聖女代行をしろ、ですって?いいでしょう、対価をいただけるのならば

仲室日月奈

第1話

 ――魔王討伐が果たされていない中、聖女が異世界に戻ってしまわれた。


 王国中を震撼させた一大ニュースが各地で騒がれている一方、王国の最北部に位置するランフィール領では領主も領民も「ふうん。そうなんだ」で終わり、いつもの日常に戻っていた。

 なぜなら、ランフィールといえば、辺境の貧しい土地という代名詞がつく場所だからだ。険しい山脈に囲まれた土地は王都からも一番遠く、流行も数ヶ月遅れが当たり前、西の外れに住み着いているという魔王の討伐ももはや他人事だった。

 そんな田舎に王国の旗を掲げた騎士団がやってくるなんてこと、王国の歴史が始まってから例を見ない。緊急事態だ。

 領民から知らせを受けて慌てて出向いた領主一家の前に、若い騎士が丸めた羊皮紙をくるくると広げ、朗々と内容を読み上げた。


「国王の命により、ルナマリア・ランフィールを聖女代行に命じる」

「はっ……は? えっ?」

「今、聖女って聞こえなかった……?」

「嘘でしょ、何かの聞き間違いよ……」

「しっ。目をつけられたらどうするのさ」


 混乱する領主と野次馬に来た領民の反応を睥睨し、騎士が短く告げる。


「ルナマリア・ランフィールがいれば、前に」


 放心状態の領主の後ろから、白金色の波打った髪を後ろできっちりと編み込んだ令嬢が前に進み出る。

 流行遅れの型の質素なドレスをまとってはいるが、目鼻立ちはそれなりに整っている。

 はるばる王都からやってきた騎士団に恐れをなしている者が多数を占める中、彼女は臆した様子も見せず、騎士の前で優雅にお辞儀をした。

 頭を上げ、魔力がひときわ多い証である薔薇色の瞳がゆっくりと瞬く。


「ランフィール男爵が娘、ルナマリアでございます」

「……内容は先ほど伝えたとおりだ。一緒に来てもらおう」

「その前に確認したいことがございます」


 毅然と言い放つと、騎士が片眉を上げた。刃向かうとは思っていなかったのだろう。だが、貧乏男爵令嬢であるルナマリアは気にせず発言する。


「そちらの用件は、わたしに聖女代行をしろ、ということで合っていますか?」

「……そうだ」

「でしたら、三年間の免税と、支度金として金百万枚を要求いたします」


 ランフィール領は不作が続いている。これまでは領民が飢えないように施しを与えていたが、家の貯蓄も底を突いた。他に行く当てのない住み込みの使用人以外をすべて解雇し、一人娘であるルナマリアもバイトを掛け持ちしてなんとか食いつないでいる現状だ。

 当然、ドレスを新調するような余裕も予定もない。


(ここまで疲弊した領地を立て直すには資金が必要だわ。他の領地にも負けないような特産品も作らなければいけない。その研究費用だっている。……こっちは明日の食べ物に困っているのよ。このくらいの無茶は通させてもらうわ)


 目を丸くしていた騎士は次第に言われた内容が理解できたのか、わなわなと震えだした。拳を握り、くわっと目を剥く。


「なっ……!? 王の命令を聞けぬというのか!?」

「聖女の代行とは、すなわち王国のために命を賭けろということですよね。であれば、当然の要求でございませんか? いきなりやってきたのはそちらの都合。ですが、こちらにも生活があります。正直、これでも足りないくらいです」

「ふざけるな!」

「取り引き不成立ですね。お引き取りください」


 にべもなく断ると、騎士の後ろから焦った様子で割って入った男が待ったをかけた。


「ちょっと待ってほしい」

「……あなたは?」


 焦った様子の中年男は騎士服ではなく、上位貴族が好むような上等な衣装を着ていた。金色の刺繍は鮮やかで、布も最高ランクのものだろう。パッと見ただけで格の違いがわかる装いだ。


「私は宰相をやっている、イズウィリーという。私の権限で、先ほどの条件をのもう。そのうえで、改めて問う。聖女代行を頼まれてはくれないか?」

「……いいでしょう、対価をいただけるのならば」

「よろしく頼む」

「あ、あとからそんな口約束は無効だって言われても困るので、ちゃんと契約書にサインしてくださいね」

「……わかった。今から書類を認めよう」


 騎士団の連中はいい顔をしなかったが、異論が出ないことを見るに、宰相というのは本当なのだろう。


(話のわかる人がいてよかった……)


 領主の館に移動し、イズウィリーが羽根ペンでさらさらと契約書の文面を書く間、ルナマリアは家族と抱き合い、別れを惜しんだ。


 ◆◆◆


 騎士団護衛のもと、王都の大神殿まで馬車で揺られること十日。聖女就任の儀式を厳かに執り行い、勇者のパーティーと合流した。

 パーティーで女性はルナマリアだけだ。先代聖女の崇拝組、聖女であればなんでもいい組に分けられていたが、雑草根性で生きてきたルナマリアにとってそれは些末な問題だった。

 ちなみに勇者は後者だ。それ以外のメンバーは前者。

 異世界召喚された先代聖女のミリカは、パーティーの高嶺の花だったらしい。黒曜石のような髪と瞳は伝説の聖女そのままの姿で、高度な聖魔法も自由自在。

 対して、庶民に混じって働いていたルナマリアは聖魔法の適性はあるが、レベル2の冒険者ひよっこだった。辛うじてかすり傷を治す治癒魔法が使えるくらいで、ダンジョンなんて行ったこともない。

 そのため、勇者一行の最初の課題はルナマリアのレベル上げだった。

 しかし、魔王軍が日々軍を増強している中、のんきに初心者用のダンジョンでレベルアップしている時間はない。


 ――ということで。


 いきなり高難易度ダンジョンに連れ込まれ、パーティーの一番後ろで皆を見守るだけの日々に身を投じることになった。自分は大神殿が用意してくれた簡易結界の中に閉じこもり、勇者をはじめとした歴戦のパーティーメンバーが魔物をやっつけていく。

 パーティーの一員であれば、直接戦闘に参加していなくても、経験値は手に入る。

 強制レベル上げのおかげか、みるみるうちにレベルは30を超えた。それからは覚えたての聖魔法をぶっ放しながら、魔物退治に明け暮れた。

 そろそろ魔法での支援も板がついてきたかなと思って、ステータスが確認できる腕輪に手をかざせばレベルは55に上がったところだった。


 かくして、勇者一行は魔王軍へ奇襲することを決断し、最終決戦に挑むことになった。


 雑魚敵は魔法使いと武道家が殲滅し、中ボスを吟遊詩人の加護を得た勇者が切り伏せていく。敵の数は多かったが、いくつもの死線を越えてきた勇者一行にとって、さしたる問題ではなかった。

 味方が瀕死の傷を受けても、ルナマリアがすぐに回復呪文を唱え、ゾンビのように蘇生して攻撃を再開。最後は相手がかわいそうになるような一方的な蹂躙だった。


 それは魔王を前にしても変わらなかった。


 状況が変わったのは魔王が本性のドラゴンに姿を変え、瞳の色が怪しく光ったときだった。勇者のマントに身を隠されたルナマリアと勇者を除く仲間が魔王軍に寝返り、一斉に襲いかかってきた。

 勇者の緊急回避用の守護の陣で第一波の攻撃は防いだが、同じ特技が使えるのは三十分後。すぐに第二波がやってきて防戦一方の勇者に回復の重ねがけをするが、受けるダメージが多すぎて回復が追いつかない。


 絶体絶命だと死を覚悟したとき、ルナマリアの中で何かが弾けた。


 あふれ出る白い魔力に虹色の光が散らばり、その光の渦が王の間を満たしていく。操られていた仲間たちがバタバタと倒れていき、魔王も目がくらんだのか、動きが止まる。

 聖女として覚醒したルナマリアのかけ声を合図に、勇者アルバートの光の剣が魔王の心臓を突き刺した。その刹那、どこからともなく魔封じの古代文字が浮かび上がり、光の鎖が魔王の体を拘束する。だが瞬きすると、魔王の姿は忽然と消えていた。


 それから魔力でできていた魔王城が砂のように消えていき、勇者一行の周囲はただの荒れ地に変わっていた。災厄の象徴たる魔王が封印され、世界に平和が戻った瞬間だった。


 ◆◆◆


 ルナマリアは勇者一行の凱旋パレードを終え、離宮で旅の疲れを癒やしていた。女官たちに全身の垢がなくなるくらい磨かれた後、質の高い香油で髪に艶が戻り、軽く感動している間に頭皮から足先まで丁寧にマッサージを受けた。その後は豪華な晩餐会で舌鼓を打ち、おなかいっぱいになると、ふかふかの天蓋付きベッドが待っていた。

 一生分の贅沢を味わっているような、ふわふわとした感覚だった。

 スプリングの効いたベッドに背中を預け、ルナマリアはホッと息をつく。

 

(一時はどうなることかと思ったけれど、無事に魔王は封印されたし。聖女代行の役目も全うできたわよね。せっかく王都にいるんだもの。領地に帰る前に何が売れているのか、いろいろお店を見て回って――)


 今後の予定を練っている中、遠慮がちに扉を叩く音がして、返事をする。何事かと起き上がると、若い女官が部屋に入ってきた。


「どうしたの?」

「夜分に失礼いたします。……その、先ほど勇者様がいらっしゃって、聖女様にこれを渡してほしいと手紙を預かりまして」

「手紙……?」


 はい、と白い封筒を手渡される。女官は用事は終わったとばかりに両手を重ね合わせ、一礼した。


「では、何かあればお呼びください。失礼いたしました」


 パタンと扉が閉まる。ルナマリアは封筒を開け、中から一枚のカードを出した。そこには綺麗な書体で、アルバートが離宮の東屋で待っている旨が書かれていた。

 一匹狼の金髪碧眼を思い浮かべ、ひたすら首をひねる。


(今頃、わたしに何の用かしら?)


 これまでアルバートとの会話は事務的なものばかりで、個人的な呼び出しをされるような覚えはない。だが、考えている今も夜の庭園でひとり待っているとしたら、行かないという選択肢はなかった。


 ◆◆◆


「アルバート様、お待たせしました」

「……来てくれるかどうかは賭けだったが、今こうして会えて嬉しく思う」

「はあ。それで、何か御用でしょうか?」


 今や勇者は王国のヒーローだ。報奨として王女との縁談の話も持ち上がっているらしく、夜会では英雄の妻の座を狙う令嬢たちが群がり、とても近づける雰囲気ではなかった。ちなみに代行聖女に興味を持った人たちはルナマリアの平凡な容姿を見るなり、期待外れをしたような顔になり、最終的には見なかったことにして通り過ぎていった。


(異世界の聖女様ならともかく、わたし自身には華がないものね……)


 ルナマリアの顔立ちは悪くはないが、並以上ではない。それは自分が一番わかっている。良くも悪くも、特徴のない顔に平均的な容姿なのだ。

 本来、聖女に群がる人も勇者を囲む輪に加わり、その中心にいた彼は大変だったろうと思う。

 晩餐会では少し疲れた顔をしていたが、今はどことなく緊張した面持ちだ。自然とこちらも身構えてしまう。

 アルバートはまっすぐとルナマリアを見下ろし、かすれた声でつぶやくように言った。


「君を守るために勇者になった」

「…………は?」

「覚えているだろうか。以前、俺たちは出会ったことがある」


 突拍子もない話をされたせいで、言われた意味を理解するまで時間を要した。


(え、出会ったことがある……? いやいや、そんなの初耳ですけど?)


 それが事実ならば、なぜ旅の途中にその話題を振ってこなかったのだろう。話せる機会なんて、いくらでもあったはずだ。

 アルバートは平民だ。旅商人の息子だったと風の噂で聞いた。それが勇者にしか抜けない聖剣を手にしたことで、立場は一変した。国王から勇者と周知され、アルバートの名は王国中に瞬く間に広まった。

 魔王を倒した今は爵位を与えられることになっており、妻はよりどりみどり。代理で選ばれた日陰者のルナマリアとは違う生き方が約束された英雄。


「いつ……? どこで会ったというの……?」


 驚きのあまり、素で返すと、アルバートは流暢に話しだした。


「五年前のことだ。王都で行われた収穫祭で、君は転んで怪我をした女の子の傷を魔法で癒やした。迷子だと知ると、祭りの見物に来た兄を一緒に探してくれた。楽しみにしていた魔法演技を観ることもほっぽって。その女の子は俺の妹だった」

「え、じゃあ……あのときのお兄さんが……あなた?」

「去り際に妹に見せた、あの日だまりのような笑顔が忘れられなかった。家族と合流した君がルナマリアと呼ばれているのを聞いて、ずっと探していたんだ――妹を助けてくれて感謝している」


 数ヶ月、旅を共にするようになって気づいたこと。

 いざという時は後ろにかばって盾になってくれるが、必要以上の言葉を発しない男、それがアルバートについてルナマリアが下した評価だった。

 けれど、その評価は改めたほうがいいかもしれない。


(こんな風に笑うなんて、知らなかった。他人に興味がない、無愛想な人だと思っていたのに……)


 頬を少し紅色に染めて、恥ずかしそうに視線をわずかに横にずらし、こちらを見てくるその顔は。

 成人した男性なのに、かわいいと思ってしまった。


「本当は……ずっと話しかけようとしていたんだが、いざ君を目の前にすると、何も言葉が出てこなくて。同じパーティーにいるんだから、まだ時間はあると自分に言い聞かせていたが、ずるずると先延ばしにして今日まで言えずにいた」

「…………」


 言われてからふと、思い出したことがあった。

 最初は足幅が違う皆についていくのに何度か小走りを繰り返していたが、あるときから彼が歩幅を合わせて歩いてくれるようになり、皆から引き離される焦りを覚えることがなくなっていたように思う。

 そのときは旅で疲れていたのだろうと思っていたが、あれは自分に気を遣っての行動だったのではないか。


(え、待って……そうだとしたら、今までの出来事も偶然だったんじゃなくて――)


 ゴブリンの残党に背後から奇襲された夜、誰より先に助けに来てくれたのはアルバートだった。よそ見をしてダンジョンのトラップにかかったとき、腕を引いて助けてくれたのも彼。ひとり丘の上で星空を見上げていた日は、眠れなくて散歩していたと言っていた彼と一緒に流れ星を数えた。

 すべて、たまたまだと思っていたが、常日頃からルナマリアに危険が及ばないか、目を光らせてくれていたのだとしたら。


「……自意識過剰だと思うのだけど。もしかして、旅の間ずっと、わたしを気にかけてくれていた……?」

「ああ。君がいる王国を守りたくて、俺は冒険者の道に進むことにした。大神殿で再会したときは神に感謝した。……たとえ君が俺を覚えていなくても、俺が君を忘れることはない。生涯で、俺の心を捧げるのは君だけだ」

「……っ……」


 呆けた自分を映し出す碧眼に愛おしげに見つめられ、心拍数が急上昇する。

 自慢ではないが、ルナマリアの恋愛偏差値は限りなく低い。同世代の男たちは皆、自分を恋愛対象として見ることはなかった。ルナマリア自身も恋などという不確かな感情よりも、お金を稼ぐことのほうが優先順位が高かったくらいだ。

 要するに、こんなまっすぐな告白にどう返すのがベストか、さっぱりわからない。


(アルバート様の性格からして、本心以外は言わないだろうし……。でも、このモヤモヤした気持ちがなんなのか、自分でもよくわからないし……)


 今は、下手なことは言わないほうがいい気がする。

 しばしの沈黙を破ったのはアルバートのため息だった。びくりと肩を震わせ、おずおずと見上げた先には困ったように笑う姿があった。


「いきなりこんなことを言われても困る、よな……。だが、最後にどうしても俺の気持ちを伝えたかったんだ」

「……最後……って、どういうこと?」


 何か悪い方向に事態が進んでいる気がして、ルナマリアはぎゅっと手を握りしめた。

 アルバートは無言で上空に輝く満月を見上げてから、ルナマリアに視線を合わせる。その瞳には諦めの色が混じっていた。


「このままだと王女かどこかの貴族令嬢と結婚させられるから、俺はこの国を去る。君は領地に戻るんだろう? おそらく、もう会うこともないだろう」

「え……もう、会えない……?」

「ああ」


 肯定する返答に、視界が突如暗闇に覆われたような感覚に陥った。

 ぐるぐると混乱する頭で、気づけば彼を引き留める言葉が口からついて出ていた。


「ちょっ、ちょっと待って。あなたはわたしのことが好きなんでしょう? 簡単に諦められるくらいの気持ちだったってこと?」

「けど、君は俺に特別な感情は持っていない。好きでもない男から言い寄られても迷惑なだけだろう。だったら――」


 その言葉の続きを聞きたくなくて、ルナマリアは考えるより先に答えていた。


「迷惑なんかじゃないわ!」

「……え?」

「そりゃあ、今まではただの仲間としか見てこなかったけど。……あなただけは初めから聖女だと認めてくれていたじゃない」

「…………」


 聖女の器じゃない、と決めつけていた皆に同調することなく、聖女として受け入れてくれたのはアルバートだけだった。

 いつだって、彼だけは自分の味方でいてくれた。


「わたしが今日まで無事に過ごせているのはアルバート様のおかげよ。感謝こそすれ、迷惑に思うわけないじゃない。……さっきは男の人に初めて言われて戸惑っていたけど、言うだけ言ってさよならするなんて、冗談じゃないわ」


 衝動のまま吐き捨てるように言うと、アルバートが怪訝な面持ちで言う。


「じゃあ、どうすればいいというんだ?」


 自分を置いていこうとする彼を思いとどまらせるためには、なんと言えばいいか。そこまで考えて、やっと自分が彼と離れたくないことに気づいた。


(……そっか。わたし、あなたのことが……)


 こんなに必死になる理由に合点がいって、自然と口の端が持ち上がった。


「うちの婿になればいいじゃない。物語では、聖女と勇者が結婚するのも珍しくないでしょう?」

「……本気で言っているのか?」

「そりゃ、わたしは伝説の聖女様のような容姿じゃないし、歴史だけが取り柄の貧乏貴族だけど。あなたが離れていくというのなら、わたしは追いかけるわ。……そばに、いてください。わたしを想ってくれているのなら」


 また会いたいと彼が思っていたように、きっと自分も彼を求めるだろう。富も権力もない男爵家だけど、あの温かい場所に彼が加わってくれれば、どんなに幸せか。

 戸惑う青い瞳をじっと見つめると、やがて悩みが吹っ切れたように、アルバートが優しく笑った。


「他の誰がなんと言おうと、俺の聖女は君だけだ――ルナマリア」


 自分の名を呼ぶ吐息が耳朶にかかり、ルナマリアは自分が抱きしめられていることに遅れて気づく。厚い胸板からは速弾きのバイオリンのような鼓動が聞こえてくる。


「アルバート様……」

「君のそばを離れないと誓おう。……俺の花嫁になってくれるか?」


 抱きしめる腕に力が加わり、アルバートが緊張しているのが伝わってきた。

 直接顔は見えなかったけれど、その顔はほんのりと赤い気がした。それを想像すると、ふっと笑みがこぼれた。


「ええ、喜んで」


 プロポーズを承諾する声の余韻は、夜風に紛れて遠くに運ばれていった。


 ◆◆◆


 その後、世界に平和をもたらした勇者は王族や貴族令嬢との婚姻打診をすべて断り、爵位も辞退したうえで、表舞台からひっそりと姿を消した。

 そして、聖女の身代わりとして選ばれた男爵令嬢は領地改革に乗り出し、それを夫となったかつての仲間がそばで支え続けたという。

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