I like you.

 海浜公園の広場へ戻り、そこから南の方角へ向かった。しばらく歩いていくと目の前に原っぱが広がり、その先に海が見えてきた。

 海といっても海水浴場ではなく、海岸はゴツゴツとした岩で覆われている。砂浜になっている箇所もあるけれど、どこか荒れ果てていてビーチと呼べるほど綺麗な場所ではない。海水浴よりは磯遊びの方が向いているだろう。今は雨が降っているから人の姿もまばらだ。

 僕たちは濡れた砂浜の人気のないところまで行った。海を眺めながら、何も言わずに佇む。

 見渡す限り灰色の東京湾だ。空も雲も海もくすんだ色をしている、海辺から水平線の先まで。天上から冷たい雨が降りしきり、雫が水面を叩く音が絶え間なく鳴り続ける。僕らは黒い傘の下で、自分たちの犯した罪から隠れるように身を寄せ合っている。

 なんだか物寂しい光景だなと思った。とてもじゃないがデートで見るような景色ではない。

「まるでこの世の終わりみたいだ」

 僕は無意識のうちにそう呟いていた。

「え? あ、うん。そうだね……」

 桐子はちょっと反応に困っていたが、僕は気にしなかった。一呼吸置いたあと、再び彼女が口を開いた。

「そういえば、恐怖の大王ってやって来なかったよね」

 ノストラダムスの大予言。確かに、本に書かれていたような形での人類滅亡は起こらなかった。

「来なかったね、大王さん」

「あれだけお騒がせして、結局何もしなかった」

「まるで桐子みたいだね」

「うるさい」

 桐子は僕の脇腹を小突いた。僕は傘を持っていたから、咄嗟にガードすることができなかった。

 それから僕たちは沈黙した。二人の間には雨音と波音だけが存在している。風は吹いていない。口を閉ざしていれば、この時間が永遠に続いていくような気さえした。

 だが現実にはそんなことはあり得ない。やがて桐子の方から切り出した。

「ねぇ」

「何?」

「捨てないの? スタンガン」

「ごめん。捨てるよ」

 今日ここに来た一番の目的。僕はそれを果たさなければならない。

「ちょっと傘持ってて」

「うん」

 手に持っていた傘を桐子に渡し、バッグの中からスタンガンを取り出した。傘の外側に出て波打ち際まで歩く。広大な空と海原を数秒ほど眺めてから、スタンガンへ視線を落とした。

 テレビのリモコン程度の大きさしかない黒い機械が僕の手の中にある。それを凝視していると、今までの辛い記憶が頭の中にフラッシュバックした。みどりの死、禁断症状、黒月を殺したこと、警察――。

 できればもう一度、スタンガンを光らせて心を落ち着けたい。でも電池を抜いてしまっているし、電池があったとしても雨で感電する可能性があるからできない。

 スタンガンの側面を額に当て、瞼を閉じる。

 決別するんだ。過去の自分と、これまでの痛みの全てと――。

 ありとあらゆる想いを、小さなスタンガンに封じ込めた。

 少しだけ助走をつける。水が跳ねる音。靴が波に呑まれ、中までぐっしょりだ。

 気にも留めずに思いっきり振りかぶり、広い海に向かって投げた――。

 スタンガンは勢いよく飛んでいき、放物線を描いて海面に落ちた。

 ひょっとしたら浜辺に打ち上げられ、それをきっかけに僕が逮捕される可能性もあるのかもしれない。そうなったら、もう運命だ。僕は罰を受けようと思う。一人の人間を二人で包丁で刺したら、二人とも平等に罪に問われるのだろうか。細かいことはよく知らない。でも桐子はきっと、同じ罪を背負おうとするだろう。今思えばお粗末な殺人計画だった。いつ目撃されてもおかしくはなかった。僕たちが未だに捕まっていないのは幸運の賜物だ。

 どんな未来が待っているのかは分からない。けど、一応証拠品を隠滅することはできた。

 雨に打たれながら放心する。Tシャツがじわじわと濡れていく。桐子が近づいてきて、傘の下に入れてくれた。彼女の靴も海に浸かってしまっているのに、嫌な顔一つせず。

「終わったね」

 無機質な雨音の中で、桐子の声だけが優しく響く。

「うん」

「それじゃあ、私たちも終わらせようか」

 一瞬何の話だと思ったが、僕と桐子は今日のデートをもって恋人のふりをやめることになっていたのを思い出した。

「ああ、そうだな」

「……京極桐子さんと霧島拓斗君は、今別れました」

 桐子は卒業証書を読み上げるような口調で言った。僕たちの殺人計画は、本当の意味で完了した。

「これで今日から私たちは、普通の友達だよね」

「え……」

 桐子と普通の友達になる。いつの間にか忘れてしまっていたけれど、かつての僕はそれを強く願っていた。殺人計画も利害の一致もない、純粋な関係を望んでいた。

 こんな僕と、友達になってくれるなんて――。

 雨で冷えた胸の奥がじんわりと温かくなる。桐子は僕の心情を見透かしたかのように続けた。

「難しく考えなくていいよ。今、私たちは普通の中学生で、今は普通の友達」

「……今は?」

「うん。私たちは許されないことをした。いつか捕まってしまう未来もあるのかも。でも少なくとも今は……ううん、捕まったあとだって友達でいることはできる」

 捕まったあとも? それってもしかして……。

「大人になっても、ずっと友達でいてくれるの?」

「うーん、そうねぇ……」

 桐子は頬に手を当てて唸った。それから何か思いついたのか、口元を微かに緩ませた。

「そうだ。大人になったら、私と人間を作ろうよ」

 人間を作る? そういえば夜の林を下見した日にもそんなことを言っていたし、黒月もそういう表現を使っていた。同じ意味なら子供を作るということか?

 突拍子もないことをいきなり言われ、目が点になった。

「……意味分かって言ってんの? 作り方ちゃんと知ってる?」

「ぷっ」

 桐子は噴き出した。

「そんなの、? 冗談だよ、バーカ」

 そう言って、傘を持っていない左手で腹を抱え、大笑いした。

「あはははっ!」

 啞然とした。今までにも微笑んだり小さく笑ったりすることは何度もあったけど、こんなに声を上げて笑っているのは初めて見た。いつも落ち着いた態度で接していた彼女が、顔をくしゃくしゃにして息苦しそうにしているなんて。

 その瞬間だった、と思う。

 喋る物体、あるいはキャラクターのようなものとして僕の目に映っていた桐子にも、心があるように見えた。彼女にも五感があって、世界を認識し、そこで喜怒哀楽を感じているということを、一瞬リアルに想像できた。

 僕は思い返す。

 黒月は、他人というものは心の中を知ることのできない物体だから壊してもいいと言った。相沢は、心の中を知ることができなくても、五感で感じ取った他人という存在に自分の心を動かされていると言った。

 僕以外の人間に感情があるのかどうかは確かめようもない。僕には見ることができない。それでも心を感じ取ろうとするのか、無きものとしてしまうのか、全ては僕次第だ。

 桐子。君と一緒にいれば、僕は僕の世界にことができるだろうか――。

 黙ったまま、桐子の顔を見つめる。僕はきっと桐子の笑顔が好きだから、彼女が心から笑っているんだと信じたいんだ。それが本当のことでありますように、と。

 やがて桐子は笑いやみ、瞼を拭った。

「ごめんごめん。そうだね……。いいよ、私でよければ」

「え?」

「大人になっても、友達でいてあげる」

 桐子は慈しむような眼差しを僕に向けた。その一言だけで、僕は救われたような気がした。

「……ありがとう」

「うん……。じゃあ、そろそろ帰ろっか。いつまでもこんなところにいたら、風邪引いちゃうよ」

「分かった」

 桐子が持っている折り畳み傘の、取っ手より少し上の部分を掴んだ。僕の右手と桐子の右手の肌が触れ合い、彼女は手を放した。

「んっ」

 僕の友達が、いつものように淡い笑みを浮かべている。思い出したように吹き始めた汐風が、黒い髪をなびかせる。背後に見える暗い雲の隙間から光が射し込み、誰もいない海の鏡面を微かに照らす。

 それが僕の目に映っている世界の全てだ。

 今はただ、それだけでいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人間づくり 広瀬翔之介 @Hiroseshonoske

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ