第28話 日常へ (終)



「雪は、やんだのか……」


 自室の戸を開けさせると、ガラス張りの縁から、雪に反射した眩い光が差し込んできた。

「ぶみ。ぶみぃ」と膝にいる雪宮が、何事か言った。相変わらず何を言っているのか、さっぱりわからない。貴之しかわからないそうで、他の家人も雪姫に訳してもらうか、筆談しているのだそうだ。


「ぅむ。にっちゅうは、ひもさし、あたたこうなりましょうが、ひがくれましたら、ひえましょう。こよいも、あたたかくなさいませ。ゆきみや、いう」

「そうか」


 吐息をつく。日も高いというのに、雪乃は暈し模様の夜着に椿と南天が描かれた羽織を着たまま、折りたたみ式の文机を布団に持ってこさせ、布団に座ったまま手紙を書いていた。火鉢と羽織った上着と膝の雪宮のおかげで部屋は暖かだ。風邪も治りつつある今、雪乃は非常に暇を持てあましていた。


(熱も下がったし、食事だって、いつもどおり食べられるというに……)


 寒空の中、手紙一つ残して勝手に封じに出かけていった挙句に、風邪を引いた雪乃に向かって、樹はこんこんと説教をしたあと、問答無用で手水以外での自室外への移動を禁止した。

 許しが出るまで、当分はおとなしくしていることにする。泰雪にはまだ一度も会っていないが、心配をかけたようだ。怒りは全て貴之に向かったと見え、貴之は泰雪のご機嫌取りに勤しんだと雪姫から聞いた。


「……今度お手土産を持ってお見舞いに行きますね。何を持っていくかは当日までお楽しみになさって。祝子さんがもっとお元気になられましたら、ピアノを弾いてきかせてくださいませね。雪乃は祝子さんの優しいピアノが大好きですのよ。お目にかかる日を楽しんでお待ちしております。羽崎さんにもよろしくお伝えくださいね。またお会いしましょう。さようなら。……うむ、できた。誤字もないし、いいだろう」


 手紙を書き終え、丁寧に折りたたんで封をした。話ができる程度に回復した祝子と手紙のやりとりをしている。羽崎が代筆しているらしいが、以前のような手紙のやり取りを雪乃は嬉しく思っている。嬉しくて雪乃のお気に入りの高畠華宵の便箋を使って書いた。

「ぶみ」と膝上にいる雪宮が鳴く。


「ぅむ。ふでまめで、いらっしゃるのは、ようございますが、いささか、ごせいかくがちがうようにおもわれます。ゆきみや、いう」

「煩い。手紙は女学生の嗜みだ。そもそも女学生の手紙はこういう作法を以って書かれるものだ。作法を失してはならぬだろう」


 手紙の交換は女学生にはなくてはならないものだ。授業中にもノートの切れ端に書き付けて教師の目を盗んでまわしているほどだ。

 雪宮の頬を突っつくと、ぷにょっとした感触がする。なんともよい感触である。


「後で家人に申し付けて届けてもらってくれ」


 言いつけると雪姫は「ぅむ」と頷いた。「またしばらく暇だな」と呟いた。

 少女小説誌を数誌どころか文藝春秋などの文芸誌も読み、話題の「鞍馬天狗」の新作もすでに読み終えている。さすがに本は飽きた。


「雑誌も次号まで間が空くし、手紙も一通り書いたし、年賀状もすでに書いたし……気が腐りそうだな」


 溜息をついて、膝の雪宮を抱きすくめて頬ずりする。毛並みのさわり心地が最高によいのだ。


「ゆきの」


 雪姫が何事か、雪乃の袖を引っ張った。視線をやると、「ぅむ」と両手を広げる。抱きしめろという意思表示らしい。

 小さく笑って、雪宮を脇に下がらせ、「ほれ、来や」と空いた膝をたたいた。雪姫は飛び乗り、心なしか嬉しげに雪乃の胸に顔をうずめた。頭を撫でてやっていると、にぎやかに廊下を来る足音がした。


「うわっ、月姫! ……貸せって、奪った後に言うのは、どうかと思うよ。……あう~下がってろってひどいよ、月姫ぇ。僕、主だよ」


 蒼い着物姿の童女――月姫は部屋の前まで来ると盆を持ったまま一礼し、そそと歩み出て雪乃に盆を差し出し、己の前に扇を広げた。


『雪乃さま 御薬湯のお時間です』


 扇の文字を眺めてから、「ご苦労」と頭を撫でると、表情の乏しい月姫は撫でる手にすりすりと頬を摺り寄せた。

 月姫は主である貴之から薬湯を運ぶ役目を奪っている。普段はほとんど姿を現さないそうだが、雪乃の前にはよく現れる。月姫は陽炎のように姿を消すと同時に、陽気な声が掛けられる。


「お邪魔しまーす。雪乃ちゃん、お加減いかが?」


 貴之が廊下から、何事もなかったかのように現れた。雪乃は素直に心境を吐露する。


「気が腐る! 貴様からも樹に言ってくれ」

「あはは……怖いから勘弁して。それに、あと一週間ばかりで年明けでしょ? 年明けにはお仕事たくさんあるわけだから、それに備えてなきゃ、ね?」


 貴之の誤魔化すような台詞に、げんなりと溜息をついた。


「今回も鬱陶しい挨拶の応酬やら、茶会やらに出席せねばならぬのだそうだ。……四十路や五十路の親父どもと茶などしてもつまらぬ。前ので懲りたぞ」


 今年のこと、当主名代として、泰雪の代わりに神無月の家人はもちろん、各家々の当主や親族との挨拶もし、集まったついでに開かれる茶会で手前を披露させられ、くたくたで家に帰れば、正月の祭事が待っていたのだ。泰雪は何年も、よく文句も言わずにこなしていたのだと感服する。


「今回は、どこだっけ? 集会場所」

「奈良だ。……遠いから面倒だ」


 移動で丸二日つぶれてしまう。途中で急坂を昇る際は人が駆けるのより遅い速度まで落とす。さらに震災以降は用心のためにのろのろ運転していると聞いている。ゆっくりと進む列車の窓から景色を眺めるのもいいが、会合があると思うとうんざりする。


「汽車は楽しいのに。……でもさ、着いたら暇を見つけて、奈良公園に行って鹿に餌やりしようね」

「発情期も終わっておるし、角も切っておるから大丈夫であろうが、やたらとはしゃぐなよ」


 奈良では鹿は神の使いとして崇められている。傷つけでもしたら地元との仲が拗れてしまう。面倒ごとが増えるのはごめんだ。


「それから、春日大社に……」

「一人で行って来い」

「あう~冷たい~」


 春日大社の別宮の若宮社には夫婦円満、縁結びで有名である。真紀子が嬉々として樹を連れて行きそうだなとふと思う。

 ぼんやりと考えつつ、貴之を見やると、貴之は雪乃を見て静かに微笑んでいた。ここ数日、貴之はよくこんな顔をする。雪乃は無言で宮と姫を投げつけた。


「えぇ~いきなり酷い~」


 投げつけた二体の式神をなんとか受け止めて、貴之は抗議する。投げられた宮は「ぶみゅぅ」と鳴き、姫は「しくしく」としゃべっていた。


「貴之、貴様に言っておくことがある」


 雪乃は表情を引き締めて貴之に向かって端座した。貴之は式神を脇に座らせて、胡坐であるが座りなおし、少々真面目な顔をした。


「貴様は我が家の居候で、一応私の婚約者だが、貴様は単なるバカ貴之なのだ」


 貴之は「寄るな」というのにいつも傍にいて、やたらめったらに雪乃の身体に触れてくる痴れ者で、本当にどうしようもないお調子者で、どうしようもないバカ貴之だ。

 でも、何度も雪乃を支えてくれたのもバカ貴之なのだ。あの時の雪の白さを、手の温もりを、雪乃は忘れることができない。

 騒がしいけど、居なければ寂しいと、帰りを待ちわびたこともある。貴之を失いたくないと強く感じた。数日前ももちろん、殺生鬼と初めて見えた日にも強く感じた。

 同時に思う。雪乃のために、目の前のこの男が傷つくのは、我慢ならない。


「あのようなこと、二度とするなよ」


 平手で打ちすえて睨み付けた。思い出すだけで、目眩がするほど腹が立って我慢がならない。平手で打たれたというのに、貴之は優しく微笑んだ。


「うん。心配してくれてありがとう」


 本当に嬉しげに、邪気の無い笑顔で笑った。でも、子供じみたところの感じられない、まさしく大人の男を思わせる笑みであった。

 撫でられたような心地になり、次いで疼くような、密かな胸の鼓動を感じた。笑顔のまま貴之は穏やかに言葉を続けた。


「でも、又するよ」


 雪乃の言葉に一度は肯定しておきながら、真っ向から否定してみせる。どういうつもりだと雪乃は無言で睨み付けた。

 雪乃に睨まれてなお、貴之は微笑んでいた。先ほどの静かな笑みで、でも先ほどよりも優しさで溢れる笑顔であった。どんな言葉よりも暖かで、優しさの溢れる笑みに、胸が刹那詰まる。

 だが、すぐに気を取り直して、抗議のために貴之を睨む。

 しばらくして、優しい眼差しで受けとめていた貴之は、表情を真摯なものに変えた。厳かなまでに表情を引き締めた貴之は、整息し顔と同じく、厳かな耳心地のよい声音でいう。


「胸に誓うは唯一事。僕はお前を守るよ、雪乃」


 祝詞のように澄んだ言葉は、雪乃の胸をまっすぐ打った。波紋が広がり、じんと胸が熱くなる。火が灯ったように頬が熱くなった。


「……バカ貴之」


 貴之は強い眼差しに雪乃を映して、拒絶も受諾も期待せず、ただ静かに雪乃を受け止めてくれていた。静かな瞳はどうしようもなく雪乃の胸をふるわせた。芯からの情動に突き動かされるように、雪乃は膝で前へにじり寄り、立ち上がって思い切り殴りつけた。


「う~、久々のいい拳だけど、どうしたの?」


 頬を押さえて、いつもの調子でのたまう貴之を、雪乃は内心の激しい狼狽を隠して冷然と見下ろす。


(何故このように、たかがバカ貴之相手に、うろたえねばならないんだ!)


 貴之に良いようにあしらわれているようで、非常に癪にさわる。


「貴様はいつから、この私を〝お前〟呼ばわりし、なおかつ気安く呼び捨てにできるほどお偉くなった?」


 きっと見据えてから高らかと言い放つ。


「来や、雪姫!」


 呼び声とともに薙刀へと変じた雪姫は雪乃の手に収まった。室内ということを意識してか、以前よりも短めだ。薙刀を構えた雪乃に貴之は「はうはう」と慌てつつ、


「ああっ、道具を使うなんてっ、そんなっそんなっ早すぎる!」

「訳がわからぬ!」


 後ずさる貴之に向け、雪姫を振るった。

 ――が、寸前でよけると、すぐさまガラス戸を開け放ち、白銀に煌めく庭に飛び降りた。


「まずは、清く正しく交換日記から始……」

「黙れ! 逃げるな、バカ貴之!」


 貴之の言葉をさえぎって怒鳴りつける。同時に、躊躇することなく、雪乃も白銀に煌めく世界に飛び降りた。




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花闇の帝都に瑞花咲く 菅野美佐 @sawa1115

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