後編

 悪魔のように蠢くジャドマーギが捕食していたのは人間の指先だった。


 それだけではない。通路側から死角になった幹の反対側には、至る所を捕虫器に噛まれた青年の姿があった。喉元を大きく食いちぎられており、ジャドマーギの花弁からは肉片と血が滴り落ちていた。


 石塚は本部に救援を要請しようとした。しかし、どんなに早くともここまで1時間半はかかるという。


「いいか、とにかくあの木にはもう近づくな」


 コオロギを捕食し終えた途端、ジャドマーギは徹たちに襲いかかって来た。太い枝を鞭のようにしならせ、彼らの体を花弁型の捕食器で食いちぎろうとしたのだ。そのような現場を目の当たりにしてしまえば、どんなに疑り深い人間でもジャドマーギの異常性を認めざるを得ない。


「……俺、父さんを探しに行きます」


 ジャドマーギに近づくなと言われた矢先だったが、それでも徹は父親の安否を確かめておきたかった。


「ああ? 駄目だ駄目だ! ここでおとなしくしていろ!」

「石塚さん、彼の言うことも一理あります。他に人がいるなら安否を確認しないと」


 自分たちだけ逃げ出すことはできないと彼女は言う。


「……仕方がねえか。でもいいか、あの木には近づくな。それからお前はガキの面倒を見ろ」

「石塚さんは?」

「二手に分かれた方が早いだろうが」


 研究所内は入口から左右に分かれて各実験室が設けられていた。


 徹と菅原は右を、石塚は単独で左側の通路を調べていく。


 実験室の扉は引き戸になっており、建て付けが悪いのか少々力を強めに入れないと開かなかった。室内にはいくつかの長机にガラス製の実験器具が並んでおり、また簡易的な水栓と水受けも設置されている。


 部屋の中に人の姿はなかったが、念のために机の影も覗き込んで確認すると、徹たちは隣の部屋を調べにいく。


 次の部屋も作りとしては似ていたが、並んでる器具の種類が異なっていた。こちらには部屋に備え付けられている大型の装置もあり、より詳細な観察が必要になる実験に使われていたらしい。


「これは……」


 巨大な顕微鏡にセットされていたシャーレを覗き込むと、ガラスの中には赤い花弁のようなものが乗っていた。花弁と呼ぶには肉厚であり、徹はその正体がジャドマーギの捕食器の一部であることに気がつく。


「ジャドマーギの実験記録があります。あいつの弱点がわかるかも」

「それより人命が優先だよ。早く見つけよう」


 菅原の言うことももっともだ。


 徹は顕微鏡横に置かれていたレポートを掴むと、それを自分のバッグに仕舞おうとした……まさにその瞬間だった。ガタンッ、と何か重たいものが倒れるような音がして、徹は大きく肩を跳ね上げた。その異音はどうやら「用具室」と書かれた隣の部屋から聞こえて来たものらしい。


 徹は菅原と顔を見合わせると、息を殺しながら扉に近づいていく。


 丸いノブのついたドアの中心には細長い覗き窓が設けられていた。徹はそこからゆっくりと中を覗き込む。


 まず見えたのは銀色の棚、そして赤黒い床だった。床一面を染めた赤は所々に白をちりばめながら壁にまでその色を移しており……そこまで見て気がつく。それは塗料の色ではない。


 血だ。


 床一面に広がった血の池が、白いタイルを真っ赤に染め上げていた。


 恐怖で顔を引きつらせる徹を押し除けて、菅原が室内に入る。


 そこで徹が目の当たりにしたのは、棚影の床を突き破るようにして生えていた不気味な一本の樹木と、そのツルに全身を巻き取られ、喉元を食い破られた白衣の男の姿だった。


「これは、ジャドマーギ!?」


 菅原はジャケットの内に潜ませていた拳銃を抜き放つと、その照準を得体の知れない黒い樹皮の植物へと向けた。


「何本もあるの!?」

「ジャドマーギの苗は一つだけだって聞いてます。あれはきっと複樹ふくじゅです」

「複樹?」

「ジャドマーギは根の先に新しい幹を作る性質があるんです。本体から枝分かれした別の幹なんですよ」


 複樹は本体の幹よりもはるかに背の低い幹にしか育たないことが特徴だった。あくまでも日当たりの良い場所や餌となる虫の多い場所まで「自らの手を伸ばす」手段というわけだ。


 複樹の樹皮は本体同様に鉛色をしており、その一枚一枚が冷たい光沢を放ちながら、ときおり動物の体表のように脈動している。また、枝先には幅広の暗い色調の葉と、それらとは対照的に赤々とした花弁––––捕虫器––––が咲いていた。


 複樹の枝が鞭のようにしなって男の脇腹に食い込んだ。正確には、枝先についている捕虫器で肉に噛み付いたのだ。そしてジュルジュルというすする音とともに、男の表情は見る見る内に干からびて、やがてミイラのようになってしまった。


 異様な光景に徹は肩唾を飲み込んだ。そして同時に考える。もしもこんなものが研究所の至るところに生えて来ているのだとしたら、彼らの安否は絶望的かもしれない。


 この地獄のような空間から早く離れようとドアを通ったその時、廊下のはるか先からガラスの割れる音と石塚の悲鳴が聞こえて来た。その声に真っ先に飛び出したのは菅原だった。徹は彼女が素早く床を蹴ったのを茫然と見つめた後、ハッと我に返って後を追う。


 白い廊下の先にいたのは石塚だった。しかし彼の首には黒い縄のようなものが巻きついており、彼のけしてひ弱ではない体を力づくで窓の外に引きずり出そうとしていた。


 それはジャドマーギの複樹のツルだった。中庭に生えていたジャドマーギの複樹が、今にも石川を食い殺そうとしている。


 耳をつんざく炸裂音がする。それは菅原が放った銃声だった。弾丸は窓の外の複樹に当たったが、金属のような樹皮が剥がれただけで致命的なダメージに至っていない。彼女はそのことをいち早く理解すると、今度はツルに飛びついて石川の首からそれを取り外そうとした。後から駆けつけた徹もそれを手伝い、二人がかりでなんとかツルを引き剥がす。


「なっ、なんなんだあいつは!?」


 大慌てで逃げ出した後、石塚は赤く腫れ上がった首元をさすりながら言った。


 彼の話によると、徹たちが見たような死体が他の部屋にも転がっていたらしい。


「そ、その人、四角いメガネをかけていませんでしたか?」

「いや、そういう歳じゃなかった。もっと若い奴だ」


 石塚の話を聞いて徹は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「奴を倒す手段はねーのか」


 言われて思い出す。徹は背負っていたバッグの中からレポートの紙の束を取り出すと、ザッと斜め読みした。それによると、ジャドマーギは環境に応じてその形態を大きく変える樹木らしく、天敵の少ない環境においてはより大きく育ち、それに応じてよりたくさんの養分を必要とするようになるらしかった。


「そんなことがありえるの?」


 という菅原の疑問に対し、徹は大きく首を縦に振った。


「ニューベキアっていう植物があるんです」


 ニューベキアは生育温度で葉の形を極端に変化させる植物だ。主として北米に生息しており、川や湖に水没すると葉の形状が針のように鋭く変化する。この変化によってニューベキアは水流から身を守ることができた。


「植物が環境の変化に適応して自分の姿を変える。これを“表現の可塑性ひょうげんのかそせい”っていうんです。もしもジャドマーギがニューベキアと同じなら……」

「じゃあなんだ。日本に持って来たのが悪かったって、そういうことか?」


 徹は菅原が植物園で言っていたことを思い出す。勝手に連れ去って来て神様気取りで研究をする人間たち……もしもそのためにジャドマーギがこのような形態に変化したと言うのならば、それは人間への罰なのかもしれない。


「ちくしょう、あの化物の本体が見えるぜ」


 石塚の言う通り、中庭の向こうにある植物園の天井付近のアクリル板が砕け散っており、そこからジャドマーギの生い茂った枝木が見えていた。


「……ねえ、ちょっと待って。あれを!」


 菅原が何かに気づき、窓から乗り出すようにしてジャドマーギの枝を指さした。ジャドマーギの葉の中に袖の千切れた一枚の白衣と一人の男の姿が見えた。彼は枝に脇腹を串刺しにされているらしく、さながら昆虫見本の蝶のように空中に留められていた。


「父さんだ……!」


 植物園までは直線距離で20mも離れていない。見間違えるはずがなかった。何てことだ。誠一は最初から植物園にいたのだ。あの黒々と生い茂った葉が邪魔で、下からはわからなかった。


「生きてるのか!?」

「わかりませんけど、助けに行かないと!」

「待って、今行っても助けられないわ」

「ひとつ可能性はありますよ」


 レポートにはまだ続きがある。ジャドマーギには各種除草成分を用いた実験が行われていたが、特に塩素酸塩系薬剤での効果が強く確認されていた。これを浴びせればジャドマーギを枯らせるかもしれない。


 薬剤の保管庫は植物園とは廊下の反対側にある。徹は分厚い金属の扉を開けると、室内の棚にズラリと並んだ瓶の中から、レポートに書かれていた除草剤を探し出し、横に並んで置かれていたバッテリー式の噴霧器のタンクに注ぎ込む。


 先ほどの複樹と交戦したことが原因なのだろうか、温室に入るとジャドマーギの幹はまるで動物のように全身を揺り動かしており、地面の至る場所から飛び出した根やツルが空を覆うように飛び交っていた。


 徹は映画のような光景にゴクリと唾を飲み込んだが、拳を握って自らを鼓舞する。そしてジャドマーギ本体に近づき、その幹目掛けて噴霧器の引き金を引いた。


 だが、ジャドマーギは弱まらなかった。


 樹皮は灰色に変色したが、それだけだ。


 ジャドマーギは枯れることなく、その勢いは止まることを知らない。


 無茶苦茶に振り回されたツルが温室のアクリル板を粉砕した。


 徹は巨大な氷柱と化して降り注ぐアクリル板の破片から逃げ惑い、地面に倒れ込んだ。


 樹皮が分厚すぎた。


 薬剤が内部まで浸透していないのだろう。


 これ以上は何もできないのだろうか。


 無力な自分への自責の念に囚われてしまう。


 と、その刹那の出来事だった。


 銃声が一つ、けたたましく轟いてジャドマーギの樹皮を削り飛ばした。


「徹君ッ、噴霧器を!!」


 菅原だ。石塚もまた黒々と輝く拳銃を構えており、何度も発砲を繰り返している。2発、3発と命中するたびに分厚いジャドマーギの樹皮がはじけ飛んでいく。そしてその下からは白く輝くジャドマーギの木部が顔を覗かせた。


 徹は吹き飛んだ樹皮の隙間にねじ込むようにしてノズルを突き刺し、残った薬剤を全て噴射する。すると、徹の目の前でジャドマーギの樹皮は泡のように膨れ上がると、次いで溶岩のようにドロドロになって流れ落ちていった。


 ジャドマーギが完全に沈黙した後、徹たちは枝に体を貫かれていた誠一を救出した。何もこの不気味な植物を登ったわけではない。まるで動物が力尽きるかのように、ジャドマーギはゆっくりとしおれて枝を地面付近まで垂らしたのだ。


 誠一の意識はなかったが脈と呼吸はあった。出血も止まっており、切り落とした枝ごと包帯で固定すれば命は助かるだろう。


 焼けるような西日が空を支配する下、ようやく救助の船は到着した。


 ジャドマーギは本体が倒れると同時に、複樹もすべて枯れてしまっており、証拠となるものは研究員の死体くらいしかない。それと関係があるのかはわからないが、この事件はいつまで経ってもニュースになることはなかった。


 あの事件の後も、石塚と菅原はジャドマーギに関する捜査を続けているようだったが、どの程度まで捜査が進んでいるのかはまったく聞かされていない。それに、二人は研究所の所有者である製薬会社を疑っているようだったが、徹には彼らが何か良からぬ企てをしていたようには思えなかった。


 多分、あれは警告だったのだと思う。


 科学の発展や社会貢献というお題目を掲げて、自分勝手に自然をいじくり回す人間への警告。それが形となって悪われた悪魔こそジャドマーギだったのではないだろうか。


 徹はそのように思いながら大学の机に腰をかけると、目の前の進路調査票にペンを走らせた。


『自然保護官』


 ––––と。


 その後、ジャドマーギが再び日本に入って来たという話は聞かない。




〈終わり〉

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ジャドマーギ ブンカブ @bunkabu

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