第4話


     4


 コリンダの原を抜け、パルシファル宮殿の前でレストリに見送られたアルドとミェル。デリスモ街道を魔物を避けて静かに通過したあとは、アクトゥールで小休止を挟み……。


 二人がようやくラトルの村に到着したのは、日も沈みかけた夕焼けの時刻だった。


 ヴァシュー山脈の稜線に沈んでいく太陽が黄金色の陽光を村へ投げかけている。空に浮かぶ雲たちの輪郭は明るく照らされ、青色と混ざった神秘の色合い。それはアルドたちの帰還を祝福しているように見えた。


「ミェル!」


 村の入口に縄跳びの女の子が出迎えていた。走り出したかと思えば、魔物よろしく体当たりの速度でミェルに抱き着く。


「大丈夫!? 怪我してない?」

「う、うん。大丈夫。──それより、苦しいよ」

「あ、ごめん」


 女の子は、はっとミェルを解放した。照れくさそうに頭を掻く。

 自由を取り戻したミェルが、同じく照れた様子で向き直る。


「……心配かけてごめん。これからお母さんのところに戻るから」

「うん!」女の子は満面の笑みでそれに答えた。「スートおじさんも待ってるよ。早く行ってあげて」

「わかった」

「わたしも家に帰る。また明日ね」

「うん。また明日」


 そう言って、手を振る。

 去り際に道行く女の子の影が長く伸びていった。


 さて、アルドたちが村の通りを曲がると、ミェルの母親が家の前で木箱に座っていた。隣にはスートが腕を組んで見張っている。視線は俯き、二人の顔色は暗い。心底向こう見ずな少女が心配だったのだろう。


 ミェルが一目散に走り出した。


「お母さんっ!」

「っ……! ミェル」


 腕の中に飛び込んでいく少女。泣きはらした顔で母親が受け止めた。

 二人は両のかいなを互いの首に回し、きつく抱きしめた。


「ただいま……、ただいま、お母さん」

「うん──、おかえり」


 母親は、誕生日プレゼントを取り戻した無垢な少女のようだった。華奢な腕で懸命にミェルを包みこんでいる。


 そんな穏やかな再会に、アルドも力が抜けた。

 医者も同様だったのだろう。ふっとため息をつき、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。


「よく無事で戻ってきた。ありがとうな、兄ちゃん」

「構わないよ。ここで助けに行かなかったら自分の寝覚めが悪かっただろうし」

「……お前さん、いわゆる『いい人』だろ。詐欺にあったりすんじゃないぞ?」

「はは……ご忠告心に留めておくよ」


 いくつか心当たりがある。が、今は関係のない話。

 アルドは苦笑にとどめて母と娘に向き直った。


「ミェル。言わなきゃいけないことがあるだろ?」


 少女は一度きゅっと口をつぐむ。それから小さく頷いた。


「お母さんも、スートおじさんも、心配かけてごめんなさい」

「まったくだな」と医者は腰に手を当てた。「一時はどうなることかと思ったぞ」


 うつむく少女を撫でる母親の顔には、安堵を通り越したゆえの憂慮が滲んでいた。


「ね、ミェル。お母さんを助けようとしてくれたのは嬉しいわ。でも、だからって危険を冒していい理由にはならないの。ミェルがお母さんのことを心配してくれたように、お母さんもミェルのことが心配なんだから」


 言葉を一つ一つ噛みしめるような間が生まれ、ミェルは「うん」と頷いた。

 母親は続ける。


「よく聞きなさい、ミェル。お母さんは幸せなの。たとえ明日発作が起きて、遠いところに逝ってしまったとしてもよ」


 少女の顔に不安の色が滲んだ。母親の言葉に、少なからず胸を抉られたような。

 ミェルの母親は、それでも続けた。


「あなたが生まれてきてくれた。こうして育ってくれた。私にはそれだけで十分。あなたが健康で、怪我無く暮らしていけたら十分。これ以上ないくらいの幸せを、すでに受け取っているんだから」

「……その幸せって、お母さんの命よりも大事なの?」

「大きさを比較することではないのよ。毎日幸せを噛みしめているから、たとえ運命の日が明日でもわたしは後悔しない。そういうことなの。わかるでしょう? あなたは賢い子だから」


 少女がその言葉に込められた愛情を正しく受け取ることができたのか。アルドにはわからなかった。でも軽々しく説明することは間違っているのだろう。それはミェル自身がこれからの人生で実感していくものだ。他者が口を挟む余地はない。


 ミェルはまだ疑問の残る表情をしていたが、それでも言葉の一部が腑に落ちたようで、そっと、丁寧に頷いた。


 母親は幸福を体現した絵画のように微笑んだ。それからアルドの方に振り返った。


「旅の方、本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げてよいのか」

「気にしないでくれ。たまたま用事が重なっただけだからさ」

「何か、危険なことはありませんでしたか?」

「俺の方は日常茶飯事っていうか、慣れてるからな。むしろ、魔物に囲まれることなんて、ミェルの方が経験ないだろ?」


 母親は小さく息を呑んで、娘の背を撫でた。


「──きっと、怖かったわね」

「っ……!」


 自分の身に迫る脅威を思い出したのか、あるいは、家に帰ってきた安堵をようやく実感したのか。


 ミェルはふいにしゃくりあげ、涙をこぼした。


 肉親が発作に倒れても、魔物に襲われても、決して泣かなかった少女は、母親の包み込むような体温の前にようやく顔を伏せたのだった。

 それでもなお、嗚咽を必死にこらえるその背中は。


「休んだ方がいいぞ。ミェルも、あんたも」


 母親は頷いた。

 一言礼を残すと、声を潜めて泣く少女を抱きあげ、家の中に連れ帰って行った。


 アルドは医者と二人その場に残される。

 どちらからともなくねぎらいの視線を向けた。


「帰るとするか。一日中気を張ってたせいで背中も肩もこっちまったよ」

「はは、今日はよく眠れそうだな」

「ああ。お前さん、今日の寝床は? 必要なら村の宿に口を利けるが」

「ありがとう。でも大丈夫だ。行くところがあるから。またあとで二人によろしく」

「そうか」スートが右手を差し出した。「わかった。じゃあ、また、な」

「ああ。また」


 アルドはそのごつごつした手を握り返した。

 医者は軽く手を振り、道の向こうに去って行った。


 ──たまには、俺もバルオキーに顔を見せに行こうかな。


 不意にそんなことを考えながら、空を見上げた。


 夕日が沈んでいく。世界が一時的に色を失い、藍色に近づいていく。

 道の脇に灯された火の輪郭が濃くなっていた。夜が来る。


「さて」


 アルドは小さな充足感と共に、ラトルを後にした。

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