虎穴

綿涙粉緒

第1話 

「おおこれはこれは、坊宗ぼうしゅう和尚ではありませんか」


 昼日中の吉原、ふらりと立ち寄った四十がらみの僧形そうぎょうの男にそう声をかけたのは八角楼の名物牛太郎、顔中を白色に染め上げる白粉おしろいの秋介だ。


 ちなみに牛太郎とは、吉原における下働きの総称である。


「おお、白いのか。で、今日は開いてるかね」


「ええ、まぁ、黄瀬川花魁ならその……」


 そう答えて、秋介は申し訳なさそうに頭を掻いた。


 これが普通の花魁であれば、昼間から客なんぞとりたくない。もしくは、昼見世の女郎と一緒にされたくない。ということか、あるいは居残りの間夫まぶにかかりっきりでご遠慮願いたいというところであるが。


 黄瀬川の場合は少し、違う。


「その……寝ておりまして」


「よい、それで」


 坊宗と呼ばれた僧は、秋介の答えにニタリと微笑み、禿げた頭をぴしゃりと叩いた。


 若いころはきっと美形だったろうと思われる、彫りの深い、それでいて涼やかな役者のごとき顔に浮かぶいたずらな笑み。


 剃り上げたのではなく禿げ上がったことが明白な、うっすらごま塩を振った様なわびしい頭を差し引いても、これでは黄瀬川でなくても道をたがえるだろうと思うような、いい男だ。


 それだけに、秋介としても「坊宗和尚がそれだから黄瀬川さんはなんですがねぇ」と小声で悪態もつきたくなる。ただ、とはいえ客は客、それでも恭しく頭を下げると「上がっていかれますか?」と丁寧に尋ねた。


「すまんな、わしの性分なのじゃ」


 坊宗はそう言って手を合わせ、秋介を拝むように頭を下げた。


「今日も上げてもらおうかのぉ」


 さて、この欲深き色坊主。


 三月みつき前ほどにフラッとやってきた僧で、名を坊宗という。その際、くだんの黄瀬川にぞっこん惚れこんで、あくる日にさっそく裏を返したという、坊主にあるまじき、いかにも遊び慣れた男。


 それからというもの、よほど暇な寺なのか三日とあけずにやってきて、黄瀬川を見立てるとそのまま二、三日はかえらない。


 一般に廓では、来たその日に帰らないやさらにそのまま泊まり続けるというのはひたすら困った客でしかない。ただ、坊宗の場合、その間、昼夜通しでどんちゃんと大名遊びを繰り広げ、惜しげもなく黄金の粒をこれでもかとばらまくものだから、店としても邪険には出来ないという、なんとも厄介な御仁なのである。


 しかも、いまでは黄瀬川の方がこの坊主にぞっこん惚れこんでいるのだから、さらにたちが悪い。


 まるで本式の妻のごとくふるまい、今では坊宗以外の客はとらないという横暴ぶりで、周りの花魁にしめしがつかない。


 とはいえ、やはりそこはそれ、金のなる木は枯らすわけにはいかず。


「やめてくだせぇ、あっしはまだ生きてますんで。それに、八角楼一同、坊宗和尚には足を向けて眠れません」


 ということになっているのだ。


「いやいや、そんなことはない」


「ご謙遜を。さて、では、さっそく」


 深くお辞儀をしたまま秋介はそう言うと、お店の中に向かって「黄瀬川さん、黄瀬川さんえぇ!」と大声で叫ぶ。と、中から「はいなぁ」と遣り手と呼ばれる女中働きの女の声が返えり、同時にバタバタと人の走る音が聞こえて数人の牛太郎が姿を現した。


 普通ならここで、景気よく「おあがりになるよぉ!」と声がかかる。が、坊宗の場合はかからない。


 というのも、坊宗は必ず袈裟姿でやってくる。これではさすがに賑々しく御登楼というわけにはいかないのだ。と、なれば、店としては出来れば裏口から迎えたいぐらいなのだが、さすがにそれはこの八角楼でも指折り数えられるほどの上客に申し訳が立たない。


 つまり、金払いはよいが、厄介な客であるためにこのような半端なことになっているのだ。が、もちろん坊宗は気にしない。


「では、おせわになりますよ」


 そう言うと坊宗は、店の入り口をくぐり、いそいそと大階段を上ってゆく。


「たく、お盛んな坊さんだ」


 坊宗の背中を見送りながら秋介はそう言うと小さくため息をつく。


「さて、今度のお帰りはいつになることやら」


 秋介は店の外から黄瀬川の部屋あたりを見つめると「早いお帰りを願っちゃ、いけねぇんだろうけどな」と小さくため息をついた。

 


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