18●『劇場版 M限列車編』(5)キスカの奇蹟。残虐の時代。惨めでも生きること。

18●『劇場版 M限列車編』(5)キスカの奇蹟。残虐の時代。惨めでも生きること。




       *


 国産戦争映画の傑作、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』(1965)。

 アリューシャン列島、北の孤島キスカ。

 昭和18年初夏、戦艦を擁する強力な米艦隊に包囲され、孤立したまま全滅を待つ守備隊将兵五千名。

 彼らを救出する日本艦隊は、軽巡と駆逐艦その他の弱小艦隊、しかも燃料不足。

 米軍と戦ったら絶対に敗ける。

 だからチャンスは、島が濃霧に閉ざされる数日間のみ。

 しかし霧が晴れかかり、一度、艦隊は引き返します。

 使命感に燃えて断固突入を主張する部下たちを、司令官は諫めます。

「還れば、また来ることができる」と。


 戦いは、生きて還ってナンボです。

 生きて還れば、また戦うこともできよう

 そういう意味でしょう。


 臥薪嘗胆のあげく、ついにキスカ島の湾内に錨を打ち込み、五千名もの兵士の収容作業にかかる救出艦隊。

 そこで、兵士たちは命じられて、重くかさばる銃器を一斉に海に投棄します。

 身軽になって、救出艦に乗せてもらうのです。


 これ、映画を観たときは、演出上の創作だと思いました。戦後のヒューマニズムの表現を象徴的に付け足したのだと、永らくそう考えていました。映画では史実と異なる脚色が随所にあり、そのため司令官の名前などが書き変えられていましたから。

 

 というのは、当時の兵士たちの武器類は陛下から預かった尊い品であり、自分の命よりも大切にせよと叩き込まれていたからです。自発的に捨てることは、整然と撤退してゆくこの状況下では、ありえないでしょう。

  “キグチコヘイ(木口小平) ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、

  シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。”

 ……と、実在の喇叭らっぱ手の戦死を讃える美談を、小学校低学年の教科書で教えていた時代です。


 しかしどうも、文献によると史実だったようです。


 作戦に参加した水雷戦隊旗艦の軽巡〈阿武隈〉の主計長をされていた著者による『キスカ 日本海軍の栄光』(市川浩之助 著 1983 コンパニオン出版)の210頁に明記されています。


 たいした決断です。

 死んでも手放してはならない銃器を、それでもあえて捨てさせる。

 この救出艦隊を指揮した実在の司令官、木村昌福提督は大変ユニークな正義感の人だったと伝えられていますので、本当にそのように命じていたかもしれませんね。


 ともあれ、映画の兵士たちは武器を海中へ捨てます。


 この場面で私が感動しますのは……


 “人の命を救うとは、こういうことだ” と端的に示されたことにあります。


 命を救われることと引き換えに、何を捨てさせるべきなのか。


 かなり見事な回答が、このワンカットの場面に凝縮されているように思えます。


 と言いますのは……


 陛下の武器を捨てて生き延びるこの場面は、

 先の章で述べた“美しい死”の真逆の光景となるからです。


 “美しい死”に対する、“無様な生”。


 しかし、生きることの価値が、そこにキラリと光っています。


 兵士が捨てた銃器は、かれらの使命であり誇りであり、そして束縛でもあったのでは……ないでしょうか。



       *


 で、『劇場版 M限列車編』で惜しいと思うのは、R獄さんの父上の扱いです。

 事情は知りませんが、K殺隊の鬼退治のやり方に対して、R獄さんの母上とは反対の立場で、相当な懐疑心を抱いているようです。ですから……

 “柱”に昇格して喜ぶ息子に、どうせたいしたものにはなれないと諦観するだけで終わるのでなく……

 “死ぬな。何もかも捨てていいから、とにかく生きて還るんだ。絶対だぞ”

 と言ってやって欲しかったなあ……

 そうすれば、結末が同じでも、その意味合いが変わっていたかもしれませんね。


       *


 さて話題は変わりますが……


 『K滅のY刃』、超大ヒットしております。

 なぜ、どうして? と、つらつら思いますが……


 やはり大きな謎は、鬼にされた人たちがK殺隊に斬首され、生首スパーッ、血しぶきドバーッの漫画が、小学生男女にも楽しまれていること。


 なんだか少々、ゾッとしなくもありません。


 どうしてかな?

 過去のヒット作品に、そのヒントがあるかもしれません。たとえば……


 『Sラームーン』(1992-)と『Pキュア』(2004-)。


 じつはどちらも、物語構造は『K滅のY刃』に通じるものがあります。


 『Sラームーン』と『Pキュア』のいずれも……

 魔王のような悪玉が現れて、善良な市民や主人公の友人たちを悪の魔法で汚染し、欲望のまま操って悪事を働かせます。

 主人公ほか正義のヒロインたちは、普段はごく普通の中学生の女の子ですが、悪玉の侵略に直面して、魔法力で変身、超人的な能力を備えたスーパーヒロインとなって、さまざまな技を繰り出して戦い、悪玉を退治するか追放して、悪に汚染された人々を元に戻し、社会に平和を取り戻します。


 『Sラームーン』(1992-)と『Pキュア』(2004-)のひとつの相違点は……

 憧れの男性ヒーロー、“玉の輿プリンス”が登場するか否かですね。

 『Sラームーン』が大ヒットした最初の十年は、バブル景気の残り火で温まる時代でした。まだ、バブリーな気分だけは残っていたのです。

 物語のキーになったのは、男性キャラ。あのタキシード姿の仮面男がスーパーヒロインの危機を救い、いわば“白馬の王子様”の役柄を果たしました。

 当時はまだ、1960年代の『リボンの騎士』以来の男性優位の気風が残っており、バブル経済で大儲けして富と権力を手にした者の多くは男性でした。女性が成り上がる手段としては、良くも悪くも“玉の輿”が一番ポピュラーだったのですね。

 そんな社会風潮に鋭い一石を投じて“女の仁義”を貫いたのが『少女革命ウテナ』(1997)でした。あれ、20世紀でピカイチのTVアニメだと思いますよ。


 さてしかし……

 バブル経済は崩壊したまま復活せず、成功した男たちの多くは没落します。

 労働者を正規と非正規に分ける理不尽な政策で、所得格差がどんどん開きます。

 自分一人で家族を養えない男性が増えてきました。

 世の男性優位イメージはすっかり幻滅され、そこで男のヒーローに頼るのはやめて、ヒロインだけで勝負することにしたのが『Pキュア』(2004-)ですね。

 まあ、私の勝手な解釈ですが。


 そして『Pキュア』(2004-)の大ヒットが十年余り続いたところで登場したのが『K滅のY刃』(漫画は2016-)でした。


 『K滅のY刃』の物語構造は、『Sラームーン』と『Pキュア』に、実はよく似ています。

 悪の鬼たちが魔法的な術を使って一般市民に襲い掛かり、犠牲者を鬼に変えて操り、善良な人々を文字通り食い物にします。このあたりの展開は、三作とも基本的に、ほぼ同じと言っていいでしょう。

 しかし『K滅のY刃』が『Sラームーン』や『Pキュア』と異なるのは、悪玉の手口がとりわけおぞましく残酷に表現されていること。

 そして最も大きく異なるのは……

 『Sラームーン』や『Pキュア』では、ヒロインが悪を滅ぼして邪悪な魔法を解くことで、悪に染まっていた市民たちは元に戻り、街は何事もなかったかのように平和を回復するのですが、『K滅のY刃』では、そうならないことです。

 本来、罪なき被害者である一般市民も、鬼に変えられた以上、正義のK殺隊によって斬首され、あるいは陽光を浴びて滅ぶしかありません。いったん悪に染まった者はリセット不可、死への片道直行特急切符しかなく、救われることがないのです。

 NZ子のような、ごくわずかな例外を除いて……


 これをつまり、単純にとらえれば……


 『Sラームーン』や『Pキュア』の悪事解決法を、ホラーの視点で強烈に残虐化したのが、『K滅のY刃』になるのです。


 なお『Sラームーン』や『Pキュア』では、ヒロインの数が最初は二名から数名へ、そして十数名……と増えてゆき、それぞれが長所を生かして短所を補い合うチームプレイを特色とします。

 『K滅のY刃』では、K殺隊が正義の鬼退治組織として活動しますが、R獄さんを死なせたように、計画的な作戦力に乏しく、“柱”同士のチームプレイすら、からきし機能していないようです。“柱”が束になって、『Sラースターズ』のように互いに思いやり助け合い、チームで戦えば総合力は飛躍的に向上するでしょうが、それができそうもない連中ばかり……

 で、チームプレイの強さを発揮するのが、T治郎、イノシシ君、茶髪君、NZ子のカルテット。ここにゲストキャラを一名加えた五人組クインテットで、絶妙の連携を見せ、先輩の“柱”といい勝負をして鬼退治に貢献する……というパターンとなるのでしょう。


 『K滅のY刃』の物語構造は『Sラームーン』や『Pキュア』と似ている。

 『Sラームーン』&『Pキュア』を残虐化したのが『K滅のY刃』ではないか?


 にしても、なぜ、どうして、こんなに残虐化(斬首の日常化)したのでしょうか。


 こうも思います。


 残虐化したのは、私たちの実社会ではないか、と。


 ここ十年ばかり、富裕層を優遇する〇〇ノミクスとコロナ禍の洗礼で、貧富の格差は猛烈に開きました。これ、心理的にも本当に猛烈に開いたと実感します。

 (具体例として、I苗代湖のクルーザー轢き逃げ死傷事件の容疑者の社会的地位と、報道されているその態度に、如実に表れていると思います)


 政治的要因で増大した社会的弱者への救済策を問われて、某政権は「自助・共助・公助」と繰り返しました。その順番がねえ……

 コロナ禍の病床不足で自宅に事実上置き去りにされたのも、実態的には社会的弱者の方々が多かったと思われます。(強かったら自力で裏口入院するでしょ?)


 大人の社会は弱者を無視し、あっさりと見捨てるようになった。


 その傾向はますます強まって来たのではないか……と思います。

 鬼に喰われる人々、鬼になって斬首される人々のイメージは、今の私たちの社会の特質をダイレクトにあらわしているのかもしれませんね。


 事実、コロナ禍ひとつとっても、弱い立場の人々は、新型コロナを口実に容赦なくスッパスッパとクビを切られ、職を失ったではありませんか?


 さらに加えて「これからの従業員は45歳で定年(=馘?)だ」と、60歳を過ぎた社長がおっしゃり、永田町では80歳前後のおじい様たちがバリバリの現役……


 『K滅のY刃』は私たちの社会、そのダークな影の実体をしっかりと映している。

 そこに、ヒットの一要因があるようにも思えます。


 それだけに、コミック版の結末はどうも……

 あれで、みんなが幸せになって、それでいいのかという気分もいたします。


 『K滅のY刃』に表現された残虐性の半分は、正義の組織であるK殺隊が作り出してきたのですから……。



       *


 現代社会の残虐性を映し出す鏡でもある、『K滅のY刃』。

 『劇場版 M限列車編』には、その哀しさとやるせなさを象徴するセリフが残されています。

 イノシシ君の、ラスト近くのセリフ。


「どんなに惨めでも恥ずかしくても、生きてかなきゃならねえんだよ!」


 これはかなり、現代の私たちの真実を衝いていると思います。

 今の社会、他人をいわれなく侮辱し傷つけ、辱める行為が蔓延しています。

 強者が弱者をいじめるだけでなく、弱者同士の蔑み合いも相当なもの。

 21世紀って、こんなに非道い時代なのかと、ゲンナリさせられます。

 ささやかな幸せを守って、ひっそりと生きていくだけでも、大変なのです。

 明らかに、20世紀末あたりと比べて、社会の雰囲気は格段に悪くなっている。

 しかしそれでも、何とかしてやっていくしかない。

 『劇場版 M限列車編』は、その覚悟を私たちに迫っているようにも見えます。


 これからコロナ禍が去って、少しは良くなるのだろうか?


 あまり期待せずに、十分に周りに注意し警戒して、そろそろと人生を進めていくしかなさそうです、ね。






【追補】

 こんな記事がありました。


『鬼滅の刃』読了のJM党新総裁、「猗窩座あかざ」推し判明にネット反響「日本を任せられる」「好感度めちゃ上がりました」

       ……2021 9/30(木) 14:28配信 中日スポーツ


 どうだかなあ……

 『鬼滅の刃』全巻読破って、一国のソーリとして自慢になさるのはどうなのやら。

 (チャーチルの回顧録やリデル・ハートの戦略論の方がリスペクトするけど)

 それに“「猗窩座あかざ」推し”の理由って、知りたいものです。

 

 T治郎に「卑怯者!」と後ろ指刺されて、「おメーから逃げてるんじゃない、太陽から逃げてるんだ」と、思えばどうでもいい遠吠えの言い訳をしてましたね。

 あれのどこがいいのだろう?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『K滅のY刃』は私たちを斬首する? 秋山完 @akiyamakan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ