような夜更けに襲ってくるものは、魄樹を除けば荼毘人しかありえない。そして、荼毘人に見つかればこの里は終わる。
救いは悲鳴が近づく方向が一方であることか。すなわち投入されている荼毘人は大部隊ではなく、周囲が完全に包囲されたわけではない。今ならばまだ、逃げ出せる可能性がある。
「どういう意味だ?」
「朱律を連れて逃げてください」
腕を組む穹に、茜は再度頭を下げた。傍らの朱律は、押し黙ったまま顔を伏せている。
「私たちが時間を稼ぎますから、その間に森へ」
「おまえ達はどうするんだ」
「ここに残ります。この里はもう終わり。土は塩で枯らされ、建物は焼かれるでしょう。逃げたところで、弱い者たちは外では生きていけません」
「捕まれば全員処刑される。まだ逃げた方が望みがあるんじゃないか」
「私が人質となって他の者たちの命を助けます」
「あんたにそんな価値があるのか?」
茜は黙したまま答えない。ただ穹を鋭い視線で見つめていた。
穹は首をかしげる。
「むしろ俺を突き出せばこの里は助かるかもしれないぞ」
「酸素生命と共存する者がいると知れれば、彼らの支配に大儀がなくなります。この場所は彼らにとって都合が悪すぎる。決して見逃されることはないでしょう」
「それは、そうかもしれないが」
穹は言葉に詰まり、茜の傍らでうつむく朱律の細い手足を見る。森を駆け回って育った伸びやかさが見て取れ、全く動けないお嬢様という訳ではないだろう。だが所詮は穹と同じく素人である。訓練された軍隊から逃げ切れる道理もない。女一人連れてとなればなおさらである。
口を引き結ぶ穹に、茜は胸を叩いてみせる。
「朱律がいれば、森が助けてくれるわ。これは傑出した御子ですから、一緒に逃げれば樹は襲ってきません。むしろ追っ手から守ってくれるでしょう」
「何を言っているんだ。魄樹に襲われないだと?」
「説明している時間がありません。とにかく連れて行ってください。捕まれば、そのメモリを奪われてしまいますよ」
茜は困惑する穹を急かすと、隣の朱律に向き直った。
「朱律。お願い、生きて」
茜は娘の頬を優しい手つきで包んだ。縋る目で顔を上げる朱律の額に口づけをする。
「お母さん」
今にも泣き出しそうな朱律の頬からそっと手を離し、袖に手を入れた。取り出したのは、小さな2本の鍵。黒鉄と白銀。どちらも周囲を映すほど磨かれている。赤子をあやす優しい手つきで、黒の鍵を朱律の手枷に差し込む。
鋼の枷は重々しく朱律の腕を解放した。
朱律は呆然と両手を見つめている。
その間に、茜は白銀の鍵を自らの手枷にある鍵穴に差し込んだ。錠が外れる音は、祝福の鐘のように長い余韻を残す。
「これを貴方に」
茜は自らの腕に填められていた白い手枷を朱律に手渡す。
朱律は、小さく首を振った。
「嫌だ! やっぱりみんなで逃げよう? お母さんと私がいれば大丈夫。あんな奴ら、森がやっつけてくれるから」
「それはできないわ。逃げても捕まる。そうすれば、もっと立場が悪くなる。今なら、まだ交渉の余地があるの」
「でも!」
「朱律、お願い。貴方が生き残れば、私たちの希望はつながる。辛い役目を押しつけてしまって、ごめんなさい。ひどい母親ね」
朱律は何も言えず、唇をかみしめる。何度も首を横に振り駄々をこねる。白い頬に涙が幾筋も伝い落ちる。
茜は我が子の頬を伝う涙をそっと拭うと、きつく抱き寄せた。
「私は、母よりも巫女であることを選んだ。貴方はきっと、私を恨むでしょう。でも、これは貴方にしかできない。私の自慢の娘なら、できると信じてる」
身体を離し、大きくなったわね、と懐かしむように目を細めた。
「さあ、行って」
促され、朱律はふらふらと穹の前に立った。目元にあふれる涙を袖口で大きく拭うと、まっすぐに顔を上げる。
ガラスの欠片のように幾つもの光を宿す瞳を受け、穹は無精無精うなずいた。
「いざとなったら、置いて逃げる。俺は、自分の命を捨てる気は無い」
朱律は振り向き、母に向かって力強くうなずいた。
「絶対に助けに行くから! だから、待っていて。必ず」
捕らえられた者達は家畜のごとく扱われ、死ぬまで強制労働をさせられるだろう。実験動物にされることもありうる。あらゆる苦痛と快楽の果てに精神が壊れるか、身体が消耗して命が終わるか。
そんな地獄を前にしてなお、茜に後悔の色はない。
茜は誇らしげな顔で穹を見た。巫女の名に恥じぬ、千の言葉よりも気高い別れの言葉。
穹は無言で顎を引くことで答えた。開け放たれた戸へと身を翻す。
その背を追い、朱律も走り出す。
「北東の森から逃げなさい。きっと、お父さんが助けてくれるはずよ」
背中にかかる茜の言葉を聞き、朱律が先頭に立つ。心の迷いを振り切るように、履きならされた草履で大地を力強く蹴っている。
穹は周囲に神経を尖らせながら、小柄な背中に続く。
里を駆け抜け、森の入り口にたどり着いた。
二人に気づき、黒い制服に身を包んだ男が横手から迫る。
穹は男に向かって狙いもつけずに発砲しながら、脇目も振らず森へと突っ込んでいく朱律を援護する。
朱律は、里の境界に立つ一際大きな魄樹に向かって一言、いってきます、と呟いた。応えるように触手が伸び、背後に迫る男に向かっていく。
男の怒号を後に森に入る。なぜか魄樹は襲ってこない。
二人は走り続け、太陽が完全に昇る頃には追っ手の気配は消えていた。
「一休みしよう」
歩いて呼吸が静まった頃合いで、穹は立ち止まった。
朱律は崩れるように座り込む。両手をたらしたまま地面を見つめる彼女に、穹は水と携帯食料を差し出した。
「とりあえず食べろ」
穹は乾燥した橙色の果実を口に含み、何度も咀嚼して飲み込む。独特の風味と甘さが口の中に広がる。天日によって水分が抜け、栄養が濃縮されている。エネルギー補給にうってつけの品だった。
穹が淡々と食事を済ます間も朱律は動かず、水にも口をつけない。
「食わないとすぐ倒れるぞ。俺には医療技術なんてない。転んで擦りむいただけで死ぬかも知れない」
かつては傷口から細菌なるものが侵入する破傷風という病があったという。現代では、それらの目に見えない生物達すらもオゾン生命の餌食となり存在しない。代わりに、オゾン細菌という脅威がいる。人体に入り込むと、宿主の血肉を栄養源にオゾンを生成し、内臓を焼き尽くす。オゾン病と呼ばれ、罹患者は死体も残さずオゾンの霧となって消える。
免疫機構が機能していれば発症しないが、一度症状が現れれば助かる見込みはない。オゾン細菌の獰猛な活動は治療するいとまも与えてくれないからだ。
穹が再度呼びかけると、ようやく朱律は水の入った袋を手に取った。飲み口を顔に近づけるが、そこで再び固まってしまう。
「あのな」
「分かってる。分かってるけど」
朱律はかすれ声で答え、生気の失せた顔で穹を見た。充血した目をどす黒い隈が縁取っている。血の気が失せて蒼白となった顔。亜麻色の髪は乱れ、輝きを失っていた。
「分かってる、けど」
朱律は同じ言葉を繰り返し、顔を落とした。消え入りそうな声でつぶやく。
「私もみんなと行きたかった」
「お前がいたところで何にもならない」
「私は巫女の娘。皆を見捨てて一人で逃げるなんて間違ってる」
「それはお前の母親の役目なんだろ。お前は、任された役目を果たせ」
「私に何ができるっていうの? ちょっと走っただけでもう動けなくなって。ただ泣いてるだけの女に!」
「それだけ喋れりゃ上等だ。早く飯を済ませろ。何もできなくたって、何とかしないといけない。それが、託されるってことだ」
穹の言葉に納得した訳ではないであろうが、朱律はようやく水嚢を口につけた。上を向いて喉に流し込むと、大きく喉を鳴らして飲み込む。隣に置かれた食料を掴み、挑みかかるようにかじりついた。
穹は肩をすくめると食事を再開した。
今後どこで新たな食料を調達できるか分からないため、切り詰めた食事は数分で終わる。十分な休息とは言えないが、明るい間にできるだけ進まなければならない。
穹が腰を浮かせた時、朱律がささやくように問いかけた。
「ねえ。里が襲われたのって、メモリを見たせいなのかな」
穹は再び地面に腰を落とすと、朱律に顔を向けた。突き放した声で応じる。
「そうだろうな。アクセスした端末がどこかでドームと繋がってたんだろう」
「端末が使われると飛んでくるってこと?」
「いや。ただ端末を起こしたくらいじゃ誰も気にしないだろう。ありふれたメモリを差し込んでもな。だが、俺が読み込ませたシンプレクタイトメモリはそこらに有るものじゃない。メモリの内容に閲覧コードに引っかかる記述があったんだと思う」
「私が端末を使わせたから、里は襲われたんだ」
「あるいは、俺が変なメモリを差し込んだから、だな」
「でも、穹を助けたのは私。結局、私が原因なんだ」
朱律は己を責め、内面に閉じこもるように背中を丸めた。
穹は顔をしかめた。口調を和らげる。
「それを言えば、俺がメモリを見つけたのが原因てことになる。遡れば、俺のプラントが全滅したとき、死んでれば良かったことになるし、魄樹が生まれなければこんなことにはならなかった」
朱律は立ち上がる気配を見せない。
「聞いちゃいないか」
穹は嘆息すると、膝に手をついて立ち上がった。朱律に近づき、その細い顎に手を当てて顔を上げさせる。なおも無反応な瞳をのぞき込んだ。
「お前の母親は何で捕まった? 時間を稼ぐためだろ。反逆罪で捕らえられた者は新たなプラント開拓に強制的に従事させられる。耕作の間に樹に襲われて命を落とすか、満足に食料も与えられない厳しい労働で死んでいく。だが、巫女は己を人質にドームの連中と交渉するといった。自分を実験動物とする代わりに、一緒に捕まった者達に危害を加えず、過酷な労働に従事させないように」
うつろな瞳が僅かに揺れ出したことを確かめ、穹はさらに言葉を重ねる。
「巫女にどんな秘密があるか知らんが、仮に交渉が成立したら、どうなる?」
一食一飯の恩を受けた相手の身に降りかかる惨劇を思い、穹は暗鬱な表情を浮かべた。重い唇を無理矢理動かすように、ゆっくりと朱律に言い聞かせる。
「監禁され、一日中能力のテストだ。苦痛への反応、快楽への反応、仕舞いには頭に電極を刺されるかもしれない。そんな実験に何日心が耐えられる? 心が死ねば、即、肥料だ。いいか、巫女は自分を身代に時間を稼いだんだ。そうなる前に、お前は何とかしてドームに入り込み、囚われた仲間と母親を助け出さないといけない」
朱律は突きつけられる現実を拒絶するように首を振ろうとするが、穹は顎を掴んだままそれを許さない。吐息を感じるほどに顔を近づけ、涙が溢れる瞳を睨みつける。
「お前はそのために生かされた。できるかどうかじゃない、やるんだ。失敗は許されない、やらずに死ぬことなど許されるはずもない。ここでへたり込んだまま時間切れになるなんて選択肢は存在しない。お前の命は、もはやお前の物ではないと思え。分かったか」
恐怖に染まっていた双眸が、怒りを帯びていく。朝日の色をした瞳に、穹の顔が写り込んだ。
朱律は叫び声をあげ、穹の身体を突き飛ばす。
「お母さんも里の皆も、絶対に殺させない! そのためだったら何でもする。確かに、私が端末を使わせたのが原因かもしれない。遺跡に倒れてた穹を引っ張り込んだのが始まりかもしれない。でも」
朱律は地面に手を着いて立ち上がる。突き飛ばされて体を離した穹を毅然と見据えた。
膝を震わせながら、一歩、二歩と穹に歩み寄る。
「あんたにも責任がある。変なデータのせいで里を滅茶苦茶にした落とし前、きっちり付けさせてやる!」
朱律は穹の胸ぐらを掴み、下からねめつけた。穹が体を引けば転びそうなほどに体重を預けている。
穹は無表情に燃える瞳を見下ろす。弱々しく震える朱律に手を差し出すことはなかった。自らの足で立ち上がった者を助けることは、その魂を侮辱することだとでもいうように。
朱律は歯を食いしばり荒い呼吸を繰り返したあと、ゆっくりと体を離した。
「穹、ありがとう」
「は?」
「感謝する気にはなれないけど、おかげで立ち上がれたのは事実だから。お礼は言っておく」
上気した頬は薄紅色に染まっている。乱れた襟元からのぞくのは、すべらかな鎖骨。汗に濡れ四肢に吸い付いた紅い布越しに、細めの腿が痙攣していた。
穹は即座に目をそらした。
耳を赤くする穹に、朱律は生気を取り戻した口調で問いかける。
「まずはどうするか決めないと。穹はどこに向かってたの?」
「とりあえず、里から一番近いプラントに行くつもりだった。お前と一緒なら樹に襲われることはないようだが、森を歩くよりもプラントからドームに延びる道を行く方が速度が出せる」
「でも、里を襲った連中はドームから来たんでしょ? 端末で何かあったのを知って、その日の夜には襲いに来た。なら、その道を使えば半日で行けるんじゃないの」
「無理だ。そのルートには後援部隊が入ってくるはずだ。そいつらが捕虜を連れ出し、里の痕跡を完全に抹消する。そして新しいプラント用地にするために余所から労働者を入れる。そんな道を逆走したら一瞬で怪しまれる」
「なるほどね」
「時間がない。さっさと行くぞ」
穹が歩きだそうとすると、ついと袖を掴まれる。振り返ると、茜と同じ空気を纏った、巫女の顔をした朱律がいた。
「その前に、穹の本心を聞かせて。なんで私に協力してくれるのか」
「お前の母親に頼まれたからな。このままなにもせず放り出したんじゃ目覚めが悪い」
「嘘、ではなさそうね。でも」
朱律は心の奥をのぞき込むような、無限遠の彼方に焦点をあわせた目になる。
「本音を教えて。貴方は一人じゃここを抜けられない。私と一緒なら森に襲われないけど、私から離れればそうは行かない」
目の前の少女は、急に手強い相手になっていた。先ほどまで泣き喚き、取り乱していたとは思えない。別人に変貌していた。
穹はしぶしぶ認めざるを得ない。
「そうだ。だが、お前もどこに進めばいいか分からないだろう。俺に付いてくるしかない」
「お前、じゃなくて朱律」
「呼び方なんてどうでもいい」
「良くない。名付けは言霊の基本。私の存在を穹の精神に根付かせ、約束で縛るのよ」
穹は荒唐無稽な話だと鼻で笑う。それでも朱律は一歩も引く様子がない。
にらみ合いの末、折れたのは穹だった。
「俺は、朱律をドームまで連れて行く。その後はどうにかしてくれ。俺は自分の目的があってドームに行くが、その先は協力できない」
「なんでドームに行くの」
「シンプレクタイトメモリを読み込めないか試す。里では文字化けして解読できなかったが、ドームの端末なら完全に読み込めるかも知れないからな。逆に問う。朱律の力はなんだ? なぜ森に襲われない」
「それを話したら、穹は皆の救出も手伝ってくれる?」
「回答次第だ。その力を使って勝算があるなら、手助けしてもいい」
「それは」
唐突に言葉を切り、朱律は表情を凍りつかせた。怪訝そうに見つめる穹を余所に、朱律の表情が険しくなっていく。
「どうした」
「森がざわついてる」
朱律は両目を閉じた。両手を耳に当て動かなくなる。
二人の息づかいしかない森の中。穹は周囲を見回すが、異常は感じられない。
数秒間も耳をすませた後、朱律は目を見開いた。眉がつり上がり大きな弧を描く。
「魄人が出たって言ってる。まだ遠いけど、まずいかも」
朱律から泰然とした巫女の面影が消え失せた。縋るような目を穹に向ける。
急に少女に戻った姿に、穹は目を丸くする。腰に吊した拳銃が接触して音を立てた。
「魄人なんてそうそう居るもんじゃない。それに、なんでそんな事が分かるんだ」
「それが巫女の力だからよ。森と会話し、心を通わせることができる。といっても、言葉が分かる訳じゃないけど」
「そんな訳ないだろ。魄樹は本能のまま人間を貪るだけだ」
「違う。森は心があるし、思考力だってある」
「じゃあ何で人間を襲うのか訊いてみてくれ」
「だから、言葉が分かる訳じゃないっていってるでしょ。何となく、考えというか、感情みたいなのが分かるの」
「なるほど、便利な能力だな」
言外に眉唾だと決めつけられ、朱律のこめかみがピクリと跳ねる。犬歯を覗かせて冷笑すると、わざとらしく肩にかかる髪を払った。
「そうね。穹もこの力のお陰でのんびりと森を散歩できるしね。逃げ回って銃弾バラマいてるよりもよっぽど役に立つでしょ」
穹の肩から怒気が立ち上る。奥歯を噛みしめ、頭一つ低い朱律の顔を見下ろした。
朱律は腰に手を当てて胸を張り、穹の視線を迎え撃つ。
純水のように無味無臭な森の空気が淀んでいく。
それは、独りで歩いていては決して感じることのない空気だった。
穹は調子が狂うとばかりに髪をかきむしった。大きくため息をつく。
「その通りだよ。森の中じゃ拳銃なんて役にも立たない。実際、森に襲われないってのは最高の能力に違いない」
己への言い訳のように一息で告げる。大きく深呼吸してから、朱律に頭を下げた。
「疑って悪かった。現に魄樹の触手が襲ってこないってことは、朱律の力が本物である証拠だ」
朱律はその言葉にポカンと口を開けた。瞳を琥珀玉のように丸くしている。
穹は先ほどの怒りなど無かったかのように、落ち着いた口調に戻った。
「魄人か。遭遇したらやっかいだ、できるだけ迂回して進もう。方角は分かるのか」
魄人とは、人型の魄樹に例えられる。白い巨人のようなオゾン生命であった。
酸素生命が単一祖先から植物と動物に枝分かれしたように、オゾン生命も植物のような魄樹と、動物的である魄人があると考えられている。魄人については奇妙な点が多く、単純にオゾン生命の進化の過程で発生したものではないと主張する者もいた。酸素生命の動物種は脊椎動物をはじめ、昆虫や菌類まで多種多様であったと記録されている一方、オゾン生命の“動物”は人型の魄人しか報告例がないからだ。
「分かる。けど、魄人は滅ぼさないといけないわ。迂回してる場合じゃない。追いかけないと」
「無理だ。遭遇すれば荼毘人の先鋭部隊ですら全滅することもあるんだぞ」
魄人は人間を好み、ひとたびプラントに現れればその住民を食らい尽くす。魄樹は一定距離を保てば攻撃が止むが、魄人はどこまでも執拗に人間を追い、プラントを全滅させるまで暴れ回る。そのため、人類にとって魄樹以上に危険な存在であった。
「でも」
「ダメだ。言っただろ。お前にはなすべき事がある。そのため以外に命をかけることは許されないはずだ」
「それでも! 魄人を見逃すことはできない」
穹の鋭い否定にも、朱律は頑としてゆずらない。
朱律は一刻も早くドームに向かい母親と里の仲間を救出しなければならないはずである。にもかかわらず魄人にこだわるということは、それに匹敵する理由があるということか。
穹は、憮然と口をつぐむ。朱律は、どうあっても言うことを聞きそうにない。
穹は細く白い腕を掴み、その軽い体を引き寄せた。
「悪いが朱律の意見は聞き入れられない。魄人はどっちにいるんだ?」
「逃がす訳にはいかない! 魄人はプラントに向かってる。魄樹達はくい止めようとしてるみたいだけど、たくさんやられてる。早く助けないと」
魄人が現れると周囲の魄樹は魄人を攻撃し、取り込もうとする。逆に取り込まれる事もあり、その不可思議な現象が何故起こるのか、全く持って不明であった。
「何故それを早く言わないんだ!」
穹は顔色を変え、朱律の手を離してプラントの方角に走り出す。彼女から離れれば森に襲われることも忘れたのか、慌てて後をついて行く朱律を振り向くこともしない。
「ちょっと待ってよ! 急にどうしたの? 変な奴」
朱律は穹の豹変ぶりに困惑したように呟き、身体をふらつかせながらも歯を食いしばり、後を追った。
「木に向かって一発でも撃ったら許さないから! あと、私から離れたら樹に襲われるってば!」
怒声を背に受け、穹は立ち止まった。朱律が追いつくのを待ち、並んで走る。
小走り程度の速度だが、それでも体力の尽きかけていた朱律には負担が大きいのだろう。苦しげに脇腹を押さえている。
穹は焦りを隠さず、舌打ちでもしそうな顔でつき添う。その様子が勘に障るのか、朱律も似たような表情を浮かべていた。
昼間は短い休憩を挟みながら走り続け、夜は泥のように眠る。可能な限り急いだ結果、明朝にはプラントの近くまで到達した。
「魄樹はどこまで来ている?」
息を弾ませながら穹が訊ねる。
朱律は荒い呼吸を繰り返し顎が上がっている。憔悴しきっており、右足が地面に触れる度に顔を歪めていた。息も絶え絶えに、声を絞り出す。
「プラントの、反対側にいる。もうすぐ、プラントに入るかも。急がないと」
「よし」
穹は頷くと、行く手を遮る魄樹に目を向けた。
視線の先、魄樹の隙間に森の切れ目が見える。この魄樹を切り抜ければ、プラントにたどり着ける。
「ここで待ってろ。荷物を頼む」
穹は荷物を足下に落とし速度を上げた。地面を力強く蹴り、樹の間をすり抜けていく。背中から聞こえる抗議の声を無視し、さらに速度を上げる。
10歩も離れると、周囲から触手が襲いくるようになった。
穹は腰から厚刃のナイフを引き抜く。迫る触手を上半身の動きだけで避け、ナイフで切り裂きながら、まっすぐにプラントを目指す。
森とプラントを隔てるガラス堀が見えてきた。
最後の魄樹の下を、白濁した地面に滑り込むようにくぐり抜ける。ざらついたガラスの感触を衣服越しに感じながら転がり、素早く身を起こす。
「間に合った、か」
森とプラントの境界には、魄樹の嫌うガラスが敷設されている。幅3メートル、深さ5メートルの溝に溶けたガラスを流し込み固めた堀は、プラントをぐるりと囲んでいた。
人とオゾン生命の生存圏を分かつ白い帯を踏み越えプラントに入る。
境界から数歩の距離にすら、シリケート鋼材のブロックで造られた家々が並んでいる。人々は森に近い危険地帯に住み、比較的安全な中央付近でドームへと献上する食糧を栽培するハウスをいただく。どこも変わらぬプラントの町並みは、住民の犠牲など歯牙にもかけないものだった。
外延部に密集する家の間を、穹は半身になって通り抜ける。
シリケートのブロックをただ積み重ねただけの住居には窓もなく、内部に光を引き込むためのファイバーも通されていない。昼間ですら屋内は薄暗いだろう。ドーム内の建物は分厚い壁越しですら太陽光が届くようになっているのに対し、プラントの住環境はあまりに劣悪であった。
まだ日は高い。住民達はハウスで農耕に従事しているのか、どの家にも人影はなかった。遠くで土を掘り返す音がそよ風にのって届く。
長閑な絶望がプラントを包んでいた。
穹は迷路のような隘路を、プラントの中心に向かって急ぐ。
目の前が開け、ハウスの前にたどり着いた。
半透明の可塑性シリケートフィルムの幕に覆われたハウス。長方形の外見は、プラントの住民をすべて横たえても足りる巨大な棺を連想させる。
内部では、粗末な化繊布でできた服を着た住民たちが農具を手に土を耕していた。幼い子ども達も大人に混じり、顔に土をつけながら労働に従事している。誰もが手足を泥だらけにし、機械のように黙々と腕を振り上げていた。
穹がハウスの前で膝に手をつき呼吸を整えていると、近くの住民達が何事かと顔を上げた。
一番年嵩の男が作業を続けるように指示を飛ばしながら、穹の元へとゆっくりと近づいてくる。古びた農具を杖代わりにしているその男が、穹に遺跡の情報を教えた張本人だった。
鉄製の鍬は錆び、所々穴が開いている。持ち手は半ばで折れ、大の男が扱うには短すぎる。土を穿つ先端は歪んでしまっていた。もはや満足に土を耕すことはおろか、杖としてすらも覚束ない代物になり果てている。
男の真っ黒に日焼けした顔は、半分がケロイド状に爛れている。髪が全て抜け落ちた頭部は、紫に硬化した肌と赤く膿んだ肌が斑を描いて腫れ上がっている。毛羽だった継ぎ接ぎだらけの服は土地汚れが染みつき黄ばんでいた。
「おお。ソーマさん、だったかな?」
男は潰れた声で穹に笑いかける。
森に囲まれ、常にオゾン濃度の高い環境。霧が発生する度に、防護服も無しに高濃度のオゾンの中を走り、ハウスの幕を閉ざして作物を守らなければならない。吸い込んだオゾンに肺が焼かれ、曝された皮膚は爛れていく。重傷を負い働けなくなればコミュニティから見捨てられる、あるいは直接的に殺される。骸は排泄物と混ぜられて肥料となる。
プラントは人が生きていくには厳しすぎる世界だ。数年、長くても十年もすれば土地がやせ細ってしまい、打ち捨てて一から新たなプラントを建設するというさらに過酷な生活がやってくる。常にドームに作物を献上する必要があり、滞れば物資が配給されず生活が立ちゆかない。命は二束三文でしかない、狂った世界。
その中で半世紀も生き残るだけでも天賦の才だ。住民から尊敬され、プラントの中心的な存在であるに違いない。
「生きて戻ったんか。体したもんだわ」
男は手をもみながら、なおも荒い呼吸をしている穹の前に立つ。言葉を発する度に男の喉からは隙間風のような音が漏れている。
二人の様子を、ハウスの中の住民達は作業に戻りつつも横目で伺っていた。
「なんぞ目星い物はあったかね」
背を丸め、上目遣いに穹の体を眺め回す。情報料をせびれないかという魂胆が見え透いていた。
「それどころじゃない! もうすぐ魄人がやってくる。直ぐ避難しろ!」
「魄人かあ。今年で50になるが、産まれてこの方見たこともない。見たら死んどるだろうがね」
男は歯が数本しか残っていない口を開けて笑い声を上げた。
穹は男を睨み、拳を握りしめる。大きく息を吸うと、ハウスの中にも届くように叫んだ。
「逃げろ! 死にたいのか!」
住民たちは手を動かしたまま、互いに目配せをし合うだけだった。
穹は腰の拳銃を引き抜き、目の前の男に突きつける。
「ひゃ」
瞬きの間に鼻先に現れた銃口に男は腰を抜し、両手で顔を隠した。
穹は男の手を容赦なく払いのけ、眉間に銃を押しつける。
「早く全員連れて避難しろ」
穹が凄むと、男は首をがくがくと振った。ハウスの住民はさすがに手を止めてざわめく。
「早くしろ!」
男は震え、ひざまづき命乞いをはじめた。それどころではないと穹は、男の肩を掴みむりやり顔を上げさせる。穹の暴挙に女たちの悲鳴があがる。男たちが血相を変えて、農具を手に集まってきた。
穹が彼らに銃口を向けたとき、プラント中に断末魔が響きわたった。
叫びは唐突に途切れ、不気味な静寂が流れる。誰もが固唾をのみ視線を向けていると、連鎖する悲鳴が押し寄せた。反対の方角にある住居では、昼食の準備でもしていたのだろう。聞こえてくる悲鳴は甲高いものばかりだ。
穹は舌打ちとともに銃を腰に戻すと、凍り付いたプラントの住民を捨て置き、悲鳴の聞こえた方向へと走り出した。
前のめりに駆ける穹の瞳に涙が溢れ出す。煮え滾る怒りを宿した涙は、頬が焼けるような熱を持っていた。
「またか。また俺は」
赤い瞳を見開き幽鬼の如く呟いた時、目前にあった住居の壁に赤い固まりが激突し、爆ぜた。
飛び散った鮮血から、それがつい今し方まで人体の一部であったとかろうじて分かる。一体どこの部位であったのか、叩きつけられた衝撃で潰れた残骸からはもはや判別不可能となってしまっているが。
穹は立ち止まると、両手に銃を携えた。脱力したように二丁の銃口を地面に向けたまま、前方に目を凝らす。
青いオゾンの濃霧が空間を青く滲ませていく。白濁したガラス建材に飛んだ血が紫に変わる。穹の全身が一瞬にして粟立ち、短い髪はぞわりと逆立った。
周囲に死の霧をまき散らしながら、異形の怪物が姿を現した。
それは人型をしていたが、人間と似た造形であるが故に生理的嫌悪をかき立てる。巨木のように太く硬質化した胴回りからは、数メートルはある首と、手足にあたる4本の太い触手が生えている。手足の触手は、その先端が指のように5つに枝分かれし、表面から細い産毛が無数に伸びていた。
体躯の倍の長さはある首が、うねうねと不規則に動き回っている。先端にある頭部だけ見れば人の頭と変わらぬ大きさをしているが、その双眸はオゾンの結晶をはめ込んだような、毒々しい蒼をしていた。
根源的な恐怖を感じさせる蒼い瞳に、穹の全身が粟立つ。
人肌とは似付かない、石灰を固めたような表皮には、毛細血管の如き網目模様が不規則に脈打っている。脈動に併せて高濃度オゾンが吹き出し、血風と青い霧が混ざり穹の視界を紫に染め上げる。周囲には頭痛を覚えるほどの悪臭が立ちこめていた。
近くにいた者達は既に逃げたか、殺されたかのか。生ける人間の気配はない。
魄人は手足の触手を使って大地を這うとも歩くともつかない挙動で移動していたが、何かを嗅ぎつけたように真っ青な目が意思を持って穹を見下ろした。感情のない顔で口からオゾンを吐く。
穹は両手をだらりと下げたまま怪物を睨み返していたが、突然横に跳ぶ。
直後、体があった場所に魄人の触手が叩きつけられた。
狙いを外した触手は穹の背後にあった建物を一撃で粉砕し、土煙があがる。それを皮切りに、魄人は触手を振り回し始めた。
当たれば生身の体などちぎれ飛ぶ威力を持つ触手の鞭。荒れ狂う破壊の中、両手に拳銃を緩く握ったまま風に身を任せるように触手を紙一重で避ける。
魄人は丸太のように太い触手を水平に振るう。周囲に転がるシリケート鋼材の塊をたやすく破砕しながら、穹の胴を引き裂かんと迫る白銀の軌跡。
鞭の如くしなる触手は、その初動を読むことは不可能に近い。先端は音速を越え、普通の人間であれば見てから躱すことはできない。荼毘人であれば加速された思考により認知してからの回避も可能であろうが、穹はただの人間でしかない。
穹はその触手を、前方に宙返りして避けた。空を切って過ぎ去っていく触手、その表皮で脈打つ紋様まで鮮明に捉えたイメージが、穹の脳裏に浮かんでいる。空中にある自らの体勢を他人事のように認識し、着地と同時に両手の引き金を引いた。
弾丸が細い触手に着弾して吹き飛ばす。銃弾にこめられた微細なフロンガラスの破片が魄人の体内に侵入し、その生命活動を支えるエネルギー源であるオゾンを分解していく。
痛覚が存在しているのか、遙か頭上にある頭部から咆哮が響いた。触手の動きが激しさを増す。
上下左右から無軌道に振り回される触手を躱し、避けれぬものを銃弾で破壊する。右手に迫る触手へ発砲し、その弾が打ち出される反動を利用して体を回転させる。反対から迫る触手を身を屈めて躱し、足下を薙ぐ触手を小さく跳んで躱す。
宙に浮いた穹の体に触手が振り下ろされる。
避ける足場の無い空中で、穹は両手の中を前方に向け、2度ずつ引き金を引いた。その反動は、穹の体を頭一分だけ後退させる。
触手が眼前をかすめ、前髪が数本ちぎれた。
着地後も踊るように、絶え間なく迫る攻撃をかいくぐる。
穹は、脳細胞が摩滅するような鈍い痛みを感じていた。極度の集中を持続することは脳への負担が大きい。つぶしても数秒後には再生する細い触手は、減るどころか徐々に数を増している。
集中が途切れれば、人体など瞬く間に細切れにされるだろう。すぐそこまで迫った死の足音を前にしても、穹の動きにためらいはなかった。拳銃を両手に華麗に舞い踊る。打ち尽くした拳銃を捨て、一挙動で新たな銃を引き抜き、発砲する。硝煙の香りを纏いながら、火薬の炸裂で舞いは加速していく。
そして、その時が訪れた。
左手の銃口を背後に向け、狙いもつけずに立て続けに引き金を絞った。肩が抜けるほどの反動を受け、体を前のめりに倒しつつ床を蹴る。捩れる姿勢を制御し、打ち出されるように魄人の足下へと滑り込む。
無数に蠢く触手、その隙間をかいくぐった先。魄人の頭部が無数の触手の間から覗いていた。
仰向けに倒れ込むように頭上を望みつつ、右手は腰のベルトから新たな銃を抜いている。鈍い鉛色に輝く長い銃身を持つその銃は、かつて世界最高の破壊力を持つと言われた銃の改良種であった。
穹の指が引き金を引いた。
地面からわずかに浮き、かつ仰向けという不安定な姿勢から放たれた弾丸は、魄人の頭部にあやまたず着弾する。
肉が潰れる音が銃声に重なった。
穹は背中を地面に打ち付け、息を詰まらせる。
周囲で暴れていた触手は、一度大きく跳ねるとその動きを止めた。音を立てて地に落ちる。立ちこめる土埃の中、魄人の表皮は脈動を鈍らせていき、オゾンの噴出が止まった。
顔面の半分を吹き飛ばされた魄人は、巨木が倒れるようにゆっくりと傾いていく。その体に巻き込まれ、数件の家が押し潰される。ガラスが砕ける音が轟いた。
空気から青みが消える。突き刺すような刺激臭が薄れた結果、かえって生臭い血の匂いが強さを増した。
胃を直接かき回すような悪臭の中、穹は顔をしかめる。
「頭半分を消し飛ばしたってのに」
頬を引きつらせながら、力なく呟く。
一度動きを止めたはずの触手は、再び蠢き出していた。破壊された頭部が見る間に修復されていく。
穹は額を押さえてうめき声をあげた。眼球は小刻みに震え、こめかみに浮かぶ血管がはち切れそうなほどに肥大している。大量の脂汗が顎から滴る。乱れた呼吸は収まらず、肺が空気を求めて喘ぐ。
魄人の頭部が修復されるに従い、触手の動きは統制を取り戻していく。
穹にはもう、触手を避ける力は残っていなかった。必死に思考をまとめ上げようとするが、千々に乱れ無意味な断片として流れていく。
霞む視界、輪郭のぼやけた魄人の頭部に向かって銃弾を放つが、虚しく空へと消えていった。
魄人が再び青い霧を纏う。
もはや打つ手は残されていない。無意味と知りながらも新たな銃を次々に抜いては、銃弾を放ち続ける。
やがて発射の反動を抑えることすらできなくなり、穹は仰向けに倒れた。
歯をくい縛り腕を上げようとするが、途中で重力に負け地に落ちる。
ついに魄人の頭部は完全に修復され、オゾンの瞳が大地に転がる穹を捉えた。触手が持ち上がり、地面に転がったまま身動きの取れない獲物へと振り下ろされる。
「やっと会えたな。六丁拳銃使い」
低い声が聞こえた。
喜びに満ちているが、どこか暗い闇を感じさせる、氷のような声音が耳朶を打つ。
視認不可能な速度で振り下ろされた触手が、銃声と共に遠く森の中と千切れ飛んでいった。
魄人は激しくのたうつちながら、現れた男を威嚇するように乱喰歯をむき出しにする。長い首を悶えさせ、現れた黒衣の男にオゾン色の双眸を向けた。
「お前もこいつのアガルタシードメモリが欲しいのか? 悪いが目を付けたのはこっちが先だ。優先交渉権は俺にある」
穹の傍らに現れたのは、荼毘人の制服を纏った男。輝く金髪が陽光を反射して踊る。作り物めいた碧眼が飢えた輝きを放っていた。
男の背に描かれた一角獣が筋肉の動きに併せて躍動する。構えた銃口が微かに動く度に、触手が次々と破壊されていく。
修復の間も与えられない破壊に、魄人はその巨体を戦慄かせた。力を溜めるように一呼吸の間をおくと、長い首がまっすぐに天へと伸び上がる。
森の木々の遙か上空に達した頸部は、半ばからしなり、巨大な弓を描く。
先端にある頭部は破壊の槌。天空から降り墜ちる隕石の如く、衝撃波を伴って振り下ろされる。
「近づけてくれるとは好都合だ」
男は犬歯をむき出しにして笑うと、腰から薄刃の剣を抜いた。
白金よりも白い、有機物の趣を湛える剣の表面には、魄樹の表皮に似た異様な文様が浮かんでいる。
男は脱力した腕を軽く振るった。
剣が白色光となり魄樹の頭部と交差する。振るわれたことすら分からないほど静かに、圧倒的な速度で翻る。
光は無音で鞘に収まった。
同時に、魄樹の頭部が十字に割れる。大量のオゾンを吹き出し、地面に落ちる一瞬の間に霧となって消えた。大地に吹き付けられる霧が、蒼いつむじ風を巻き起こす。
残された魄人の胴体からも青い霧が噴出する。魄人を構成していた細菌が制御を失い、自ら生成したオゾンにより分解され死滅していく。
「さてと。邪魔者はいなくなったな。初めまして、ソーマ・穹。俺はシュクラ・我玖、荼毘人の隊長をやってる。お前なかなかやるじゃないか」
我玖は穹の手をとり、助け起こす。
穹は未だ痙攣している腕を軽く振りながら距離を取った。
その様子を我玖は豪快に笑い飛ばす。
「そう警戒するなよ。俺は敵じゃないぞ。今だって助けてやったじゃないか」
「何故俺の名を知っている」
「調べたからさ」
わずかに腰を落とす穹を気に留めた様子もなく、我玖は気さくに答えた。
フランクな口調とは裏腹に、我玖の瞳は見る者をたじろがせる強い渇望に満ちていた。
穹は怯えを隠すように刺々しい口調となる。
「荼毘人に目を付けられる心当たりは無いんだが」
「そうか? 随分と盗掘に精を出してきたようじゃないか。非金属からレアメタルまで、並のジャンク屋じゃ盗ってこれない量を流してくれてるらしいな。その若さで大したもんだ。だが、それだけじゃあ、ないな」
我玖は目を細めた。おどけた態度が消え、指一本動かすだけで斬られそうなほどの殺気をまき散らす。
どこか似た狂気を宿した二人の男は、無言で見つめ合う。
ささやかな風が吹き、我玖は口の端を歪めた。鋭い犬歯は、かつて百獣の王と呼ばれていたという獅子なる動物を連想させる。
「シンプレクタイトメモリ、持ってるんだろ?」
「持ってたとしても渡さない。売ればこんな稼業から足を洗えるからな」
「じゃあ買ってやるよ。いくら欲しい?」
無造作に右手を突き出す我玖を、穹は無言で見つめた。
「眼球が揺れたな」
我玖はにんまりと嗤った。
「上方にコンマ1秒。人は不思議なものでな。思考を巡らす時には何故か上を見る。そして、左胸にコンマ1秒視線を向けた。ついお前は確認してしまった訳だ。まあ、それだけの時間しか揺れなかったのは見事と言える。ミリセカンドのレベルじゃ観察できなかっただろうよ。ついでに、お前は誤魔化すために指をわずかに曲げたり、腕をホルスターに数ミリ近づけて見せた。普通はそっちに気をとられてしまうだろう。その機転、素晴らしい」
我玖は一瞬だけ殺気を納め、大きく頷いた。
圧倒的な力の差に、穹の全身に恐怖が走る。
「誉めてもらって悪いが、何のことがさっぱりだ」
「往生際が悪いぞ。実を言うとな、灯里の里を攻めたのは俺たちなんだ。六丁拳銃の男が逃げ出したと部下から報告を受けている。腰に六丁も差した奴なんてそうそういない」
「そんなことない。どっかには居るんじゃないか」
平静を装った穹の言葉に、我玖は笑い声をあげた。悦びに満ちたその声は、獲物を追い詰めた獣を思わせる。
「違うな。ここは、灯里の里ってどこだ、そことシンプレクタイトメモリは何の関係があるんだ、って言わなきゃな。六丁拳銃なんてごまかしたってしょうがないぞ」
「興味がないから無視しただけだ。訊けば全部説明してくれるのか」
「必要ならな。今のお前には知る必要のないことだが」
我玖は喉の奥で嗤うと目を細めた。
「仕事柄、俺も気が長い方ではあるが、そのシンプレクタイトメモリだけは我慢がきかない。今ならまだ値段交渉ができるぞ」
「生憎だが」
「どこぞの巫女と違って頑固だな。若さ故ってやつか? だが、交渉は己の立場を弁えないと痛い目を見るもんだ」
我玖は言い終えると、前触れもなく動き出した。
指先はおろか筋繊維の一本まで無駄が省かれた動き。いつの間にか、我玖の手にはガラス刃のナイフが握られていた。
迫るナイフを、穹は紙一重で避ける。その動きを読んでいたように、刃は最短距離で翻る。
穹は一瞬で腰のホルスターに手を伸ばす。
我玖は、穹の銃が照準を定める前にナイフがその心臓を抉ると確信したのだろう。得物を突き立てる力を込めるため極わずか動きが止まる。
瞬間、穹は吊られたままの銃の引き金を引き絞った。
発砲音と共に打ち出される弾丸。
その反動により、穹の身体は後方に押され、強引に間合いを引き離していた。
我玖は満面の笑みを浮かべる。
「銃の発砲の反動を利用して踊る。さしずめガンダンサーといったところか。実に面白い」
我玖の足下、先ほどまで穹の立っていた場所に黒い小箱が落ちた。穹の胸には浅い傷が走り、懐の衣嚢が切り裂かれている。
穹は驚愕に目を見開いた。
我玖は、穹の動き予期していなかったはずだ。引き金が絞られる途中から、その意図に気づき踏み込みを深くしていた。荼毘人という先鋭の中にあってすら、異能中の異能。人の100万分の1の世界を生きる、ナノセカンドと呼ばれる別次元の怪物。
「だが、甘い」
固まったままの穹に向け、我玖は吐き捨てる。
「絶望が薄い、憎悪がぬるい、懺悔が足りない。己以外の命をも燃やし尽くし捧げるという覚悟がない――お前は俺に勝てない」
果てしなく濃縮され、純化された負の感情。我玖は漆黒の霧のような気配を発散させながら、小箱を拾い上げた。
穹は怯えた表情で俯いた。返せ、というたった一言すらも口にできない。ナノセカンドの力に、我玖の闇に、穹の精神は敗北を認めてしまっていた。
「ようやく、手に入れた」
我玖は顔を蕩けさせた。紛うことなき狂気。金よりも、自身の命よりも欲したものが手に入った歓喜。
奇しくもその姿は、遺跡でシンプレクタイトメモリを手にした穹とよく似ている。
「穹、お前は何を求めて盗掘屋になった? 死と隣り合わせ、運が悪ければ死に、どんなに運が良くても死ぬときは死ぬ。そんな危険な遺跡ばかりに好んで潜るのは何故だ」
「俺は」
穹は顔を歪めて後ずさる。
その姿を見て、我玖はただ上機嫌に、優しい笑顔で問う。
「お前もその命を賭して求めたものがあるのだろう? そうじゃなきゃ魄人なんて化け物に単身で挑める訳がない。シンプレクタイトメモリを売らず、荼毘人に刃向かうなんて選択はしない」
「俺は、魄樹をすべて滅ぼす。そのために生きてきた」
なんとか口にしたその言葉が種火となり、心に憎しみが燃え広がる。穹は立ち昇る黒煙のように、ゆらりと目の前の男へと顔を上げた。
「ほう」
顔を上げた穹の黒い瞳を正面から見つめ、我玖は興味深そうな声を漏らした。影のように立つ穹に、ゆっくりと歩み寄る。
「気に入った。お前は、俺と志を共にする同志だったか」
我玖は腕を広げると、ぐにゃりと弛緩した穹の両肩を掴む。憎悪の焔がちらつく穹の瞳を見つめ、鷹揚にうなずいた。
「任せておけ。俺が魄樹のない世界を作ってやる」
穹の瞳は困惑に揺れる。
ドームの存在意義は魄樹への対抗である。魄樹のない世界になれば、ドームの統治は崩壊する。人に害をなす魄樹に大地が覆われているからこそ、プラントは独立できず服従を受け入れている。その構造を崩すなど、支配者の側である者が本気で言うはずがない。
「そんな顔するな。俺は本気だ」
我玖はその言葉通り、否、言葉以上に真剣な表情を浮かべている。作り物めいた碧眼は確かに、自らの信念を突き進むと告げていた。
「そのための鍵を、アガルタシードを探し続けていた。そして今、手に入れた。穹、お前のおかげだ。俺はドームに戻り最後の準備を整える。そうすれば、世界に魄樹はなくなる」
「アガルタシードとはなんだ」
「王へと至る鍵だ」
「王とは何だ! お前は何をするつもりなんだ!」
「俺は、地球上に存在するオゾン生命を遍く統べる者となる。王とはすなわち」
突然、二人の間を白銀の触手が通り抜けた。魄樹の枝が、大地を割るほどの勢いで叩きつけられる。
我玖は一瞬前に身を離していた。黒衣の姿が巻き上がる砂塵の向こうに霞んでいく。続いて、青い霧が猛烈な勢いで吹き付けてきた。森の方角から、霧に乗ってかすかな歌声が耳に届く。
穹の視界が明滅し、脳内に見たこともない光景が押し寄せた。
――魄樹が暴走し、周囲の人々が食い尽くされている。
いずこかの研究施設の中。厳重に隔離された白い部屋に数人の男たちがいる。壁に背をつけて叫ぶ男たちの中心に、魄人が触手をうねらせていた。
彼らは研究者なのか、全員が白衣を羽織っていた。魄人の肩にも彼らと同じ白衣の切れ端が通されている。まるで、白衣を纏っていた当人がその場で魄人と化したように。
研究者達は逃げまどうが、部屋はすでに閉鎖されていた。出口がない中で天に叫び、壁を叩いている。
白衣の男たちの身体に触手が振るわれ、八つ裂きにされていく。
白昼夢のように、鮮明でいて決定的に臨場感を欠いたビジョン。
悪夢の光景を眺めながらも、怒りは浮かばなかった。なぜなら、彼らを襲う魄樹もまた、悲痛に叫び、何かを懇願する声を感じていたから――
始まった時と同じく、唐突に脳内の光景はかき消えた。額を押さえて倒れかける穹の手を引く者がある。
「穹、こっち!」
手を取り導いたのは、死の霧を従えた朱律だった。穹を伴い森へと駆け込む。
穹は抵抗することなく身を任せていた。視界の明滅は治まっていたが、脳内を外部から暴力的に開発されたような感覚が残り、むずがゆい痺れがある。
肩越しに背後を一瞥する。霧と土埃に遮られ、我玖の黒く濃密だった気配が薄れていく。
穹はかぶりを振ると、朱律と共に森に入った。
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