第32話 娘は待ち侘びている
ユースルカ王国との戦いに決着が着いてから数週間が経つ。
帝国のローシンシャでは親しき者の凱陣に歓喜に湧きたっていた。周囲に飛び交うのは各々の名前に労いの言葉。それらの声に、戦場から帰ってきた兵士たちは大きく腕を振って応えている。
少女はそんな光景を目にしながら、男の隣で小さく呟く。
「…ムステト、本当にいないんだね。」
ぽつりと溢されたその言葉にレウィスは思わず眉尻を下げた。この子供も流石に寂しく感じているのだろうか。
彼女の視線の先を辿れば、息子の帰還を喜ぶ夫婦に照れ臭そうな顔をしている青年兵士。カラーナと大して変わらない年頃の少年が、父親だろう男に抱きついているのも視界に映った。頭を撫でられた少年は嬉しそうにしている。
見渡す限り、それらは喜びに満ちていた。
しかし、どれも晴々しい表情を浮かべている帝国兵の中に、彼女の養父は入っていない。あの魔法師の姿は何処にも見えない。
カラーナはそっとレウィスの袖を引っ張ってくる。
「ねぇ、レウィスさん。魂籠って知ってる?」
「たまかご? いや、何だそれ。丸い籠…
「ううん、笊じゃあないんだけど…。ムステトの故郷でね、特別なとき、家に籠を吊るすっていう風習があったんだって。」
「へえ…そんなの初めて聞いたな。」
レウィスが「やりたいのか?」と問いかけると、カラーナはこくりと頷いた。けれどそれの詳しいやり方などは聞いていなかったため、困っているという。
珍しくしょんぼりして見えるその様子に、レウィスは何とか関連した情報はないかと自分の記憶を探ってみる。
「うーん。確かアイツ、帝国の北か東の方出身だったような…。」
しかし、結局出てきたのはそれだけだ。
そもそもレウィスは、ムステトと個人的な話をした覚えがあまりなかった。そんな所で生まれていたこと自体カラーナづてに初めて知った。
申し訳なさそうに首裏を掻くレウィスの前で、カラーナは「そっか…。」と肩を落としている。
「家政婦さんに聞いても、学校で聞いても、レウィスさんと同じで誰も魂籠のこと知らなかったんだ。ムステトに懐かしいことしてあげたかったんだけど、このままじゃ中途半端な出来になっちゃう。…やっぱり、やめといた方が良いのかな。」
「いや、そんなこと無いと思うぞ。」
俯く少女の肩にレウィスは手を置いた。
「そういうのは気持ちが大事なんだ。お前大体ならそれのこと知ってんだろ? だったら出来る範囲でやってみようぜ。なんなら、俺も手伝ってやるからさ。」
カラーナはレウィスの言葉に顔を上げ、両目をぱちくりさせる。
「気持ちが大事…。レウィスさん、たまに良いこと言うよね。」
「おい、『たまに』ってなんだよ。」
「あっ。やっちゃった。」
レウィスが栗色の髪をかき混ぜてやると、カラーナは「頭、頭わしゃわしゃやめて〜!」とその腕を取り押さえつつ顔を綻ばせた。二人で戯れ合いながらも、じゃあね、じゃあねと物の名前を挙げていく姿は年相応で可愛らしい。恐らくそれらは「たまかご」とやらに必要なのだろう。
一応とはいえ、この少女はあの男と家族なのだ。何故あんなクソ野郎に懐こうと思えるのか理解はできないが、家族仲が悪いよりはよっぽど良い。レウィスはそう思いながら頭を撫でる。
この子供はムステトの庇護下から抜け出ることを嫌がった。
ならばカラーナがアイツに影響されるよりも前に、この子の性質を善性へと持っていく、矯正していくのが、今の自分に必要とされている配役なのだろうとレウィスは感じていた。
子供にとって親の存在とは特別だ。
常に年少者というものは、周囲の大人から影響を受けながら育っていく。そんな子供と一番身近な大人が『親』であるから、親が子に与える人格の影響は計り知れない。親の汚点を反面教師に成長する者もいれば、その汚点をそのまま受け継いでしまう者もいるだろうし、親とは全く別方向のナニカから影響を受ける者もいる。そのあたりは千差万別すぎて何とも言えない。
しかし、人と関わること、人を想うことの暖かさを知れば、カラーナはムステトのように殺戮を楽しむような人間にはならないだろう。
そのように考えたレウィスは、まずはその足駆けとして、カラーナの「たまかご作り」に協力することをここに決めた。
現時点のカラーナでも、義父を喜ばせるために何かをしてあげたいという健気さが胸の中にあるのだ。その思いやりの精神を育むことが、今の彼女にとっては重要なことだろう。
…そうは考えつつもこの無邪気な子供をムステトの弱みに仕立て上げようとしている後ろめたさは、腹の底にこびり付いて落ちてくれそうにはなかった。
「…そういえばカラーナ、送られてきた飴の数は守ってるか?」
「え? うん。一日二個まででしょ。」
「お、偉いな。俺がお前くらいの頃だったら初日に全部食ってたわ。」
「うーん。でもさ、ムステト酷いと思わない?『ムステトの帰りが他の人より遅くなる』ことのお詫びの飴なのに、食べる数に制限つけるなんて。」
「いや、それたぶん最初に言い出したのスミントス大佐だな。」
「え、スミントシュ、ス、シュミ…。」
レウィスが「ハハハ、噛んでやがる。」と笑うと、カラーナはむくれた。彼女の頬が少し赤くなる。
「ごほん。…で、その人って誰? なんでそんなこと言うの?」
「スミントス大佐はな、俺らの上官で、お前の親父より偉い人だ。聞いたところによると貴族の間ではな、歯が痛くなったり、溶けたりする奇病が流行してるんだとさ。なんでも砂糖の取り過ぎが原因って説が濃厚らしくて、大佐はそれを気にしてるんだろ。」
カラーナは首を傾げると、「ムステトは毒を送ってきたの…?」と不思議そうに言った。
「砂糖が毒なわけないだろ、死んだやついねぇし。ただ食べ過ぎんなよってだけの話。」
「歯を守るためには甘い物を我慢しなきゃいけないなんて。世知辛い世の中だね…。」
「砂糖で世の中語られてもな。」
そもそも八歳で『世知辛い』とかよく知ってるな。何処から覚えてきてんだろ、とレウィスは思った。
───────────
「…?」
久しぶりに戻った自宅の二階から、見慣れぬものがぶら下がっている。ムステトの視界に映ったそれは赤い虫籠のようなものだった。
この辺りの子供が虫取りをして遊んでいるとき、あのような籠を度々見かけることがある。その殆どは気安く手に入る藁などを素に作られており、形状もとても簡易的なもの。あれの用途は一時的に虫を入れるためだけの、使い捨てのものだとムステトは認識している。
それが赤いということは、わざわざ植物の果汁か何かで染めたのか。あれは色付けしたために乾燥させている最中なのだろうか。
自身の義娘は己のいない間も好きに過ごしていたらしいことが窺えて、ムステトはふぅんと思いながら扉を開けた。
見慣れたものである筈の玄関と廊下は、最後に目にした時よりも生活感漂うものになっている。
「ただいま戻りました。」
「家政婦さん、おか…えっ、んっ?」
廊下の奥より、カラーナの困惑した声が聞こえてきた。
軽やかな足音と共に彼女はひょっこりと顔を出す。ムステトへ焦点が合わせられると、その顔はみるみるうちに明るくなった。
「わぁ、ムステトおかえり! レウィスさんから聞いてたより早かったね!」
「カラーナ、帰りが遅くなりすみません。元気にしていましたか。」
「うんっ、元気にしてたよ!」
カラーナはこちらに駆け寄りながら、「ねぇ、見た?見た?」とムステトに輝くような笑顔を向ける。
「私、魂籠作ったんだよ! 吊るすのはレウィスさんに手伝ってもらったのっ。」
「はい? …ああもしかして、あの赤い虫籠のことを言っていますか。」
「うん、わかりやすかったでしょ。」
「ふっ…。確かに目立つ色合いでしたが、一体誰方が亡くなられたので?」
「あれね、死んだ人のじゃないよ。あれはムステトのなの。」
「自分の…? 何故ですか?」
「嫌がらせ!」
間髪入れずに答えるその様子に、少々ムステトは呆気にとられた。
カラーナは目を丸める男をさも可笑しそうに見つめては「私が甘い物だけで許すわけないじゃん。」ときゃらきゃらと笑う。こちらにも事情があったとはいえ、帰還が遅れたことは想像よりも彼女の機嫌を損ねていたらしい。
男は苦笑を浮かべながら、視線を合わせようとその身を屈めた。
「大変申し訳ありませんでした。カラーナ、どうすれば許して下さいますか。」
「留守番の仕事が延びた分、私にご飯を作るのと、頭を撫でるのと…あと、お土産話を報酬に追加してくれたら考えなくもないかも。」
「それでしたらお安い御用です。何も報酬でなくとも…と、貴方にそれを言うのは野暮でしたね。」
「そうだよムステト。仕事を頑張ったからこそ、報酬っていうのはタダで貰ったものより嬉しくなるんだもの。」
そう言うとカラーナは、後ろ手に隠し持っていたものを前に差し出した。
「それと大尉への昇格、おめでとうございますっ。」
ムステトはまたも意表を突かれた様子で、「これはこれは…ありがとうございます。」と礼を述べる。カラーナから受け取ったのは赤い髪紐。彼女は赤色が好きなのだろうか。
ムステトの長髪は惰性で伸ばし続けたが故の産物だったため、そろそろ散髪しようかと考えていたところであった。しかし、これを受け取ったことで襟足まで切る予定は取り消すこととする。
「せめて二週間と五日は使ってほしいな。」
「おや。やけに具体的な日数ですね。」
「これ実はね、魂籠に使った紐とおんなじのなの。あとそれぐらい経ったら吊るして一ヶ月になるからさ、魂籠が落ちるか、外す時が来るまで着けててよ。」
「ははは、随分嫌がらせが遠回りかつ念入りなことで。」
地元の者が受ければ卒倒するだろう組み合わせにムステトは肩を揺らした。そも、葬儀で使用される魂籠が、虫入れで代用されている時点で可笑しくて仕方がなかった。また魂籠擬きが奇抜な色に染められているのも発想が新しい。
目の前にいるカラーナはくすくすと笑っており、よく見れば、肩あたりにあった髪は前よりも長くなっているように見えた。
「おかげで私のお金ごっそりなくなっちゃった。その紐、時間が過ぎたら好きに捨ててもいいからね。」
「娘からせっかく頂いた昇格祝いを捨てることなどしませんよ。」
ムステトは柔和な笑みを作りながら、少女の頭に手をおいた。
「それが親というものなんでしょう?」
「そんなの私に聞かれたってわからないよ。」
ムステトが手袋越しに彼女に触れる。
カラーナはそれに「撫でるの下手だね。」と言いつつも、何処か機嫌良さげな顔をして瞼を下ろしている。
「家族ってやつはよく知らないし、あんまり覚えてないから、私にできそうなのはごっこ遊びかフリぐらいかなぁ。」
「ではその遊び、仕事の合間に気が向いたらやりますか。」
「私の仕事の? …うん、いいよ。しょうがないから付き合ってあげる。」
「嫌々ならば首を横に振って構いませんよ。」
「いいのいいの、面白そうだから。」
布に覆われたムステトの指に、カラーナの手が重ねられた。軽く男の腕が引っ張られる。
「さ、早く。お土産話を聞かせてよ。」
「殆どが人が死ぬ話になりますがよろしいですか。」
「血は嫌いじゃないし、私にそれを聞くのは今更だと思うよ。」
「それは確かに。」
「私ね、特にムステトの“狩り”のことが知りたいんだ。あとね、特に楽しかったこととか、みんなが言ってるイッキウチ?の話とかー。」
ムステトは手を引かれながら、先頭の小さな歩幅に合わせて廊下を歩いた。
今まで通りの帰還であれば、ムステトは靴を白くさせながらこの廊下を一人で踏みしめていたことだろう。床板は浅く埃の積もった状態でムステトを出迎え、このように賑やかな声が通ることもなかった筈だ。
「ちょっと聞いてるー?」
「聞いていますよ。」
こちらを振り返るカラーナに、ムステトは笑みを浮かべて頷いた。
そのように急がなくとも、これからは持て余す程に話す時間が出来るだろう。この先数ヶ月は休戦期間が訪れるからだ。
もうすぐ、冬籠りの季節がやってくる。
────
───────────
とある王国の某所。長い廊下を、少女がたくさんの大人に囲まれて歩く。
見知らぬその者たちは同じような服を身に纏っており、白を基調とした服は、ところどころ緑の線の入っただけの簡素な様相を為している。足元は裾によって踝まで隠れ、足運びはゆったりしているように見えて意外と素早い。
少女は頭の片隅で、なんで転ばないのかしらとぼんやりと思った。
旅の疲れによってか、らしくないほど視線が滑る。けれど進む道筋だけは直視できなくて、なんでだろうとうっすらとした疑問を抱きながら少女は足を進ませた。しかしその思考も、他と同じようにすぐに何処かへ流れていく。
本来なら目を奪われるだろう壁の装飾も、今はただ細かいなとしか感じられない。
翡翠色の少女に纏わりつくのは、まるで自分が空っぽになったかのような頼りなさ。
今歩いている自分は、本当に自分自身なのだろうか。
いつか見た糸で吊られる操り人形のように、少女は今の自分を動かしているのは別の誰かのような気がしてきた。心だけが身体から抜け出してしまって、現在独立した魂は、離れた観客席から空っぽの身体を眺めている。そんな妄想が頭をよぎった。
「…大丈夫よ、ララ。大丈夫なの。」
少女は斜め下よりその人の顔を見上げる。か細い声で繰り返し呟く少女の母は、ずっと正面を向いたままだ。
「…大丈夫。」
普段から穏やかな印象の強かった母の顔は、父と別れた後から強張っている。こんなにも堅い表情の母は見慣れなくて、だからこそ、少女はこの先に待ち受ける何かが怖く感じた。その何かというのはこの長い廊下の奥にある部屋のことかもしれないし、予想もつかない不透明な未来を指しているのかもしれない。
自分が怯えている恐怖の正体さえ、少女にはよく分からないのだ。
「ララは私が守るから…。」
耳に届いたその言葉に、少女はきゅっと唇を結んだ。旅の最中、母は何度もその台詞を言うようになった。
それを聞くたび少女の胸の中にはぽつぽつと、漠然とした不安が広がっていく。純白のハンカチーフの染め上げるような澱んだ色は、いつか、そう。父がここに来てくれたら、不安の雫はすぐに止まってくれるだろうか。漂白されてくれるのだろうか。
「…あの、お母様、」
「大丈夫、お父様は大丈夫よ。……、…。エリシュ…。」
今、自分の言葉は母に届いているのか。
唇から溢れた父の愛称。繰り返される「大丈夫」は、母が母自身に言い聞かせているようにも思えた。
上品にお腹の前で組まれ、手入れが爪の先まで施された母の両手。しかしその輝きは以前より鈍くなっているように映り、腕は不必要なほど力んでいる。手首には父から贈られたというブレスレット。整えられた指先が、それに縋るようにかけられていた。
「お待たせしました。こちらです。」
先頭の神官が、重厚な扉を前に立ち止まった。ずっと黙り込んでいた他の神官たちもそれに続き、左右に別れて列をつくる。
母は一度足を止めて呼吸を整え直すと、その真ん中を歩き始めた。母の凛とした背中が離れていく。
行きたくない。でも、置いていかないで。
少女はそのどちらも口に出すことができず、おずおずと、重く開かれた扉の先に足を踏み入れるのだった。
自分の家族は人でなし。 青杖まお @tamakigoro
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