第3話

「おいおい、じゃぁ何か、隣で騒いでやがる坊主は四人も相手にしようってのかい」


 八角楼二階最奥。


 この店一番の花魁である備前千勢こと千勢太夫の部屋で、江戸で一、二を争う回船問屋湊屋の若旦那誠之助がその千勢と差し向かいでやったりとったりしながら小さく驚嘆の声をあげた。


「そうなんですよ、おすごいお坊さんでしょう」


「いや、まあすげえなんてもんじゃねぇが……。で、そっぽの方はどうなんだね」


「それが、阿弥陀様の亭主にしとくにはもったいないお顔で」


 えらく罰当たりな言い回しでそういった千勢の言葉に、誠之助は「ふうん」とそっけなく答えた。そして、その三国一とも言われる美しい顔を睨みつけると「で、俺と比べてどうだい」と口をとがらせた。


 気が向かなければ大名でさえ断れる、吉原一の権勢を誇る千勢。


 そんな千勢が、豪商とはいえ商家の若旦那風情と時を過ごすその訳は、この何ともかわいらしい所にあった。

 

「ぬしさまが、一番でありんすえ」


 言いながらその肩にしなだれかかった千勢に、誠之助はわかりやすく鼻の下を伸ばすとその肩を優しく抱いた。


「け、調子のいいことを言いやがる。てえか千勢、俺はその花魁言葉ってのが」


 言いかけた誠之助の言葉を遮るように、千勢は人差し指をたてると、その細く冷たい指先を誠之助の唇に押し当てる。


 こうされると、男は黙るしかない。


「嫌いなんですよね、そういうお方、近頃は増えているんですよ」


「ほぉ、けっこういるのかい」


「はい、隣の狸和尚さんも嫌っていると黄瀬川さんが」


 その言葉に、またしても嫉妬の種火が再燃したのか、誠之助は乱暴に千勢の指を払うとにぎやかな黄瀬川の部屋の方を睨んだ。


「にしても、ありゃちょっと騒ぎすぎだぜ。うるさくってしかたねぇ」


 苦々しげににそう吐き捨てた誠之助の言葉は、あながち嫉妬ばかりでもない。


 これが中見世や小見世の遊びであるのならまだしも、八角楼は八町に並ぶもののない大見世中の大見世。宵の口ならまだわかるが、他の部屋ではお引けになってそろそろ花魁と睦み合いが始まろうという刻限になってもこう騒がれては、さすがに店に迷惑がかかるというもの。


 こんな遊びは、少しでも遊び慣れた人間ならやらない。朱引きの外の豪農か江戸詰めの田舎侍の遊びようだ。


「ほんとに、他の女郎衆もずいぶんと迷惑をしているんですけどねぇ、ただ狸の金は八畳敷きっていいますでしょ」


 千勢の言葉に、誠之助はさらに顔をゆがめる。


「なに、金にものを言わせてるってのかい」


「ええ、そりゃぁもう、狸和尚の通った跡には黄金(こがね)の轍(わだち)ができるっていうくらいで」


 それを聞いて、誠之助は「はぁ」っと今度は心底恐れいった風情で感嘆のため息を漏らす。


「まあ確かに、そうでもなきゃ、女郎の部屋に芸者を連れ込んで乱痴気なんてことを、八角楼が許すわきゃねぇわな」


「ええ、でも何とか辞めさせたいみたいですけどね、ご内所としては」


「でも、天から降る黄金の雨には勝てねぇってことか」


「まったく、しかもあの狸、一度来たら二、三日は帰らないんですよ」


「なんでぇ、それじゃまるっきり狸穴まみあなじゃねえか」


「ほんに、獣の巣でござんすよ」


 そう言って千勢は大きくため息をついたが、誠之助は腕組みをして「むぅ」っとうなって黙り込んだ。


 それを見て、今度は待ってましたとばかりに千勢が口を開く。


「なんでございます、まさか誠之助様も狸和尚のように芸者を囲って乱痴気をしたいと思し召しですの?」


 言いながら千勢は、ぷいっと誠之助に背を向けて「別に誠之助様がそうなさりたいのでしたら構いませんけどね」と童女のごとき幼げな声色でつぶやいた。


 なんのことはない、先ほどの意趣返しというわけだ。


「馬鹿を言うな、大名でも抱けぬ女をこの手にしておきながら、他に花なぞいるものか」


「まあ、それではまるで、この千勢が面当ての道具のようではありませんか」


 誠之助のとりなしに、千勢はさらにつんけんと返して「もう知りません」とほほを膨らませた。


 しかし、言いながらも、その手は誠之助の手のひらを探し当てしっかりと握りこんでいる。こういう芸当ができるからこそ、千勢は吉原での権勢を誇るに至ったのだが、そうと分かっていても、これほど可愛らしいことはない。


 当然、誠之助はその手を握り返して、その身体を乱暴に引き寄せた。


「馬鹿を言うんじゃないよ、狸坊主の相手が狸穴の阿弥陀様なら、俺の相手は八角楼の観音様」


「へぇ、でも阿弥陀様と観音様。どちらがえらいんです」


「知らねぇよ、そんなこた」


 言いながら誠之助はもう一方の手で行燈(あんどん)を引き寄せ、器用にふっと灯りを消した。


「知らねぇが、観音様の方がいい女に違いねぇ」


 そう言うと誠之助は、畳の上にゆっくりと千勢の身体を引き倒す。


「馬鹿おっしゃい、阿弥陀様も観音様も男じゃないか」


「へぇそうかい、じゃぁこれから……」


 そう言うと誠之助は、着物の合わせからその手を千勢の胸の間に滑り込ませ、やわやわと撫でさすりながら耳元でつぶやいた。


「八角楼の観音様が男か女か、じっくり調べるとしようかね」


 その声を合図に、正絹の涼やかな衣擦れの音と千勢の切ない吐息が、暗い部屋を満たす。


 刻限は、草木も眠り屋の棟も三寸下がろうかという丑三つ時。


 八角楼は先ほどまでの賑わいの熱を澱ませながら、沈黙の底に沈む。


 そして、ほどなく黄瀬川の部屋も静まり返り、狸穴の狸どもも寝静まったようだった。

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