第27話 ただのバカ貴之



 雪の舞う中、傘を差しつつ、二人並んでゆっくりと歩いていった。

 傘は着物に合わせて、朱色の蛇の目傘である。会話の一つもしなかったが、不思議と心は満たされた。

 鳥居をくぐる前に傘を畳んで、狛犬の脇に寄せておく。代わりのように雪姫、月姫は、それぞれ武器へと変じ、雪宮を雪乃の中へ来させた。

 鳥居をくぐると、閉じ込められた鬱憤か、殺生鬼を中心に溢れんばかりの瘴気が満ちていた。二寸ほど積もった雪さえ塗りつぶさんばかりの濃さであった。


『待ちわびたぞ、大餌ども。今度こそ喰ろうてやろうぞ』


「それは、こちらの台詞だ。今度こそ封殺して、祝子さんの件の落とし前つけてくれる」


 ふんと鼻を鳴らして、自然体から先を衝きつける中段の構えに移行させて宣言する。

 神社へ来る前に本体を貴之、尾の擬態を雪乃と役割を分けた。前に見た限りでは、幻惑能力を有しているのは本体であり、擬態はあくまでおとりなのであろうと判断した。

 幻惑されたとしても、月姫ならとっさに刃に指を入れて痛みで意識を保てるのでよいという貴之の主張を、雪乃はおとなしく受け入れた。


「オン アミリテイ ウン ハッタ!」


 貴之は真言とともに太刀を地面に突き立てた。貴之の霊気は太刀を通して地面を煽状に広がり、おんと大気が鳴動。鬼魔降伏を祈念する軍茶利明王の真言に煽られて、擬態の足元から、本体が地面を突き破って漆黒の瘴気とともに現れた。

 同時に貴之と雪乃はそれぞれに向かう。雪乃の役割は本体と擬態を分断することだ。


「せいっ!」


 気合とともに雪乃は薙刀を振り下ろす。擬態は後方に飛びのき、袖を振って瘴気をさらに場に溢れさせる。だが、雪乃の中の雪宮の能力で、瘴気では雪乃を蝕むに至らない。


「はっ」


 貴之は気合とともに太刀を振り下ろす。

 だが、本体を分断するにはいたらず、火付きの悪い石炭みたいに、ぼわぼわと漂う黒い煙のようにでる瘴気を一閃したのみにとどまった。熊のような体をしている割にすばしっこく、馬のようなしなやかな動きで太刀をよけてしまった。

 ふ、と息を吐き出し、気を集中している。間を取り、冷静に相手を観察しているようだった。

 擬態は腕を鞭のように長くしならせて、雪乃を捕えようとする。雪乃は刀で腕を切り払い、石突で胴を打ち据える。


 本体の力を十とすれば、擬態の力は三割程度だ。その上、本体がいれば再生するため、いくら相手をしても際限がない。だが、本体に力を使わせ、本体と分断することは十分に意味がある。

 貴之は一間の間合いを取って呼気を整えていたが、大きく息を吸い、ふっと鋭く吐き出した。

 瞬間、一気に間を詰めた。裂帛の気合とともに太刀を横一閃。本体に一撃をくれる。

 が、本体は身をひねり、二手目の攻撃を逃れようとする。

 本体からぶわりと瘴気が放たれる。が、貴之は刀印でもって瘴気を薙ぎ払う。


「殲!」


 腕を一閃し、貴之の霊力でもって霧散させる。


「オン マユラ ギランデイ ソワカ!」


 毒を喰らう孔雀明王の真言を唱えると、貴之を中心にして、薄ぼんやりと神社を漂っていた瘴気が蕩けた。殺生鬼すら溶かしてしまいそうな強力な呪であった。

 殺生鬼も、堪らずといった風に身をよじり、己を守るためか、瘴気を放つ。

 刺すような鋭い瘴気が勢いよく放たれる。貴之は再び瘴気を祓い、次いで太刀を振るう――かに見えた。


「くっ……」


 瘴気を祓うことはできても、突如として眼前に跳ね上げられた雪を払うことはできなかった。

 まずい。あれが来る。

 雪乃が擬態を斬り捨て、貴之の援護をしようと呪を放つ寸前に、貴之の左手首に斑の触手が絡みつく。

 貴之が動きを止める。焦点の合わない目を見て、幻惑されたと知れる。

 数回ひっぱたいてやれば元に戻るだろう。ところが、擬態に阻まれて近づけない。月姫の刃に指を入れて傷をつけているので、意識は保たれているだろう。意識をしっかと保っているうちは大丈夫だと貴之は言っていたが、早めに助けてやりたい。

「貴之っ」と雪乃は叫ぶ。が、貴之は雪乃の言葉に反応したようにポツリとつぶやいた。


「やはり、まずは泰雪か……芸のない。……これ以上、泰雪を汚すな」


 別人のような貴之の声に、雪乃は擬態のことも忘れて身を硬くした。

 全身を震わせるようにして、息を吐くように呟いた貴之に、殺生鬼以上の殺気を感じた。貴之から滾るように溢れた鋭利な裂帛の気に、殺生鬼も戸惑いを覚えているようだ。

 今まで目にした覚えのない貴之の様子に、雪乃とて戸惑った。

 だが、戸惑い以上に感涙を覚えた。先ほどの台詞で、どれほど貴之が泰雪を思ってくれていたか、よくわかったのだ。


(貴之……貴之っ)


 貴之の想いが雪乃の胸を打ち鳴らし、今も余韻を残していた。今すぐ無性に駆け寄りたい衝動に身が震えた。怒りに震える貴之を慰めてやりたいという気持ちが胸に溢れて、泣きたいような気持ちに胸がきしむ。

「やっ!」と気合とともに雪姫を振るう。擬態は片腕を犠牲に後退する。本体は獲物を完全に捕まえるまでは動かない性質なのだろうか、まったく動きを見せない。

 貴之が捕われている間に本体をという考えもある。しかし、そんな考えは、即座に却下した。

 きっと貴之は、幻覚とわかっていても苦しいのだろう。貴之は先の祓いで意識を捕われたときのことを多くは語らなかったが、祓いの折に垣間見た貴之の顔は、苦渋と悲しみに満ちていた。


(あのような顔……させてたまるかっ)


 雪乃の胸を、貴之への情と殺生鬼への怒りが満たしていた。


「睦月……むっちゃん……」


 貴之は呟き、はたはたと涙を溢れさせた。焦がれていたものを目の前にして、咽ぶようであった。

 胸に音が響いた。心臓に杭を打ち込まれたような衝撃を感じたのだ。貴之の声は悔恨が滲み――いや、溢れていた。

 感情が一気に沸点に達した。計算など吹き飛び、気づけば――


「バキラヤ ソワカ!」


 一気に間を詰め、真言のみで擬態を退かせ、裂帛の気合とともに本体に一太刀を突き入れていた。

 おおんと苦しげな鳴き声を発して、本体はまろぶように雪乃の二の太刀を逃れた。雪乃は敢えて深追いはせず、貴之のそばに駆け寄った。


「たか……貴之っ! しっかりせよ!」


 喉を突いて出た言葉は、雪乃が真に言いたかった言葉ではない。だが、いざ言おうとすると、何と声を掛けるつもりだったのか自分でわからなくなってしまった。


「ああ、雪乃ちゃん……あのね、睦月がいたよ。成長したあの子に……逢えた。夢幻の泡影の姿でも、嬉しかった」


 泣くような細い声で貴之は嬉しげに呟いた。


「ああ、それは重畳だな。……ほんに……よきことだ」


 雪乃は静かに首肯した。それしか、できなかった。

 殺生鬼の触手が、意識を祓いに戻せない貴之に向かって再度、執拗に迫り来る。雪乃は慌てずに命じる。


「姫っ、月っ、やれ!」


 端的な命に、雪姫と月姫の式神は人型に戻り、触手を打ち払う。雪姫は擬態へ向わせ、月姫は本体へと向わせる。

 武器以外の使い方は、先の祓いでなんとなく悟っていた。殺生鬼から解放されて覚醒までの時間稼ぎと、時間稼ぎ後に式神を弱らせないためには、これが正しい用法のはずである。

 陰の気を強く持つ月姫を、同じく陰の気の強い本体に当てれば、強い瘴気に式神を弱めることなく対峙させられる。

 割り当てを決めたときに、万一にも貴之が幻覚に捕まった時の対応を考えていたのだった。

 貴之は、ぼんやりとした目で雪乃をじっと見て、呟くように小さな声で話す。


「雪乃ちゃん……僕は、弟を殺した。睦月のね、寝返りを打つ姿も、がらがらで遊ぶ姿も可愛かった。本当に可愛かったんだ。大好きだったんだよ。でも、殺してしまったよ」


「そうか」と静かに応じて、雪乃も呟く。


「でも、貴様は兄様を助けてくれた。だから……私には十分だ」


 そう、十分だ。震災のときから兄の命を助けてくれたと、兄を大切にしてくれているという事実だけで十分だ。

 雪乃にとって、過去の中では一番大事なことだ。貴之には、これ以上は負い目に感じてほしくない。

 貴之は感情を削ぎ落としたような静かな目で雪乃を見て、整息する。


「もう大丈夫。殺生鬼を、祓おう」


 気負いのない静かな声だった。気持ちを切り替えて、祓いに集中できるようにしたのだろう。でも、雪乃には静か過ぎて、不安の棘がちくりと胸を刺した。

 だが、雪乃も気持ちを切り替える。今は目の前の殺生鬼に集中する。

 確認するように一瞬、視線を交わして殺生鬼に向き直る。それぞれほぼ同時に目標に向かって駆け出し――


「姫! 来や!」


 雪乃の声に雪姫は薙刀へと変じ、絶妙の間で雪乃の手に収まった。瞬間、一閃し擬態を切り裂く。


「オン マユラ ギランデイ ソワカ!」


 貴之は本体に向けて先ほどと同じ孔雀明王の呪を放つ。呪は周囲の瘴気を祓い、本体にも到ったのであろう、おおんと鳴き、逞しい体躯を震わせた。


「月姫っ!」


 貴之の呼び声を受け、月姫は蒼に彩られた柄と飾り紐の美しい太刀へと再び変じた。霊力を込め、本体に突き立てた。

 今までで一番の、遠吠えのような嘶きは大気を鳴動させ、今まで以上の瘴気を撒き散らす。月姫で殺生鬼を一時的に地面に縫い取る。逃れようとずんぐりとした体躯をばたつかせるが、貴之は印を組み真言を唱える。


「ノウマクサンマンダ バサラダンセン ダマカラシャダ――」


 真言を唱えるたびに、霊気が高ぶっていく。高ぶった霊気の波動は瘴気を掻き散らす。


「オン キリウン キヤクウン!」


 真言とともに周囲の瘴気ごと、本体に被さるように白銀の網が幾重にも顕現した。


「ノウマクサンマンダ バサラダンセン ダマカラシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン!」


 外縛印を組み、高らかと力強く唱える。


「縛!」


 本体は嘶き、痙攣するように震えたかと思うと、動きを止めた。

 祝子の家で雪乃が瘴気を祓うときに使用した呪と同じものを貴之は使っている。今回は瘴気を場に留めて祓うというより、動きを止めるためだけに用いた。不動明王の験力でもって呪縛する、不動明王縛呪である。

 逃れようと術に逆らおうとしているのか、痙攣するように、びくびくと身体を震わせている本体を抑え、術を維持しながら貴之は雪乃を垣間見る。

 雪乃は本体が外縛されたことで動きの鈍くなった擬態を切り裂いた。だが、まだ封殺できたわけではない。雪乃は波間をたゆたうように揺れながら、元へ戻ろうとしている擬態を捨ておき、本体へと向き直り、間を詰めた。

 切っ先を振り上げ、殺生鬼を警戒しつつ構える。ただちに打突に転じられる八相の構えを取る。


「尊台に帰命し奉る。赫耀したまえ。破砕したまえ。片々に断滅したまえ」


 呪を祈念し始める。印も呪も力を使うための手段にすぎない。印を組まずとも力は使えるが、印を組むときのほうが当然のことながら力を引き出せる。雪姫の力か、真言だけでも通常の施術のように霊力を集中し易い。

 力のある言葉に呼応するように、雪乃の眩い霊気は焔のように雪乃を包む。霊気は一条の光へと変じ、薙刀にも験力を与えていく。

 じり、と雪乃は慎重に間をつめる。


「一切の幽冥を破敗せよ。一切の怨敵を消徐せしめよ。破砕せよ。断滅せよ。めでたし!」


 言葉とともに薙刀を振り下ろし、本体を半ばまで切り裂く。本体を分断し、地に突きたった雪姫から手を離して、宙に梵字を描く。光り輝くもの、遍く照らすものを意味する梵字に次いで印を組み、真言を唱える。


「オン バザラダト バン ナウマクサンマンダ ボダナン ボロン!」


 薙刀の切っ先より光が迸る。脈打つように波動が穿たれる。煌めく波動に嘶く間もなく、殺生鬼はとろけて消えた。

 雪乃は散じたのを見届け、印を解いた。途端に感じた体のけだるさに、長々と息をついた。雪乃は荒くなる息を整息する。汗をかいたらしく、少し寒気がした。

 視線を感じて顔を上げると、貴之が感情をそぎ落としたような顔で、雪乃を見つめていた。感情を感じさせない表情は、貴之の相貌をより端整なものに見せた。雪乃と目が合うと、貴之はそっと踵を返した。身が穿たれたような気がして、動揺して声を掛ける。


「何処へ行く」

「……ごめん。集中が切れたから……居たたまれない。少し……二~三日ほど離れようと思って……」


 掠れたような声で、泣いているような声であった。

 口では二~三日と言いつつ、もう帰ってこないのではないかという不安に駆られた。棒か何かで打ちのめされたような衝撃が全身を駆け巡った。怒りのような激しいものではなく、泣きたくなるような心細さで震えていた。


「お前は、私を置いて行くの?」


 淡々と問いかけたつもりが、未練がましく、泣きそうなか細い問いかけになってしまった。

 これでは「一緒にがんばろうって言ったのに」という言葉を飲み込んだ意味が全然ないではないか。

 貴之が、はっと振り返る。途方にくれたような弱い顔だった。他人を見るような眼差しに、感情は一瞬で沸き立つ。


「――ぐっ!」


 雪乃は感情に任せて貴之の向こう脛を蹴りつけていた。良質の桐で作られた草履は、無防備な貴之に難なく入る。脛で受けることすらしない貴之に、雪乃はますます苛立ちを深めた。

 貴之は膝を押さえてしゃがみこむ。追い討ちを懸けるように容赦なく張り手で貴之を打った。


「痛い。痛い。本当に痛いよ、雪乃ちゃん」

「煩い! バカ貴之! 姿をくらます気か?! 今の今まで神無月に世話になっておきながら、勝手な振る舞いは許さん! 大体貴様は私の婚約者だろう! 許可のない行動は許さん!」


 怒鳴りながらも貴之を殴る手は止まらない。貴之は雪乃の張り手から顔面を庇いつつ「雪乃ちゃん、落ち着いて」と宥めようとするが、雪乃は腕を振りぬき、貴之の頬を激しく打った。


「黙れ! 貴様の言い分など聞いてやらぬ!」


(聞いてやるものか、バカ貴之の言い分など)


 聞いてしまったら、貴之を見送らなければならなくなる。冗談ではない。

 雪乃は仁王立ちのまま息を整える。整えつつ、貴之を目の前にして、何と声を掛けるか、逡巡していた。

 だが、ややあって、意識して事務的に表情を引き締めた。


「我が神無月は新興ゆえ、まだ鞨鼓たる地盤がない。土御門本家とは表向き関係ないが、本家を通して宮城絡みの厄介な祓いがいくつも舞い込んできている。私は、今の関係を変えたい。神無月を強くしたい。だから、力を貸せ、貴之。……神無月のために、私に力を貸せ。私に尽くせ」


 静かに告げる。静かに、斑雪が降る。二人とも言葉を発せず、人除けの結界のおかげで、お互い相手以外は人の気配は皆無だった。

 しんしんと雪が無音で降る気配以外は、動きを見せない。音といえば、心臓の音だけが姦しいほど耳に響いていた。

 貴之は座り込んだまま、じっと雪乃を見つめている。雪乃は内心を見透かされまいと、また貴之の挙措を見逃すまいと気を張る。


「ねえ、その言葉は、雪乃ちゃん自身? それとも当主代行としての言葉?」


 静謐な空気を乱すことのない、不思議なほど穏やかな声だった。雪乃の心を探るような慎重な眼差しで、雪乃を見つめている。

 戦慄くように唇が震えた。芯から湧き上がってくるような震えを、雪乃は唇を噛むことでぐっとこらえる。


「当主代行、だ。私は神無月当主より権限を預かる者だ。断固、強くあらねばならぬ。家の利を思わねばならぬ。貴様の力は必ず利になる」


 ややあって、きっぱりと言い切った。

 雪乃の立場上、家のことが最優先される。だから、強くあるために、家の利のためにも貴之には傍にいてもらわなければならない。直系としての雪乃の台詞としては、正しく言えた。


「そう……」


 短く応じて視線を落とす。どこまでも感情を削ぎ落としたような声に、雪乃の胸が引きつるように痛む。胸を押さえようとした手を堪えて、雪乃は俯く貴之の前で立ち尽くす。

 再び静謐の帳が下り、心臓が血液を送り出す音だけが響いていた。

 狂いそうな衝動が血液とともに全身を駆け巡り、雪乃の体を震わせていた。頭に靄が掛かったようにぼんやりとし、ぐるぐると回るような心地に見舞われた。何か言いたいのに、言うことは、ためらわれる。

 はらりと雪が心細げに降りてきたのが、目の端に映った。舞い降りる雪を震えながら見つめる。

 粉雪は風もないのにゆらゆらと揺れて、雪乃の手に静かに落ちた。手背に落ちた雪は滲むように静かに溶けた。

 雪乃の心にも静かに降り、雪乃は己を理解した。

 雪乃は強く拳を握り締める。揺らいでいた心は定まった。いや、元から雪乃の気持ちは一つだった。

 雪の降る勢いが増した。

 雪乃は貴之に向って一歩すっと踏み込む。貴之は雪乃が近づいてきたと知ったのか、ゆるゆると顔を上げた。雪乃は無言で手を振り上げ、振りぬいた。

 次の瞬間、静謐だった境内に乾いた音が響いた。貴之は目を瞬かせる。驚いているらしい貴之に構わず、気のしゃんとしているうちに、声を張り上げる。


「貴様は単なるバカ貴之だ!」


 雪乃の声に霊気が乗り、境内に波紋のように響き渡り、静かな雪の軌跡を掻き乱した。

 再び、境内には静寂が訪れる。貴之は瞠目し、ただ呆けたように雪乃を見つめていた。

 高ぶった気持ちが迫り上がってきて、急に心許ないような心地になった。

 バカ貴之め、貴様が面倒を掛けさせるからだ。

 怒鳴ってやりたい気持ちが、次第に沸き立ってくる。取り残されたような心細い気持ちになったのは、貴之のせいだ。精一杯ぐっと睨みつけてやる。

 ところが、目が合うと、貴之は切なげに目を細めた。

 きゅっと胸のうちが縮こまる。貴之の姿が滲む。雪乃は貴之を見ていられなくて、目を閉じる。全身に痺れるような痛みを感じた。指先の冷えを今頃になって自覚する。

 手足の冷たさを自覚すると、急に体全体の冷えを自覚した。しんしんと降る雪の気配が痛かった。

 体の奥から込み上げてくる衝動に、全身がどうしようもなく震えていた。


(兄様のときと同じ……止まらぬ……私は……)


 兄を失うと思ったときの感覚と同じだ。


(怖い……それと、そんなのは嫌……)


 貴之を失うのは耐えられない。

 震えが止まった。力が抜けて、へたり込むように雪乃はその場に座り込んだ。

 雪乃は俯いたまま、貴之が身じろぎ、うろたえたような気配を感じた。見られている気配に、雪乃は恥じ入る気持ちが圧し掛かって顔を上げられずにいた。

 雪乃は俯いたまま、膝で貴之ににじり寄る。貴之に近いほうの左手をゆっくりと伸ばし、貴之の袴を指先だけで恥らうように掴んだ。ほんの少しだけ目線を上にやる。


「雪乃の」


 囁きは無音の雪の世界にあっても小さかった。貴之は聞き取りにくかったか、身をのりだし、雪乃の反応を待っているようだった。

 もう少し視線を上にやると、少し歪んだ貴之の襟元が見えた。喉仏の出た男らしい首元に、急に異性ということを意識して、頬が胸が熱くなる。冷えた体に小さく火が熾ったようだ。


(バカ貴之め、そのように近づきおって……声が……出ぬだろう)


「そばに、いて」


 喉を震わせて呟いた。雪の降る音のような、かそけき声にしかならなかった。

 だが、貴之には届いたようだ。精悍な体躯を震わせたかと思うと、乱暴に抱き寄せて、抱きしめる。


(バカ貴之め、そのように抱きしめたら、痛いだろう……バカ貴之め……)


 ほうと、頬が熱を持った。貴之の温もりにやっと雪乃の冷え切った体は暖められた。

 暖められて、入っていた力が抜ける。貴之の霊香が心地よく感じられて、そっと貴之に身を寄せる。不香の花の薫りに代わり、貴之の香がする。

 貴之は雪乃を抱きしめて、身をわずか震わせている。無言で咽いでいるように感じられた。雪乃は泣くなと叱咤する代わりに、自由な右腕を貴之の広い背に添えた。

 貴之は無言。雪乃も無言。

 互いに身じろぎせず、無音で染め上げられていく、美しい静寂の世界にしばし身を置いた。



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