ジャドマーギ

ブンカブ

前編

「……遅いな」


 使い古した白衣に身を通した角縁メガネの男––––並木誠一なみきせいいちが痺れを切らしながらつぶやいた。彼が見上げた時計は夕方の6時を過ぎている。


「所長、徹夜は嫌ですよ」


 部屋の隅で顕微鏡をのぞいていた誠一の部下が、大袈裟に肩を竦めながら文句を垂れる。


 誠一は大型の植物園を併設する研究所の所長であり、かれこれ4年はこの孤島に滞在していることになる。


「私もさ。明日は息子が来るんだ」


 誠一は眼鏡のレンズを拭きながら小さくため息をつく。


「学者目指してるんでしょう? 立派じゃないですか」

「頑固なだけだよ。誰に似たのか好奇心だけで生きているようなやつだ」


 誠一は呆れ口調で言ったが、内心では自分の後を追うような人生を息子が歩んでくれていることが誇らしかった。少しだけ照れくさい気持ちになって鼻の下をこする。


「ちょっと見てきますよ」

「いや」


 パイプ椅子から立ち上がりかけた部下を止めて、誠一は出入り口の扉に手をかけた。


「私が行ってくる。退勤準備をしていてくれ」


 建て付けの悪くなった引き戸を開けて白い廊下に出る。研究所の中には他の所員はおらず、リノリウムの冷たい床に映る影は誠一のものだけだった。


 冷たいLED照明を追いながら暖かみのない通路を真っ直ぐに進む。誠一が歩いているのは研究棟と植物園をつなぐ通路であり、右手の窓からは中庭が見えた。


 通路の角を曲がり、植物園の扉を開けて中に入る。すると、鼻腔をくすぐる空気が一瞬にて変質したのを感じ取ることができた。ミントのような清涼感のある空気と、蜂蜜のように甘い香りだ。


「遠野!」


 誠一は温室をグルリと見回しながら、一向に戻ってくる気配の見えなかった研究員の名を呼んだ。


 しかし返事はない。


 その後も何度か彼の名を呼んでみたが、声は全て深い緑の中に吸い込まれ、返ってくることはなかった。


 遠野には植物園内にある“ジャドマーギ”の樹皮のサンプルを取ってくるように頼んでいた。ジャドマーギというのは10年前に南アメリカ大陸はギアナ高地で発見された植物であり、その生態のほとんどは謎に包まれている。この植物研究所はジャドマーギのサンプルを保有する世界でも稀有な施設だった。


 誠一は遠野の姿を探して園内をグルグルと回っていたが、やがて通路に銀色に光る物が落ちているのを見つけた。それは品の良い自動巻腕時計であり、遠野がつけていたものだった。彼女からもらったと散々自慢されたので見間違えるはずがない。


 不意に気配を感じて正面を振り仰ぐ。


 そこに立っていたのは10m近くにまで伸びたジャドマーギの歪な幹だった。




 *****




 その孤島は神奈川から50Kmほど南下した場所に浮かんでいた。小さな島で、国の施設や民家の類は存在しない。あるのは古い植物研究所と、その所員が寝泊りする寮だけだった。


「おっ、兄ちゃん、見えてきたよ!」


 船長が波に負けないほどの声を発した。


 並木徹なみきとおるはその声に振り返り、船の進行方向の先に小さな点として出現した島の影を注視する。


 黒浜島くろはまじまだ。島の敷地は全てとある製薬会社の所有物になっており、社外の人間は島に入ることすらできない。今回、徹が島に向かう船に乗ることができたのは、彼の父親が島の研究所で所長を務めているためだった。


 徹は関東の大学に通う三年生で、植物学のゼミに入っている。この連休に父親の職場を見学したいと願ったのも、自分自身の学問的な興味から来るものだった。


「うおえええっ、うっぷ……」


 まだ見ぬ未知の植物を想像し期待に胸を膨らませていると、不意に船の端で盛大に吐瀉物としゃぶつを海に撒き散らしているスーツ姿の男を見つけた。


「ちょっと、大丈夫ですか?」


 すると、男の横に立っている黒いスーツ姿の女性が心配そうに彼の背中をさすった。


「くそっ、おれは船乗りじゃねえんだ。いいか、またこんなことになるんだったら、おれは辞めるぞ」

「はいはい、せめてこの仕事が終わってから辞めてくださいね」


 どこかの会社の営業マンだろうか。


 女性の方はビジネスウーマン風の知的な魅力を持っていたが、その先輩らしき男はどちらかというと肉体派といった感じの風貌であり、お世辞にもビジネスマンには見えない。


 まもなくして船は島の桟橋に到着した。黒浜島には港と呼べる程のものもなく、小さな船舶が横付けできる橋がちょこんと迫り出しているだけだった。徹はコンクリートで作られた桟橋に降りると、すぐに人の姿を探す。父が車で迎えに来てくれることになっていたからだ。


 ところが周囲に人の姿はない。


 閑散とした浜辺には研究所に続く舗装路以外の人工物は見当たらなかった。


「おいおい、こっからどうしろってんだ!?」


 ガリガリと首筋を描きながら、くたびれたスーツ姿の男が下船してくる。


 徹は船長に迎えのことをたずねた。父がここに来ることになっていたはずだと。ところが、彼は昨日言われていた通りに船を出しただけらしく、その後の段取りについては何一つ聞いていないらしい。


「まあ、研究所までは歩いて15分くらいだ。迷うこともないから安心しなよ」


 と、彼はそのように快活に笑い飛ばすと、大きく手を振りながら船で去って行ってしまう。まるで無人島に置き去りにされた気分だった。


「ねえ、君」


 船が遠ざかっていく中、不意に同乗していたスーツ姿の女性が声をかけて来た。


「ひょっとして、ここの人? よかったら研究所まで一緒に行かせてくれないかな」


 彼女は優しく微笑むと、ポケットから警察手帳を取り出して提示する。


「警察?」


 徹は驚いて何度も手帳と女性の顔を見比べてしまった。


「行方不明の届けがあったの。かけ直したんだけど、繋がらなくて」

「おい菅原」


 男が仏頂面でやってくる。


「遊んでる暇はねえんだ」

「……ごめんね。石塚さん船酔がひどいみたいで。案内してもらえると嬉しいんだけど」

「良いですけど、俺も来たのは初めてなんです。でも、ここをまっすぐだって言ってたので問題ないと思いますよ」


 それにしても、行方不明と聞いて真っ先に心配になったのは父親––––並木誠一のことだった。まさかとは思うが、一抹の不安がよぎる。


 桟橋から研究所までの道はアスファルトによる舗装がされており、少しばかり急な坂があること以外は歩きやすいものだった。


「おい、すげえなこりゃあ」


 石塚がアスファルトから突き出した巨大な木の根を見つけた。それは暴力的な威力を持ってアスファルトごと跳ね上がっている。まるで暴れ馬が乗り手を振り落とそうと仰け反っているかのようだった。


「杉の根上がりですね」


 徹は崖側にポツンと立っていた巨大な杉の幹を撫でながら言った。


「雨風で下の土が流されて根っこが出て来ちゃったんですよ」

「詳しいのね」


 菅原が感心するように言う。


「インターンシップか何かだったのかな?」

「父がここの所長なんです。俺も大学で植物の勉強してて」

「所長だと?」


 少し後ろを遅れて歩く石塚が疑念のこもった声を発した。


「並木誠一さんか。昨日、電話して来たのが彼だ」


 と言うことは、少なくとも行方が分からなくなっているのは父ではないらしい。


 徹はそれを聞いて少しだけ心が楽になった。


 丘の上の研究所に到着したのはちょうど15分が経過した時だった。その建物が鎮座している土地の周囲は開けており、古びた駐車場には製薬会社の名前が入ったトラックが二台駐められている。


 徹は入り口横に立て掛けられた研究所の看板を確認してから入り口の扉を開ける。入ってすぐ左の窓には「入館手続き」の用紙がセットされていたが、日付も名前も一切記入されていない。それほど外部の人間が訪れることのない場所なのだろう。


「すみませーん」


 小窓を覗き込んで人の姿を探す。


 しかし中には受付係の姿はない。使われていないわけではないらしく、ノートの上にボールペンが置かれていたり、雑誌が散らかっていたりと、誰かしらこの部屋を使っていたであろうことがわかった。


 視線を動かして受付の先に続く白い廊下の先を見る。やはり人の気配はなく、突き当たりには左右に続く道がある。またその道の側面には中庭の見える窓が沿うようにして取り付けられており、そこからは巨大なアクリル板に囲まれた温室––––植物園の外観がうかがえた。


「無用心にも程があるだろ」


 石塚はぶつくさと文句を言いながら先に進んでいく。


「ここの人以外、島にいないんじゃないですか?」


 と、菅原もその後に続いたので、徹も慌てて二人を追いかけた。


「おーい、誰かいないのか!」


 石塚が大声を出す。


 が、これだけ騒がしくしているにもかかわらず誰一人として出てこない。いくら遠くにいたとしても、誰かしら気付いても良さそうなものだった。


「ひょっとしたら植物園にいるのかも!」


 徹が閃きに声を上げる。


 黒浜島植物研究所では、日本本土内に持ち込めない浸食能力の高い外来植物を専門に研究している。特に、南米を原産とする植物が集められており、温室内の環境もそういった植物を生育するのに適切な温度と湿度が保たれていた。


 研究所の躯体はかなり昔に作られたものであり、電子的なセキュリティーは存在しておらず、また部外者が侵入することもないので、扉のドアに鍵がかかっていることはほとんどなかった。


 アルミ製の扉を一つくぐると、その先は分厚いビニールのカーテンで覆われていた。それは温室と研究室の間の空気を遮る蓋の役割をしているのだ。カーテンをくぐると、途端にムワッとした生暖かい風が吹く。そこは南国の森のような空間だった。剥き出しの黒い土の上には日本では見られない樹木が所狭しと植えられており、耳をすませば猿や鳥の鳴き声さえ聞こえて来そうだった。


 徹はゴムチップ舗装された通路をたどって温室の中央にやってくると、一際高く伸びた禍々しい形の樹木を見上げて感嘆の声を上げた。


「すごい、本物のジャドマーギだ!!」

「ジャドマーギ?」


 聞いたことがない名前だと菅原が首をひねる。


「ここの目玉なんです。南米のギアナ高地にしか生息してない樹木なんですよ」

「確かに変わった形の木だけど……」


 どこか悪魔の手のように思える凶悪な幹と枝の形を除けば、普通の樹木と何ら変わりないように思えるのだろう。そのように汲み取った徹は、周囲をキョロキョロと見回し……そして見つけた。コオロギの生き餌だ。


 虫かごに入った大量のコオロギの中から、ピンセットを使って一匹だけ摘み出すと、それをジャドマーギの枝の先の花弁へと近づけていく。血のような赤色に染まったその中心にコオロギを入れると、次の瞬間、まばたきほどの速さで花弁が閉じてしまった。パクッと、まるで人間が口を閉じるかのように。


「––––ッ!?」


 徹の隣で菅原は声にならない悲鳴を発した。


「ジャドマーギは世界最大の食虫植物になる予定なんです」 

「予定?」


 本来のジャドマーギは高さ2m程にしか育たない低木であり、花弁のように見える捕虫器も極めて小さなものだった。ところが、この島に持ち込まれたジャドマーギは常識の範疇を超えて成長し、現在の姿になったのだ。


「環境の違いが影響しているんだと思うけど、詳しくはまだわかっていないらしいです。でも正式に発表されれば、ジャドマーギが記録を塗り替えますよ」


 そしてできることなら、その時はぜひ自分もここの研究員として記念すべき瞬間に立ち会いたいものだと思い、徹は志を新たにした。


 ところが、


「……それは傲慢だよ」


 菅原は寂しげにジャドマーギの捕虫器を見つめながらつぶやいた。


「いるべき場所じゃないのに無理やり連れて来て、人間が命を操った気になってる」


 切なげな彼女の長いまつ毛が伸びる先では、コオロギを抱えた赤い花弁が生き物の胃袋のように蠢いていた。


 暫しの間、徹はジャドマーギの前に立ち尽くす菅原とともにコオロギが息絶えるのを見守っていた。


 そんな時だった。


 ポトリ、とジャドマーギの枝の上から何か小さなものが落ちて来た。


 徹は最初、それは先ほど飲み込まれたコオロギかと思った……が、違う。コオロギを捕食した花弁はいまだに膨らんでいた。ゆっくりと近づき、土の膨らみの合間に隠れてしまった落下物を確認する。


 そして、悲鳴を発した。


 上空から落ちて来たもの、それは千切れた人間の指だった。


 モグリ、モグリ、と脈動する。


 騒然となった徹たちを見下すように、ジャドマーギは咀嚼を続けていた。



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