第3話

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 花の香り流るティレン湖道を駆け抜け、陶磁器のごときアクトゥールの街並みも追い越し、勇壮なパルシファル宮殿ですらいつの間にか背後へ吹き飛ばして、ほとんど足は止まらない。ミグランスの馬車すら驚かすような行軍の末、アルドはコリンダの原の入口に立っていた。


 ここは空気中に四大精霊の力の残滓が色濃く匂う神秘の地。植物は独自に成長を遂げ、あたりに胞子を散らしている。それら細かい粒子が幾重にも重なって日の光を遮っている。それゆえ、ここは日中の天気によらずいつでも薄暗かった。さらには音が、見えない穴に吸い込まれているような静けさだ。人の声は響かず、聞こえるのは魔物のモノと思しき鳴き声だけ。見方によっては不穏の土地かもしれない。


 アルドははやる気持ちを抑えて辺りを見渡した。


 いまだにミェルの姿は見つからない。もしかして行き違いになってしまったのか。


 心配が頂点に達しようとしたところで、景色の向こうに白ひげをたくわえた男が姿を現した。

 背中に革の袋を負って、マントを羽織り、右手に伐採ナタを持っている。


「──だ! ──ってこい!」


彼は遠く丘の上に向かって叫んでいた。

アルドは躊躇なく近づいて声をかける。


「なぁ、あんた!」

「うぉっ!? な、なんだ!?」


 男は目を幾度か瞬かせ、アルドを確認した。


「た、旅人……僕になにか用か?」

「レストリって男を探してるんだ」

「あ、ああ。それは紛れもなく僕の名前だけど……」

「ほんとか!? スートに頼まれてここまで来たんだ。クワンサの群生地に魔物が発生してるって」


 途端に表情を明るくしたレストリに、肩をつかまれ、揺すられる。


「退治しに来てくれたんだな!?」

「あ、ああ……」


 あの医者に似た勢いに再び気おされつつ、言う。


「だけど、ちょっと困ったことになってて、ミェルっていう女の子がこの辺りに来てるかもしれないんだ。知らないか?」

「ミェルって、あのミェルか? ラトルの村の……」


 男がさっと青ざめる。

 嫌な予感がした。


「まさか……」

「あぁ……さっき子供の人影が見えた気がして、『そっちは危険だ』って呼んだんだが……あれがミェルなのか!?」

「わからない、もしかしたら──うわッ!」


 突然足元から吹きあがった突風が二人を取り巻いた。

 風の向かう空を見上げる。


「あれは……」


 分厚い羽根を持つ大型の魔物が地上に影を落としていた。真っ青な羽毛に赤いラインが入っている。楕円形の頭から突き出た歯は鋭く、いかにも危険な色合いで見る者を威圧する。


 それは羽ばたくごとに強風を生みながら、丘の上に向かって飛んでいた。

 ハッと視線を走らせれば、同型の魔物がいたるところから同じ方向を目指している。


 ぞくりと胸騒ぎがした。


「まずい、まずい……」


 並々ならぬ焦りの表情でレストリが頭を抱える。

 アルドは魔物が向かった方向に目を凝らした。


「どこに向かってるんだ」

「獲物の元にだ!」彼は叫んだ。「あの魔物は集団で狩りをする習性がある!」


 不運なことに、それはミェルの向かったと思しき方向だった。


 体中の血液がさっと冷めた。アルドは脇目も振らずに走る。

 ラトルからずっと体を動かしている。筋肉は休息を訴えている。それでも今は走らなければいけない。旅の中で積み重ねた経験が頭の中で警笛を鳴らす。ここで走らなければ何かを失うぞ、と。経験は直観となって小さな命の危機を告げた。


 植物のツタを手掛かりに丘を駆けあがる。斜面を上がった先のひらけた頂上にて、巨大な植物の陰にミェルを見つけた。


 少女はしゃがみこんでいた。その手に青緑の花を摘んでいる。根を傷つけないように、丁寧に土を掘っている。あれがクワンサなのだろう。


「ミェルッ!」


 強く呼ぶ。少女は肩を震わせ振り返った。

 アルドの必死な声音に怒られると勘違いしたのか、少女はこちらに背を向けて走り出す。


「うっ……!」


 しかし二歩目を踏み出すのと同時に──羽毛の壁に衝突した。


 魔物が背後に降下していたのだ。

 十に満たない群れではあるが、一匹一匹の大きさは少女の何倍もある。


「い、いや……」


 ミェルを覆ってあまりある体長。

 敵意に溢れた姿。

 少女はすっかり震えて後ずさった。


 強風と共に砂塵が舞う。一匹の魔物が羽ばたく。

 眼光鋭く鉤爪を振り上げ、その巨躯でもってミェルに飛び掛かる。


「くそッ!」


 アルドは渾身の力で地面を蹴り出した。

 風に負けぬ速度で小さな体をかばう。

 少女の前に躍り出る。

 眼前に迫るは爪。硬質的で鋭い輝きに満ちたそれ。


 ギリギリだ。

 だがアルドの剣もすでに抜き身だった。


 頭上に振りかざせば間一髪、振り下ろされた鉤爪は鋼の刃と邂逅した。

 安心している暇はない。

 敵の両足が立て続けに降り注ぐ。

 感覚を研ぎ澄ませ、その一つ一つをいなす。

 互いの得物が擦れ合う。衝突音に散る火花。

 重い衝撃が指先にかすかな痺れを与えた。


 自身の筋肉も、刃先の状態も、気にかけている余裕はない。

 アルドは攻撃の一つを強く弾いた。

 魔物がにわかにバランスを崩す。攻勢に移るとき。


 繰り出したのはやや上向いた太刀筋の袈裟斬り。

 魔物はすぐさま飛びのく。その距離を助走として体当たりをけしかけてきた。


「こっちだ!」


 アルドはミェルの腕を引いた。加減などしていられるか。

 わずかに表情を歪める少女を抱え、草むらに飛び込んだ。地面を転がりながら少女と魔物の距離を引き離す。


「怪我はないか?」

「う、うん。でも……」


 立ち上がったミェルが手元を見下ろす。両手の中のクワンサは千々にちぎれ、もはや薬効どころではない。

 アルドは少女の頭を撫でた。


「大丈夫だ。俺がなんとかする。──レストリ!」


 アルドは今しがた追いついた医者の友人へミェルを預けた。


「この子を頼む。安全な場所まで下がるんだ」

「ッ……わかった」


 レストリはミェルの小さな体をマントの内側に隠し、自分たちに水色の粉末を振りかけた。清涼感のある匂いがした。人間の匂いを隠す魔物避けかもしれない。


 二人が音を立てぬよう息さえ止めて後退していく。


 それを見届け、

「今度はこっちから行くぞッ」

 アルドは少女を見失った魔物たちの前に躍り出た。もはや背後を気にする必要はない。ハンディキャップはなくなった。


 鋭く息を吐き、全神経を相手と自分の距離に集中させる。


 自分より長い攻撃射程リーチを持つ相手との闘いは何度もこなしてきた。ときには銃を使うサーチビットと、またあるときには見上げるほど巨大な恐竜と。それらに比べたら、目の前の魔物との間合いはよほど測りやすい。


 アルドはすり足で敵の攻撃範囲に踏み込む。

 魔物が腕を振り上げる。羽毛の下で分厚い筋肉が唸る。


 身を引いたアルドの眼前を爪が掠めた。鼻先に感じる風。

 予想通りだ。

 精巧な位置取りの末に誘いこんだ攻撃。


 生まれた隙に剣撃を二筋叩き込む。

 魔物の羽に傷を負わせた。

 巨体が傾いた。


 ──チャンス。


 アルドは刃を持つ手に須臾しゅゆの意識を注いだ。

 自らの底に潜むプリズマの奔流を手中に掬い上げる。体を伝う目に見えない精神力。

 鋭く息を吐く。

 培った感覚に任せ、圧しとどめたエネルギーを一気に開放する。

 全身からほとばしる確かな熱。


 振り上げた諸刃が赤く燃え上がった。

 高熱を帯びた斬撃は振り下ろす速度でさらに輝き、魔物の巨大な眼光をルビーのごとく染め上げる。

 全体重を乗せた重い一撃。

 果てに切り伏せた。たしかな手ごたえ。


 魔物の傷口から広がった火炎が羽毛の一部を焼いた。

 もはや飛ぶ力はなくなったはずだ。

 思った通り、力の抜けた巨躯は地面へ落下する。


 魔物はうめき声をあげた。何度か手足をばたつかせた。

 しかし、やがて動かなくなった。


 相手が魔物であろうが、命の喪失には違いない。アルドはわずかに弔いの念を込めた。


 仲間の一匹を失った魔物たちの反応は様々だった。同族の死に怒り、なおもアルドの前に立ちふさがるもの。勝てないことを悟り逃げ出すもの。倒れ伏した同族の死肉を漁るもの……。

 アルドは戦場に残った二匹の魔物に、ある種の敬意を払って武器を向けた。


「ッ……!」


 空気が張り詰めた。一点にエネルギーが収縮する匂い。

 即座に右方へ飛んだ。

 コンマ数秒前まで立っていた場所を空気の鎌が切り裂いた。地面が浅く抉れた。


 風の力を用いた不可視の攻撃。

 少し厄介だ。でも弱点がないわけじゃない。


 アルドは、今度は敵の射程圏内に飛び込んだ。

 身を捻りながら走る。二匹の間を潜るように。


 魔物たちが同時に魔法を放った。

 アルドの速度には追いつかない。

 二つのエネルギーは近距離でぶつかり合う。


 炸裂した。生まれたのは爆発的な反発。

 アルドの背を暴風が押した。

 宙に浮かぶ魔物たちは気流の乱れにバランスを保つことができないようだった。


 魔法の反動吹き荒れる中、身をひるがえしアルドが跳ぶ。


 その一瞬で。

 竜神の力に手を伸ばす。

 さっきの火炎が体のに潜んでいたとするなら、竜神の力は体のに潜んでいる。プリズマとは全く違うベクトルの力。


 集中すべきは腕や剣先ではない。自らの意思──全身を武器に変える決死の覚悟こそこの力の源だ。

 空気が揺れる。砂漠に秘めた陽炎のように。


 魔物たちは目に見えてたじろぐ。

 アルドの背後に潜む圧倒的存在の加護を感じ取ったのだろう。


「食らえッ!」


 全身を振り下ろす。


 刃先が魔物の固い骨格にぶつかる。

 辺り一帯の空気が震えた。

 何者にも囚われぬ竜の牙のごとき一撃は、相手の装甲ごと貫く秘技。


 その一太刀が一匹を瀕死に追い込んだ。

 アルドの前に残った最後の魔物は怒り狂い、手当たり次第に風の魔法を放った。


 いくつかは見当違いに大気を揺らしたが、

「ッ……」

 そのうちの一つがアルドの脇腹に直撃する。


 風の刃が鎧の表面に傷をつけた。

 皮膚が裂けることこそないが、風圧の衝撃が突き抜ける。

 内腑ないふと脳が揺れた。


 いったん距離を取ったアルドに魔物が衝突してくる。


「くッ……!」


 右肩を爪が掠めた。血は出たが、傷は浅い。

 この程度なら支障もないだろう。


 呼吸と体勢を整える。

 気勢を持ち直し、でたらめに羽ばたく魔物へ狙いを定める。

 息が少し上がっているものの、状況は火を見るより明らかで。


 それでも最後まで油断するつもりはなかった。

 アルドは残った魔物の正中線に剣を構え、走り出した。






 動かなくなった魔物たちの前で瞑目していると、背後から小さな足音がする。


「お兄ちゃん……」


 振り向くと二人がいた。ミェルは不安げな面持ちでアルドを見ていた。


「……ケガしなかった?」

「こっちのセリフだぞ」


 微苦笑を交えて返す。


「ミェルも、レストリも、怪我しなかったか?」

「うん」

「ああ。僕たちも無事だ」

「そうか。よかったよ」


 アルドはその場に膝を折ると、少女の目をまっすぐのぞき込んだ。

 ついでに声音をやや引き締める。


「お母さんが心配だったのはわかる。でも、ミェルが村を飛び出してみんな心配したんだぞ」

「……ごめんなさい」

「帰ったらみんなに無事を報告しなきゃな」


 少女はいたく反省した様子で体を小さくすぼめた。


 危険なことに自ら飛び込んだのだ。それは教える必要がある。

 けれどアルドも鬼ではない。必死の旅を終えたばかりの少女に、それをとがめるのもいくらか酷というものだ。


 気を取り直し、「ほら」と辺りを示した。


「クワンサの根を取りに来たんだろ? ちょうどレストリもいるんだ。薬に使えそうなやつを探して帰ろう」

「うん!」ミェルはパッと表情を明るくして医者の友人を振り返った。「どれがいいの?」

「そうだな……」


 二人は揃って群生地の辺りにしゃがんだ。


「花びらの内側が黒ずんだモノがあるだろう? それがよく育っている証拠だ」

「ほんとだ。いくつくらいあれば足りる?」

「一回分なら一本でいい。ただ、せっかく来たんだ。ラトルの強い火で乾燥させれば保存も効くし、向こう一か月分くらい持っていくといい」


 二人の作業にアルドも加わった。


 地中深くまで長く根を張るものもあり、掘り返すのは意外に重労働だ。ミェルの手が器用に土をかき分けるのを、アルドは感心して見ていた。こういった作業に慣れているだろうレストリと同じくらいの速さでクワンサを回収していく。すぐに一帯のクワンサを取りつくした。


「……今更だけど、こんなに引っこ抜いて大丈夫なのか?」

「ああ、問題ない」レストリが近くの土を掘った。「ほら、これを見てくれ」

「根、だな。すごく細いけど、これもクワンサなのか?」

「そうだ。焼き払いでもしない限り、また何度でも生えてくる。コリンダの原の土壌があればすぐに成長するだろう」

「採取を邪魔する魔物さえいなければ安心ってことか」

「ああ」


 丁寧に採取し、土を払ったクワンサは、レストリの持っていた革袋に収めてミェルが持った。

 一か月分ともなるとさすがに重そうだ。

 手伝いを申し出たアルドだったが、少女は自分で持ちたいと言い張る。最後にはアルドのほうが折れた。


「よし、これで用事はすんだな」


 レストリは満足そうに微笑み、アルドに振り向いた。


「あんたのおかげで魔物も追っ払うことができた。とうぶんは植物採取にも困らないだろう。ありがとうな」

「偶然そうなっただけだよ。お礼はいらない」

「その、重ねて厚かましいかもしれないが、ミェルの帰り道を任せてもいいか?」

「もちろん。でも、レストリは?」

「パルシファルの方に仕事があってな、当分ラトルには帰れそうにない。──地方熱に効く薬が必要だそうだ」

「忙しそうだな。スートに元気だったって伝えておくよ」

「よろしく頼む」

「じゃあ、途中まで一緒に行こう」


 アルドは二人と連れたって帰路についた。

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