獅子と豺狼

奥州寛

第1話

――自分の手の内にある物は、いつか無くなってしまう。


 それが彼が短い半生で得た、数少ない教訓だ。


 ランディキウムの街で、赤い風船がするりと空へ舞った。


 直前まで手の内にあった物が、手の届かない場所にある。少年は寂寥感と厭世観の混じり合った眼を風船に向け、それをじっと見つめた。


 風船は高いビルの間をふわりと揺らめいて、暗灰色のビルと雪のような曇天に、鮮烈な赤色でコントラストを残す。


 少年は、その風船を見つめたまま、過去を思い出す。


 母も、父も、暖かな家も、全ては消え失せる。金と権力は、少年からあらゆるものを奪う。そして、彼の不注意によって、風船すら消え失せてしまう。


 風船はどこまでも高く、モノクロームの空へと吸い込まれていく。少年が赤色を追うのをやめたのは、それが豆粒ほどの大きさになった頃だった。


 彼は視線を落とし、コールタール色をした地面を歩く。


 少年の服装は貧相だ。

 被るハンチング帽は、つばが取れかかっており、カーキ色のジャケットはほつれ、そこかしこに穴が開いている。髪の毛は綺麗な漆黒だったが、整えられていない為、縮れている。


 彼はこのランディキウムでは珍しくも無い子供だった。

 市役所の福利厚生も届かず。街の人々からまさに見捨てられた彼らは、ゴミ拾いや靴磨き、最悪の場合犯罪に手を染めることで、その生を長らえさせている。


「っ!? ……?」


 少年が角を曲がった時、目の前に、黒く大きな影が立ちはだかった。


 非営利活動法人である「サンライト」のバッジ。それを胸に付けた長身の男が、少年の目の前にいた。


「……」


 男は長身であったが、大男ではなかった。


 スーツを几帳面に着こなし、少年と同じように漆黒の髪をしている。勿論、少年のように手入れのされていないボサボサ髪ではなく、丁寧に櫛を通してワックスで固めたような、きちっとした髪型だ。


「な、なんだよ……」

「落とし物だ。取ってきた」


 そう言って、男は右手に持った物を差し出す。それは天へと垂れる糸であり、その先には鮮烈な赤色をした風船が、しっかりと括り付けられていた。


「えっ? ……ええっ!?」


 少年は声をあげる。


 失った筈のものが目の前にある。しかも、ビルよりも高く、だれも手が届かない場所へ行った物がだ。

 それは普通、あり得ない事だった。


「どうした、君のだろう?」


 少年は男の顔をまじまじと見る。


 目鼻立ちは限りなく整っており、若干無機質な印象を受ける。だが、彼の瞳は燃えるような琥珀色で、暴力性をありありと示していた。


――人の皮を被った獅子


 少年は、なんとなくそんな印象を受け、恐る恐る、刺激しないようにあとずさり、逆方向へ走り出した。


「……」


 男はしばらくその姿を見ていたが、深く息を吐くと、踵を返した。



――



――非営利活動法人「サンライト」

 ランディキウムをはじめ、世界中にあふれる都市部の路上生活者、その支援を目的に作られた組織であり、活動資金の大部分を寄付と資産運用に頼っている。

 活動内容は多岐にわたり、孤児院の運営、社会復帰支援なども活動の一つである。


 道化師の仮装をしたサンライト職員が、風船を配っている。服装と同じく様々なビビッドトーンの風船が、その手には握られていた。


 道化師の職員は、メイクの下からでも分かるような満面の笑みを浮かべ、少女に青い風船を手渡そうとする。


「……」


 しかし少女はそれを無視して通り過ぎる。


「全く、無駄なことをやっているね、フォトスフィアは」


 道化師を揶揄する言葉が投げかけられた。


「そのくせ、まるで『僕たちこそがサンライトの顔だ』なんてことを思ってそうで、本当に反吐が出るよ」


 道化師に話しかけているのは、銀髪の女性だった。

 スーツを滅茶苦茶に着崩して、嘲笑と狂気をはらんだ表情を顔に張り付かせている。サンライトのバッジをつけているが、それは無残な形に壊れていて、一見してバッジなのかすら分からない。


「……」


 道化師は動じた様子も無く、道を歩くスーツ姿の人々や、路上生活者へ手を振っている。完全に無視する構えのようだ。


「もしかして、こんなことが本気で世のため人のためになると思ってる?」


 しかし銀髪の女性は話を続ける。その姿は、獲物を狩ろうとする豺狼のようだった。


「全然違うよね? 風船一つで救われる人間はいない。僕たち――アンブラがやってることに比べれば」

「ロボ」


 突然かけられた男の声に、女は振り返る。それと共に銀髪が揺れ、狼が主人に恭順するようだった。


「レオ! どうしたんだい? 僕に会いに来るなんて、もしかしてついに――」


 豺狼髪の女は声の主を確認するや、先程とは打って変わって子供のような愛嬌で、彼に語り掛ける。しかし、声の主――獅子瞳の男は、表情を意思を丁寧に消し、抑揚のない声で言葉を続ける。


「そのあたりでやめるんだ。私達の仕事も、彼らの仕事も、等しく尊いものだ」


 ロボと呼ばれた豺狼髪の女は、口を尖らせる。


「だ、だって……」

「すまないな、私のバディが迷惑をかけた」


 獅子瞳の男――レオは道化師に一言謝罪すると、ロボを視線で促して、その場を後にした。



――



 夕陽の中、掲げたグラスを揺らす。そこに映る琥珀色の世界がぐにゃりと歪んで、持ち主の権力を表した。ランディキウムで最も高いビル、アイグル貿易本社の最上階から見た街は、彼の掌で揺れている。


「ふふっ」


 ニコラ・スレイマンは、その脂肪が張り付いた頬を、不格好に歪めて微笑む。


 アイグル貿易は、本社をランディキウムに構える世界有数の貿易商社だ。取り扱うものは鉄鋼、食品類、精密機器など多岐にわたり、優良企業の代表格と認識されている。


 ただし、それは表向きの話である。一枚めくれば商品の中には麻薬や非合法な動物、果ては人間さえも扱う。清廉潔白からは程遠い経営だった。


 ニコラの脇で内線のベルが鳴り、彼はスピーカーをオンにした。


『スレイマン会長、報告です』

「おおジグラットくん、どうだった?」

『今回も外れでした。やはりそう簡単な場所には隠さない、という事でしょうか』


 そんなアイグル貿易を自浄する為、改革に乗り出す男がいた。ニコラの前任者……つまり、前会長リュクスである。


 彼は急進的に社内の浄化を始めたが、腐敗の根は深く入り込んでおり、彼と周囲の側近だけでは、既に手遅れなほど腐り切っていた。

 だからこそ、ニコラが前任者を「事故死」させる事も、その後釜に腰を据える事も、容易な事だった。


「そうか……まあ、いい、こちらには時間がたっぷりある。焦らずに行こうではないか」

『承知しました』


 前任者は事故死の直前、会社が持つ純資金のうち、大部分をどこかへ逃がしていた。調査をしているが、全く見つかる気配はない。


「しかし……何処に隠したのやら」

『会長、やはり彼の息子が怪しいのでは?』


 前会長の嫁は死別していたが、息子がいた事は調べがついている。内線の向こうにいる男、ジグラットは前任者の派閥に居た人間だが、現在は実質的にニコラの懐刀として信頼されていた。


「いや、それはないな」


 元前任者派閥だろうと、手心を加えず追及する姿勢に舌を巻きつつも、ニコラはその子供が無関係だと踏んでいた。


 父親が死に、めぼしい財産をアイグル貿易が巻き上げた。すでに彼は、路上生活者の仲間入りをしているはずだった。


「息子が持っているとすれば、あの生活はしていないだろう。どちらかと言えば――」


 ニコラが言いかけた時、内線越しに何者かの怒声が聞こえた。


「どうした?」

『すみません会長、どうやら受付の方でいつもの記者が現れたようです。処理してきます』


 その言葉を最後に、内線は切れた。


「ふん、薄汚いゴシップライターが」


 ニコラは鼻で笑うと、グラスの液体を一息に飲み干した。



――



 夕刻過ぎ、レオが扉を開くと、むせ返るような熱気が彼の顔を叩いた。


 高層ビルが立ち並ぶランディキウムの街、しかし、建物全てが高層ビルというわけではない。

 裏路地の更にその奥、ビルとビルに挟まれ、ほとんど潰れかかっているような建物。ごみ溜めのような酒場だったが、中にいる人間は意外なほど多い。


「ふふっ、いいねえ、堕落の坩堝って感じだ」

「ロボ、口を慎んでくれ」


 中にいるのは昼間から酒を飲んでいるような無職の中年や、それに駄賃をねだる子供達、そして正規の店舗では雇われないような、傷物の娼婦たちだった。


 ナノマシン暴走災害から二〇年というニュースを聞き流しつつ、レオは店内を進んでいく。


 喧騒を縫い、酔いの回った男達に会釈をして、二人は奥まった席へ向かう。

 そこは不健康なネオンの灯りも届かず、その極彩色が暗がりを作っていた。


「首尾はどうだ?」


 レオはその暗がりに声を掛けると、軽薄そうな男が身を乗り出して、ゆらりと手を振った。


「今夜一〇時から〇時まで、標的が全て集まって本社ビルで会合をするとのことだ」

「へぇ、いつもここで飲んだくれてる役立たずも、たまには使えるじゃないか」


 ロボは皮肉を隠そうともせず、嘲るように男を見た。


「ま、これが俺の仕事だからな」


 男は彼女の言葉を受け流し、肩をすくめて見せた。既に酒を飲んでいるのか、ネオン光の中でも、彼の顔は赤らんで見えた。


「助かった。対価は何が欲しい?」

「奢りだよ……内通者の橋渡しをしただけで、金なんか貰えるかってんだ」


 男は手を振って断る。彼の仕事は表向きは記者だが、本当の仕事は情報屋であり、サンライトとも懇意だった。


「そう言うな、労力はどうあれ私達は助かっているからな、金を受け取らないなら私からも奢らせてくれ」

「んじゃ、いっちばん高い酒をボトルで入れてくれや」

「承知した」


 レオはバーテンダーにサインを送り、彼は真新しいボトルに男の名前をサインする。


「……相変わらずの伊達男っぷりだね、女だったら惚れてたぜ」

「それは良かった。私も君が女なら、絶対に親しくなりたくないからな」

「そりゃあそうだ!」


 情報屋は下卑た笑い声をあげ、テーブルに乗っていた安酒をボトルで呷った。



――



 日が落ちて、抑揚のない曇天は、街の灯りに照らされる。その中で、レオとロボはアイグル貿易の本社ビルを訪れていた。


「さてレオ、仕事開始……だね」


 二人の服装に変化はない。レオは几帳面に着こなしたスーツで、ロボは滅茶苦茶なスーツだ。


「ああ、始めよう」


 二人の会話はそれだけで、ただ仕事帰り、スーパーに寄るような気軽さで、ビルの中へと入っていく。


「あ、あの……?」

「ああ、君は気にしなくていいよ、まあ、死ぬのが嫌なら余計なことをせず、ビルから出ていくんだね」


 ロボにそう言われた受付嬢を、ちらりとだけ見てレオは先を急ぐ。社員証を持たない彼らが目指すのは、非常用を兼ねた階段だった。


「待て! ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ!」


 階段に到達しようかという時、彼らの前に警備員が立ちふさがる。


「うるさいなあ……ねえレオ、やっていいでしょ?」

「君の能力は範囲が広すぎる。先に私から行こう」


 そう言って、レオは右手を目の前にかざし、そして握る。


「一体何を――」


 警備員が口を開きかけたところで、レオの腕が左右に振られる。次の瞬間には、鮮血が辺りに迸っていた。


「きゃあああああああああ!!!」

「な、なんだ!? 何が起こった!」

「け、警察だ! 警察を呼べっ!!!」


 レオの右手には、鈍色に輝く刃が握られていた。


――覚醒者(アウェイカー)

 二〇年前のナノマシン暴走災害。それ以来、特殊な能力に目覚める人間が数多くいた。

 多くは怪我の治りが早い、異常な視力の良さなどの、直接的に危険な能力ではなかった。しかし、一部の能力は、世界のパワーバランスさえ崩す凶悪なものだった。


 体内で化学物質を合成する。異常発達した筋力。触れた物の組成を変質させる……これらの能力は、政府が管理下に置き、絶対に野放しにしてはいけない能力だった。


「便利だよね、その能力……僕もそのくらいが良かったな」

「そうでもないさ、なんせ器用貧乏だからな」


 二人は軽口を言い合うと、階段を駆け上る。



――



 階段を疾風のごとく駆け上がり、立ちはだかる障害を切り伏せる。レオは両手にそれぞれ持った刃を投げ捨てると、新たな刃を手の内に生成した。


「……むっ」


 現在の階数は六〇階。最上階までは、階段をあと四回ほど登る必要があったが、レオは何かに気付いたように身を翻して、戦闘態勢を取る。


 それと同時に雷が震えるような音が響き、寸前までレオがいた場所が爆ぜる。


「一撃で殺すつもりでしたが」


 爆ぜた場所、そこに現れていた人影が、ゆらりと立ち上がる。初老を思わせる風貌と、それに不釣り合いな体躯……ジグラットが、床にめり込ませた拳を引き抜きつつ、獅子瞳を睥睨した。


「……」


 レオは一切の感傷も無く、手に持った刃を突き出す。

 ジグラットはそれを体をよじって躱すと、裏拳で刃を弾き飛ばした。


 しかし、レオはそれに動揺を見せず、すぐに刃を再生成して斬撃を滑り込ませる。


――恐らく、この男が情報屋の言う内通者なのだろう。


 レオは直感的にそれを察した。


 不本意な主とはいえ、自分がそうなるように仕向けたとはいえ、警護の仕事は手を抜かない。なんと融通の利かない義理堅さだろうか。彼は内心感嘆していた。


「っ!?」


 肉を割く音が響き、獅子瞳が大きく見開かれる。


 素手で床を砕き、武器を恐れず叩き落した時でさえ、レオは動揺しなかった。しかし、今起きた事態には驚かずに居られなかった。


 繰り出された刃は、ジグラットの腕に深々と食い込んでいる。回避不能な攻撃ではなかった。必殺の一撃というよりも、距離を取らせる意図の攻撃だった。


「っ!!」


 なぜ受けたか、そう考えるよりも早く、ジグラットの拳が眼前に迫る。レオは刃を手放して距離を取った。


「……流石です」


 ジグラットは血の滲んだ腕から、刃を引き抜いて放り投げる。出血の勢いが増すかと思われたが、そこからは一切の血が溢れる事は無かった。


 覚醒者同士の戦いは、通常の戦闘理論が適用されない。


 負傷は可能な限り避ける。武器を持っている有利さは手放すべきではない。それらのセオリーは肉体の回復速度、武器の生成能力によって覆されていた。


「……」


 床を蹴り、レオは上階への道を走り出す。


 レオは彼我の相性を慎重に測り、不利を悟ったのだ。斬撃は再生能力に対して相性が悪すぎた。


「逃が――」


 ジグラットがレオを引き留めようと手を伸ばした瞬間、青白い閃光が彼の背後から迸り、身を焦がす痛みが全身を襲った。


「っ!! ――っ!」


 すぐに再生の始まった彼の眼球には、青い炎を溢れさせる人影が写っていた。像がはっきりする程に、それが女性である事、そして衣服を滅茶苦茶に着崩している事が分かり始める。


「ロボ、相手を頼む」


「もちろん構わないよ、ほかならぬレオの頼みだからね」


 豺狼を思わせる銀髪をゆらして、ロボは鷹揚に返事をした。



――



 念動力とは、意志の力で物体を動かす事である。


「超再生? 良いじゃないか、いくら燃やしても良いって事だろう?」


 ロボは身に纏った蒼炎を躍らせて、ジグラットの行く手を阻む。いくら超再生の能力があるとはいえ、痛覚が存在しないわけではない。肺腑まで灼熱に侵されれば、まともに動くことすらできないだろう。


「火炎操作……念動力の中でも危険度は最高クラスと聞きます。そして、拘束式も」


 覚醒者の中でも念動力系の能力は特に危険とされ、通常の場合、投薬や催眠術により物理的、精神的な能力の制限が課せられるはずだった。


「っ!!」


 無造作に払われたロボの右腕から、灼熱の奔流が溢れ出す。盾にした両腕が、一瞬で焼き焦がされる感触に歯噛みしつつも、ジグラットはロボの懐に飛び込む。


「そうだね、僕には実に三〇種以上の薬物、五重の催眠制御が掛けられている」


 燃え尽きた両腕は既に生え変わっている。ジグラットは一息に拳を突き出した。

 しかし、ロボは銀髪をゆらしてそれを避けると、突き出された拳を焼却する。


 そして空振りの隙を突き、ジグラットを力強く蹴り飛ばした。


「その制御を外すのはまあ、無理だろうね。普通の覚醒者なら」


 再び距離を開けられ、ジグラットは消し炭となった拳を再び生やす。その姿を見てから、ロボは自分の頭をコツコツと叩いて満面の笑みを浮かべる。


「ま、僕らは壊れてるから、人間用の拘束式なんかじゃ、縛れないのさ」


 その表情はおおよそ友好的な印象はなく、むしろ獰猛な豺狼の威嚇のように見えた。


「どうするんだい? 僕とこれからずっと遊んでいてもいいけれど、早くしないとニコラを含めて役員連中をレオがぶっ殺しちゃうよ?」


 あからさまな挑発。それは圧倒的有利に居るからこその発言だった。


「……――シィッ!」


 ジグラットは、改めて拳を上げ、ロボとの距離を詰める。それは拳闘の構えに似ていて、その拳は神速をもって彼女の身体を貫くべく、まっすぐと伸びていく。


 挑発だと分かっていても、彼には乗るしかなかった。


 このまま決着をつけられず、時間を無為に使う事は出来ない。かといって逃げる事も出来ない。窮鼠と化したジグラットは、自らの全力をもって目の前にいる豺狼を打倒しなければならなかった。


「ふふっ、いいね、そう言うのは嫌いじゃないよ――」


 ロボは迎え入れるように両腕を開き、炎の宿る瞳を大きく見開いた。



――



「恐らく、私はニコラたちに殺されるだろう」


 沈黙を破り、リュクスは静かに口を開いた。


「別にそれが怖くなったわけではない。臆病風に吹かれるくらいなら、最初からこんなことはしていないからね」


 二コラの前任……リュクス会長は、傅くジグラットに視線を向ける。その眼差しは穏やかで、苛烈な改革を断行する辣腕家には見えなかった。


「……」


 ジグラットは何も言えず、ただ深々と頭を下げるのみだ。

 彼はリュクスに心からの忠誠を誓っている。

 命じられれば、死すら厭わずにそれを実行する意思すらあった。


「心残りは、お前と……息子か」


 その忠誠に、リュクスは存分に報いてきた。信頼を置き、妻の忘れ形見である息子とも、何度か会わせて、家族ぐるみの付き合いとなっていた。ジグラット自身、実の息子であるかのような気持ちで接している。


「お任せください、坊ちゃんは、私の命に代えてでも無事に――」


 ジグラットの言葉を制し、リュクスは首を振る。


「そういう所だよ、私には息子より君の方が心配だな」


 そう言って、リュクスは困ったように笑う。


 ……その三日後、リュクスの乗る飛行機は原因不明の墜落事故を起こした。



――



「はぁ、はぁっ……――早くしろ!」


 獅子瞳の男が扉を文字通りに切り開いて、ニコラ以外の役員を切り殺したのは、ほんの数十秒前の出来事だった。


「りょ、了解です! 離陸します!」


 役員たちが肉の壁となり、屋上に設置されているヘリポートまで走る時間は残されていた。

 ローターが回転数を徐々に上げ、周囲に突風を巻き起こす。


「……」


 レオの獅子瞳は、それをものともしない様にニコラをじっと見つめている。


 風によりスーツは乱れ、ネクタイが揺らめく。しかし彼の表情と歩調は、機械のように正確だ。


「――よしっ!!」


 ヘリ自体が揺らぎ、離陸したことを察したニコラは声を上げる。しかし、彼に追いつかれる事は無いというのに、心の中には奇妙な怖気が渦巻いていた。


「早急に距離を取れ!」


 パイロットに怒声を浴びせてから、ニコラは携帯端末にも同じように声を荒げた。


「ジグラット! あの襲撃者をビルから出すな!」

『……』

「ジグラット!? おい、どうした!?」

『ぁ――……あ、これか、僕との戦いでよく壊れなかったね』


 ニコラの耳に届いたのは、冷酷な狂気をはらんだ、豺狼のような女性の声だった。


「お、お前は――」

『ただのボランティアだよ。君たちがあんまりにも悪い事をしているから、殺しに来たんだ』


 心底楽しそうに、電話口の声は歌う。


「だ、誰に頼まれた!? 金なら払う! 依頼料の倍額だそう! だから――」


――ちっ、ちっ、ちっ。


 舌打ちが三回、それだけでニコラの懇願は遮られてしまった。


『僕はボランティアって言ったんだ。依頼者も居なければ、報酬も無い……奢りだよ』

「なっ――」


 彼にはその言葉が信じられなかった。


 無償で、誰の依頼でもなく、こんな規模の殺戮を行う団体など聞いたことが無かった。そもそも割に合わなすぎる。誰が、一体どんな理由で、正当化されるはずの無い殺人を行うのか。


『……あ、そうだ』


 電話口の女……ロボは、思い出したように口を開く。


『今はヘリに乗ってる? ならレオを見てよ、面白いものが見えるよ』

「なんだと?」


 嫌な予感がする。しかし、ニコラは視線を向けるしかなかった。レオとは先程まで追ってきていた男の名だろう。そう思った瞬間、獅子瞳と目があったような気がした。


 レオはその場にしゃがみこんでいた。既に距離は二〇メートルは離れており、重火器でもなければ危害を加えることは不可能だ。


「うっ……」


 そのはずだった。


 しかし、琥珀色の瞳が輝くと、レオは見たことがないほど長い刃を、その右手に作り出し、そして地面を蹴り、ヘリに向かって「跳んでくる」


「ま、まさかっ!? お、おい! 旋回だ! すぐに旋――」


――キンッ


 言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。


 レオの手に握られた長大な刃は、ヘリコプターのローターとフレームを、ニコラごと両断したのだ。


『ふふっ、聞こえているかな? まあどっちでもいいけど、さようなら、ニコラ・スレイマン』


 手から滑り落ちる携帯端末。そこから発せられた声は、爆音にかき消された。



――



――自分の手の内にある物は、いつか無くなってしまう。


 それは少年にとって事実であった。これから先も覆る事は無いだろう。


 暗灰色のビル群と、深い色をした空を眺めて、彼は息を吐く、それは白い靄となり、自分の中にある憂鬱が形を成したようだった。


 今更、両親の仇が死んだところで、何も戻っては来ない。一人、寒々とした公園のベンチに座る。少年にとって、もう既に仇討などどうでもいい事だった。


「坊ちゃん!」


 懐かしい声が聞こえて、少年は首を回す。その先には、数日前に風船を取ってきた男……レオと、ジグラットが立っていた。


「ジグ爺!? なんでここに?」


 あのアイグル貿易本社襲撃事件、それにより彼は死んだと報道されていた。ここに居るはずがないどころか、この世に存在しない人間の出現に、少年は驚きの声を上げる。


「落とし物を届けに来た」


 走り寄った少年に、レオは無感情に口を開いた。


「君の物だろう?」

「う、うん……」

「坊ちゃん、私は彼らに命を救われたのです」


 少年は獅子瞳に威圧されて、身体を強張らせるが、ジグラットは優しく諭すように、少年の肩を叩いた。


「すぐにお話しします。どうか、ご安心ください」


 そして始まる長い話に、少年は深く相槌を打つ。


「――というわけです。私と坊ちゃんはサンライトの庇護に入り、隠した資産はすべて活動資金として、寄付する予定です」


 少年はジグラットの言葉に、嗚咽を漏らしてただ頷くしかしなかった。


「感謝します。死への道しか残されていなかった私に、生きる道と意味を与えてくれたことに」


 ジグラットはレオ達と同じように、実行部隊(アンブラ)へ編入、そして少年は彼の下で別人として生きていく、それがジグラットとサンライトの間でかわされた契約だった。


「感謝など必要ない、寄付金は十分もらっている。奢りだよ」


 表情の乏しいレオが、その時だけは笑ったように見えた。

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獅子と豺狼 奥州寛 @itsuki1003

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