第2話
蒼暗い森の中。黒い制服に身を包んだ部隊が夜の森を疾駆していた。隊列の中央で羅針盤を片手に指揮を執る男の名は、シュクラ・我玖。
我久の駆け抜ける身のこなしには円熟の兆しがある。引き締まった体躯と無駄のない動きは、彼が体力知力ともに絶頂期にあると示していた。
頭上を覆う魄樹の隙間から、高く昇った月明かりが差し込む。
我久の金髪が鮮やかに浮かびあがる。整った相貌に、ガラス玉のような碧眼が憂いを湛えている。まるで陶器でできた人形のような男だった。
漆黒のスリムスーツの背で、長い角をもつ白馬が象られた金の刺繍が躍動する。彼がドームの守護者であり、魄樹に対抗するために作られた組織である【荼毘人】の部隊長を勤める猛者だけが背負う意匠であった。
襲いかかる魄樹の枝を、付き従う男たちが不可視の獲物で凪払う。一糸乱れぬ隊列が過ぎた跡は、魄樹が断末魔の如く放出するオゾンが残る。
彼らが振るうのは、硬化ガラスで製造されたナイフである。切りつける度に分子レベルの刃こぼれをおこし、切れ味が落ちることがない。零れ落ちた分子は魄樹の内部に取り込まれると、オゾンを分解する触媒として作用し組織を破壊する。対魄樹に有効な武器であるが、その機能ゆえに脆く、扱いをあやまれば一振りで砕けてしまう。高速で迫る触手を相手に使いこなすにはとてつもない鍛錬が必要だ。
周囲には蒼い血煙が満ちる中にあっても、口を覆う鈍色のマスクが繊維の隙間に捕らえられたナノレベルの硝子球でオゾンを酸素に変化させて呼吸を可能とする。最新鋭の装備をまとい、完全に統率された荼毘人たちは、魄樹をいともたやすくなぎ払っていく。
「シュクラ隊長」
「なんだ? もうバテたか」
我久は部下の呼びかけに気さくに応じた。手元に視線を落としたまま、脚に巻き付こうとした触手をかわしている。
「そんな訳ないっすよ」
若い隊員は笑いながら、目標を逃して地面でとぐろを巻く触手をナイフで一閃した。
我玖が部隊をひきいてドームを出立したのは正午過ぎのこと。途中に数度の休息をはさみながら、半日ほど森を走り続けている。それにも関わらず、彼らに疲労した様子はない。
「なんかこの辺りの奴ら、いつもと違いません? チームワークというか何というか、俺らを近づけないようにしてると言うか」
「ふむ」
我玖は顎に手を当て、併走する他の隊員に目配せした。襲い来る触手を払いつつ、全員が頷き返している。
我玖は頭を掻いた。
「皆、ようやく気がついたか」
「シュクラ隊長、気づいてなかったでしょ」
触れれば人体など軽く切断する触手の嵐の最中、笑い声が唱和した。我玖は苦笑いを浮かべる。
「進路取りは大変なんだよ。頭の半分はそれで一杯なんだからな」
夜の進軍で最も危険なことは、己の位置を見失うことである。かつて地上を隈無く覆っていた全方位測位システムはとっくに機能を停止していた。頭上を覆う枝により星座も視認しがたい。頼りとなるのは、今も昔も変わらぬ地磁気で方位を指すコンパスと、ドームの電波塔から放たれる信号。そんな原始的な手法しか、今の人類には残されていない。
「いつもの隊長なら、残り半分の100分の1でも余裕でしょう? どうしちゃったんですか」
「やれやれ。優秀すぎる部下を持つのも辛いな。プライベートな悩みってやつだよ」
我玖は、まじめ腐って応える。上下関係はあれど、遠慮はない。組織の理想型とも言える部隊だった。
「いきなりの呼び出しは隊長のプライベート研究ってやつに関係してるってことすか。よく出撃許可が降りましたね」
若い隊員は、はぐらかすような我玖の言葉に気を悪くした様子もない。むしろ納得した様子である。他の隊員も次々と賛同する。
「隊長が何を考えてても、俺らは別にいいさ」
「俺の命は荼毘人じゃなくて、この部隊に捧げてる」
「自分はクーデターだってお供しますよ!」
彼らは無数に迫りくる触手をすべて認識し、仲間の数手先を読み合いながら切り裂いていく。荼毘人という選ばれた者たちだけがなせる技であるが、その練度と連繋は尋常ではない。
「目標が近いな」
我玖は部下たちの軽口に頬をゆるめながら、小さく告げた。その碧眼が闇の中で妖しく輝く。
霧の跡を背後に残しながら進軍を続けると、やがて視界が開けた。
部隊の足が止まる。魄樹の攻撃が止み、荼毘人たちの足音も消えた。本来は無音のはずの森を、さらさらと耳の奥をくすぐる音が包んでいた。
鼻孔に感じる、濃い、苦みを帯びた香り。むせかえるほどの生命にあふれた匂い。
「隊長、これは」
若い隊員は動揺を隠せず、震えた声で我玖に顔を向けた。
我玖は部隊を見回し、腕を組む。いくつもの視線に縋られながら、重々しく口を開いた。
「ここは、酸素生命の森だ」
腰のポーチから小型照明を取り出し、周囲に向ける。足下には覆う緑の草、頭上を覆うは褐色をした木に茂る緑の葉。毒々しい緑が目に焼き付く。
絶句し後ずさる者、口を袖で覆う者など、隊員たちはそれぞれの反応を見せている。
「酸素生命は、かつて地上のほぼすべての地域に生息し、繁茂していたと言われている。現代のプラントで育成するような限定的な食糧群だけではなく、多種多様な種が渾然一体となり生態系を造り上げていたそうだ。人体に害はない」
我玖は淡々と説明した。
無害と分かり、部隊の混乱はわずかに静まった。しかし、なおも彼らの胸中に渦巻く未知に対する恐怖は手に取るように伝わってくる。
訓練と実戦を繰り返し、口に出すことも厭われる仕事もこなし、常識や倫理を手放した荼毘人らである。大抵のことに動揺しない。そんな彼らであってすら、魄樹の死んだ白さとは異なる、生を主張する鮮烈な色彩の前では、平静を保つことが難しいようだ。
「土地を1年も放置すれば、こいつらが生えてあっという間に一面の緑になっていたらしい。雑草とかいってな、地中に根を張るもんだから刈ってもすぐに伸びて、仕方なく一本ずつ手で抜いたり、こいつらを枯らす薬剤を散布したりと難儀してたという。今となっては魄樹の餌でしかないはずだが」
我玖は首を傾げながら、足下の草を一本引き抜いて目の前に掲げる。地下に隠れていた根に絡んだ土がばらばらと落ちた。
それを遠巻きに覗き、危険が無いことを納得すると、隊員たちに平静が戻る。
見慣れてしまえば、緑は自然物であるとの認識が人類の精神に刷り込まれているのだろう。緑に塗られたドームの庭も、薄緑色をした会議室の机と椅子も、人間の深層心理にある緑という色彩への安心感を反映した結果だ。その理由は忘れ去られても、遺伝子に組み込まれた情報は失われない。
「行くぞ」
我久は照明をポーチに戻し、手にした草を放り出して告げる。部隊は進軍を再開した。
これまで以上に注意深く、最大級の警戒態勢で望む。足音も気配も消しているが、革靴が下草にすれる音は隠せない。それはわずかに部隊の足取りを狂わせる。
空気を切り裂くわずかな音がした。
「襲撃!」
月明かりに隊員のナイフが翻り、銀の軌跡を描く。我玖の足下に折れた細い棒が落ちた。一瞬の後には31本の飛翔物が同時に飛んでくる。それらはすべて払い落とされ、残骸が地面に突き刺さる。
「矢か。こんなものが残っているのか。いや、ここの酸素生命で作成したか」
ナイフで切断され、足下に落ちた棒きれを拾い上げる。褐色をした細い酸素樹木の枝の先端は荒く削られ整形されている。毒でも染み込ませてあるのか、尖った先端は湿ったように光を反射していた。
「どうやら大当たりのようだ」
我玖は歓喜の笑みを浮かべた。つり上がった口の端から白い犬歯が覗く。
「散れ! 妨害者は無力化しろ。ただし一人も殺すなよ」
固まって防御に徹していた部隊は、我玖を残して四方に散る。雨のように襲い来る矢を打ち払い、草を踏み荒らしながら突撃していく。我玖は歩みを変えぬまま、彼らの後に続いた。
矢の数は部隊に集中しているが、時折、我玖めがけて飛んでくるものもある。軽く身を捩って避け、手で捕らえて足下に放り、平然と足を進める。
悲鳴があがり始めた。木の上に潜んでいた者が落下する音が重なる。矢が風を切る音は次第に少なくなり、うめき声が闇を支配する。
我玖は行く手に倒れている男の傍らに膝を着き、顔を近づけた。
「私は荼毘人2番部隊を率いている、シュクラ・我玖という者だ。貴殿の名は?」
肩と足首の関節を外されて動けない男は、脂汗を浮かべた顔を上げた。激痛にさいなまれているはずだが、気丈に歯をくいしばっている。
「ドームの犬めが。出て行け!」
歯の隙間から発せられる声には、闘争心がみなぎっている。
「そうはいかない。私たちはプラントを管理する責務がある」
我玖は真面目くさった口調で続ける。
「武器を製造、所持することは禁じられているし、ドームの許可を得ている我々の活動を妨害することも御法度だ」
「ここは俺たちの里だ! お前等の法など関係ない」
「魄樹に対抗するため、全人類は結束する必要がある。ドームの法は地上の全人類に適用されるものだ。君たちの部族の自主性は尊重するが、無許可はいけないな」
「許可など要るものか。お前らがやっていることは弾圧だ!」
「見解の相違だろう。大儀のためにはお互い譲歩が必要となる」
「どうせ森を滅ぼすため、とか抜かすんだろう。それは間違っている。人と森は共生できる」
「なるほど。それは危険思想に当たる。あまり口外しないことをお勧めする」
「事実を口にして何が悪い!」
「ドームの都合が悪いのさ」
我玖はシニカルに笑った。真面目な表情は消え、おどけたような顔つきとなる。楽しげな口調に反し、餓えた獣ように纏わりつく視線だった。男はその変化に固唾をのんだ。
「この辺りに古い研究施設があるだろう? そこの端末で最近、というか昨日の昼間なんだが、変わったデータを読み込ませなかったか?」
男は目を白黒させた。我玖の殺気に圧され、声を震わせる。
「し、知らない」
「訊き方を変えよう。この里に余所者が来ていないか」
男は体を大きく跳ねさせた。それは明白な肯定であったが、応えて良いか判断できずに口をつぐんでいるようだ。
我玖は威圧的に顔を近づけた。
「余所者がアクセスしたデータが問題でね。君たちが知らずに、そいつが勝手にした事なら、この里は被害者だ。犯人を確保すれば、君たちと里については寛大な処置を上告すると約束しよう」
我玖の甘い言葉に男は折れた。近くの遺跡で倒れていた男を里で保護したこと。彼は6丁の拳銃を腰に差した若者であること。早口にまくしたてる。
「そうか。とても参考になった」
我玖は顔を離し男に背を向けた。数歩進んだ後、振り返る。
「里の代表者はどこにいるのかな」
体をがたがたと震わせていた男は、小さく悲鳴をあげた。恐怖に染まった目は、飛び出すほどに見開かれている。
「まあ、中央にいると相場が決まっているか」
男をその場に残し、六丁拳銃ねぇ、と口の中でつぶやく。我玖は怒声と悲鳴のあがる方角へと足を速めた。
里の外れに、かつて研究施設であったと思われるコンクリートの建築物が見える。真四角のシルエットの周辺には、明らかに建築年代の異なる三角屋根が並ぶ。酸素生命の樹木を加工して作られた材料を用い、この国の伝統工法で立てられた木の家。もはや失われた建築技術のはずである。
「違法建築は焼き払う必要があるが。もったいないな」
左右を見回しながら進んでいると、隊員の一人が近づいてきた。
「戦闘員はすべて無力化しました。非戦闘員は里の中心にある変な建物に立て籠もっています。代表者もそこに」
「分かった。引き続き警戒を怠るな」
哨戒に向かう隊員を険しい顔で見送ると、我玖は闇の空へと視線を上げた。無数に浮かぶ星の光を、一際高い建物の影が遮っている。
集落の中心に守り神のごとく鎮座する建物に辿り着いた。入り口に立つ2人の隊員はが敬礼と共に報告をする。
「里の長はこの建物の奥に居ます」
「ご苦労。ここは焼き払う必要がある。手分けして焼却の準備と住民搬送の手はずを整えてくれ。逃げ出した者がいないか探るのも忘れるな」
短く答え隊員は去っていく。建物の前には我玖だけが残った。しばしぼんやりと眺める。
材料を止める金具も、隙間をうめる接着剤もなく。それでも垂直に建ち崩れない建物は、単に職人技という言葉で片付けられるものではない。長い歴史の中で試行錯誤を重ね継承されてきた、この国の文化の結晶だった。我玖は今、それを抹消しようとしている。
諦めた様子で首を振り、木製の戸に手をかけた。
ガラス建材に比べて圧倒的に軽い。木材など手にすることはおろか、目にすることもない現代の人間であれば力を込めすぎてバランスを崩すだろう。
我玖は何事も無く戸を引き開けた。
入り口の先に続く廊下には壁掛け灯が並ぶ。一般的な不織布に比べて、頼りない質感を示すランプシェード。揺らぐ光はやわらかな黄色を帯びている。
「紙に板張りの廊下か。まるで博物館だな」
頬をかきながら、入り口で逡巡する。
「たしか、土足は無礼だったな」
磨かれた床材を汚さぬように靴を脱いで上がる。廊下を進むと、里の男が見張りに立っていた。
小さく震えながら睨みつけてくる男に、我玖は片手を上げる。
「私はシュクラ・我玖。この里の首長にお会いしたい」
見張りが口を開く前に、奥の部屋から返事があった。
「どうぞ。お入りください」
室内から聞こえた女の声は落ち着き払っていた。覚悟の座った声音に、我玖は表情を引き締めた。
見張りの男は戸を開くと、顎で入るように促す。
「あ、茜様に何かあれば、た、ただじゃおかんぞ」
奥歯を鳴らしながらの警告に、我玖は見張りの肩を軽く叩いて応えた。雷に打たれたように硬直する男を残し、我久は敷居をまたいだ。
植物の茎を編み込んで造られた、枯草色の床材で設えられた部屋。天井からつるされた明かりは弱く、四隅に闇を残す。
広い室内の中心に、白い女性が座していた。
「この里の長を努めております、灯里茜と申します」
ゆったりとした装束を羽織り床に凛と座す姿は、白銀の月を連想させる。天井の明かりを反射する金の流れが幻想的な雰囲気を引き立てていた。表情を殺して我玖を見つめる瞳。発せられる怒気が空気をしびれさせる。
我玖は柔和な笑みを張り付け、穏やかな挨拶を交わした。
「私は荼毘人第2部隊隊長、シュクラ・我玖。夜分遅くの訪問、容赦願いたい」
「ええ。無礼にも武力で押し入られ、多くの負傷者を出したことに、我々はとても気分を害しています。正面からいらっしゃれば歓待もいたしましたものを」
茜は瞳をつり上げ、視線で訪問の理由を問うている。
地図にもない森の中。どうやれば正面から来れるものかと我玖は心中で毒づくが、おくびにも出さない。
「大変失礼した。よもや魄樹の森の中にこのような人里があろうとは、夢にも思いませんでしたので」
我玖は慇懃無礼に頭を垂れると、対峙する者を引き込む魔性の瞳を見つめ返す。
「なぜこの里は森の中にあって魄樹に襲われず存在しているのですか?」
茜は艶やかな所作で口元を袖で隠し、不敵に笑うだけだった。何も言わずとも、まずは来訪の目的を告げよ、と催促している。
互いに決定的な情報を隠しては話が進まないと我玖は腹をくくった。
「打ち捨てられたはずの研究施設の端末で不正なデータが読み込まれたことが探知された。知っただけで反逆罪に該当する情報だ」
「本当にこの里にある施設ですか? ここは、見ての通り社会と隔絶されています。大昔の機械など扱える者はおりません」
我玖の憮然とした気配を察したのか、茜はふっと息をもらした。気配を察したことを、あえて知らせるように。
「昨日の昼間のことだ。何か心当たりはおありでないか」
「さて、どうでしょうか」
「さっき会った里の人間に、最近転がり込んできた男がいると聞いたが」
「確かに客人がありましたが。そちらが大勢引き連れていらっしゃった混乱のせいで、どこかへ姿を消してしまいましたね」
茜は肩をすくめた。白い衣が揺れ、煌めく。
「ところで、貴方達がいらしたのは正式な任務なのですか? よもや個人の興味ではないでしょうね」
一瞬で透き通ったガラスの刃となった視線を受け止め、我玖は無言で睨み返す。脳内では、なぜそのような疑いを持ったのかを、これまでのやり取りや自らの挙動から探る。
ナノセカンドと呼ばれる、選ばれた者だけに発現する高速思考。それを1秒にもわたり全力で回転させるが、答えは見つからない。
「なるほど。巫女、という訳か」
我玖のつぶやきに、茜は怪訝な顔をした。そこには僅かながらも本心が垣間見えていた。
糸口をつかんだとばかりに言葉を並べ立てる。
「かつて物質の微視的挙動を観測し、世界の巨視的未来を見抜く者がいたという。それは巫女と呼ばれた」
「だとしたら?」
「別に。この里の処遇は変わらない」
我玖は、ことさら冷淡に告げる。
「ドームの法では、無断での食糧の栽培、無許可での建築物所有は禁じられている。違反者は捕縛し、土地および建物は接収だ」
「それは、そちらの法ですね。私たちに従う謂われはありません。ドームに施しを受けたことも、与えたこともない。無関係なのですから。それに」
茜は小首を傾げると笑顔をつくった。
「シュクラさんも本気で言っていないですし。貴方は変わった人ですね」
袖で口元を隠した茜は、本当に可笑しそうでもあったし、どこか諦めているようでもあった。
我玖はため息を漏らした。告げるべき言葉を失ったように長い吐息だった。
「元来、法なんてのは方便だからな。この里は魄樹と共生している。森の中にも関わらず酸素植物が存在している。これは、ドームの支配を大きく揺るがしかねない。ゆえに」
「全員捕まえて監禁する、と。従わなければ処刑、ですか」
「そうだ。従えば命は助けよう」
「どうやら、選択の余地はないようですね。ですが、取引の余地はあるようです」
「なに?」
「貴方の目的を聞いていませんでしたね」
「不正アクセスの」
「組織の目的ではありません」
茜は白い腕をすっと持ち上げて、我玖の言葉をて遮った。別次元を見通す瞳が、無限遠に焦点を結んでいる。
「貴方の目的を訪ねています」
我玖は黙して答えない。
茜はゆっくりと目を細めると言葉を続けた。
「森の秘密を探っているのでしょう? 魄樹の森がどのようにして形成されたのか、遠い過去に埋もれた真実を」
「なぜ、そう思う」
我玖の口調がわずかに淀む。
「最近、似た人に会ったので」
茜はすまし顔で答える。凍り付いた巫女の顔は、どのようにして我玖の秘めた目的を見破ったのか。
「貴方の求める知識は持ち合わせていませんが、私の体を研究材料として提供しましょう」
「訳が分からない」
「私は、この灯里の里の巫女。魄樹と対話することができます」
魄樹と人類、すなわちオゾン生命と酸素生命は身体構造は元より代謝機構まで全くの別物。対話など不可能だと考えられている。
「この里に貴方の部隊が近づいていることを知らせてくれたのは魄樹たちです。彼らが貴方達を足止めしている間、私たちは弓を取り、女と子ども達を避難させました。そういった準備ができるほど早く、そちらの動向を掴んでいたのです。そんな芸当が、只の人間にできると思いますか」
茜はすまし顔で証拠を並べ立てる。
我玖が全幅の信頼を寄せ、これまでも数々の戦果を上げてきた先鋭が揃う部隊。それが誰一人として斥候の気配に気づかないなど、あり得ない。にも関わらず、この里は正確に迎撃に出てきた。加えて、隊員たちが感じとっていた、進軍を拒むかのような魄樹の襲撃。
導かれる答えは、巫女の言葉に偽りはなく、魄樹と意志の疎通を行っているという事実だった。
我玖は滑らかに動く口元を息を止めて凝視した。
「なにが望みだ」
「負傷者の手当と、里の者達の自由を保証すること」
我玖は顎に手をやりながら腕を組んだ。要求を無視して強制連行すれば、彼女は恐らく自害するだろう。凜と立つ女性の態度には、自らの命を捨ても里を守るという決意がある。
「俺が口だけで約束を守らないとは思わないのか」
「私は里の者の安否も分かります」
我玖は極僅かな変化を見逃さなかった。茜の口の端はコンマ1秒に満たない時間であったが、小さく震えていた。
後ろめたさのある言葉を口にするとき、人は瞳か口に動きが現れる。視線を逸らすか、言い淀むか。どちらかを制御することはできても、両方を抑えることは高度な訓練を必要とする。人間は意識を分散することができないからだ。
ゆえに、我玖は彼女の言葉は嘘であると見抜いた。相手の表情は、我玖が見抜いたことをも悟っていると告げていたが。
茜はいたずらな瞳で微笑んでいる。虚言を見破られたことを感知してもなお、余裕の色。今の嘘は、組織に上告する言い訳として使えということだろう。我玖が裏切らないと踏む、別の理由を感じ取っているのか。
「それに、シュクラさんは人を殺したくないのでしょう?」
その言葉に我玖は絶句し、戦慄に唇を震わせる。
我玖の右手は、一瞬で細い首を掴んでいた。軽く力を込めるだけでねじ切れそうな華奢な喉。我玖の体から、凶暴な気配が発散される。
茜は無抵抗のまま顔を蒼くしていく。酸素を求める喉が我久の手の中で淫らに蠢く。両手をだらりと下げ、それでも強い意志で見つめ返す女を、我玖は妬むように睨みつけた。
「俺は、人を救うために人を殺している。ここに来るまでも、どれだけの命を奪ったことか。それでも、より多くの人々の命を救うために、俺は手を鮮血で染めてきた。だがお前は、ただ人を救うだけでいいというわけだ」
全く羨ましい限りだ、と凍えた声でささやき、手を外した。茜は体を折って咳込みながらも、交渉成立ね、と笑みを浮かべてみせた。
「一つの願いに固執すると、他に何も見えなくなってしまいますよ。その末路は、己に失望するか、世界に絶望するか」
「巫女の託宣か? 貴重なお言葉をどうも」
茜の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。荒々しく戸を開け放ち、外に連れ出す。
足音を立てて歩く我玖の前に、部下が飛んできた。不測の事態があったと慌ただしい様子が告げている。
「何があった」
「2名の逃亡者を発見し、捕獲しようとしたのですが」
「取り逃がしたのか」
「はい。若い男女2人組で」
申し訳ありませんと、部下は深く頭を垂れる。
我玖は、腕を捕まれなすがままである茜の表情を伺う。そこには何も浮かんでいない。何もなさ過ぎる。
「男は6丁の拳銃を腰に差しており、とにかく銃弾をばらまきながら森に逃げ込みました。そして、追跡した我々だけが樹に攻撃を受け、逃亡者の痕跡まで消されました」
我玖は茜に鋭い視線を向ける。
「心当たりがあるな?」
「若い男は、何日か前に森に迷い込んでいた所を保護された子でしょう。もしかしたら、里の人間を人質にとって逃げたのかもしれません」
「その男に古い端末を使わせたな? そいつは【王】に関する情報が詰まったメモリを持っていた。そうだろう」
茜の表情に一瞬だけ恐怖が現れ、すぐに無表情に戻る。2人が捕縛されることを恐れたか、あるいは【王】の言葉に反応したのか。
我玖は目を細めた。
「そいつらを追え。住民の移送は人手を減らして構わん。何としてでも捕獲しろ」
短く了解の意を示して走り去っていく部下の背後で、我玖は顔を綻ばせた。
「ついに見つけたぞ。必ず手に入れる」
外に出ると、長い夜が明けるところだった。緑の森の上に昇りはじめた朝日が我玖の顔を照らす。そこに浮かぶのは、狂気とまごうほどの驚喜。
無慈悲な陽光に闇が払われていく。里のあちこちで、荼毘人の名に相応しい大量の煙が上がっていた。放たれた炎が、弱々しい日の光と競うように勢いを増していく。
木が爆ぜる音の渦の中で、我玖は緑の外に広がる白い森、魄樹の森の彼方を眺める。視線の先で、直線的な稜線を描く三角錐の霊峰が輝いていた。
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