第5話
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次元戦艦の客室で一夜を明かしたアルドは、まだ日の上り始めた薄明の時刻にリンデを目指した。この時代の住人を驚かせぬようセレナ海岸の片隅にそっと着陸し、その足で涼やかな潮風の道を歩いていった。
明け方のリンデには神秘的な気配が漂っていた。
通りに人の気配はない。漁に出ている船の他はとんと静かで、まるで町自体がまだ眠っているような。
ゆっくりと上る太陽に合わせ、水平線の靄が、静かに世界を青く染めていく。灯台が沈黙の中にそびえ、朝の訪れをじっと見守っていた。
知らない街を歩いているみたいだ、と新しい朝を想った。
港の方へ歩いていくと、桟橋に人の気配があった。緩やかな風の中に、白髪の混じった髪を揺らしている。アルドの探している女性その人だった。
「おはよう。早いな」
女性は振り向いて、アルドを認めると会釈した。
「おはようございます」
「いつもこんな時間に起きてるのか?」
「いいえ。今日はなんだかいつもより空気が澄んでる気がして。お散歩を」
「そっか。たしかに気持ちいい天気だ」
「ええ」
好都合だ。アルドの方も早く結末を伝えたかった。
それきり海へ向く女性へ、言った。
「物語の結末がわかったよ」
「っ……」
女性は驚いた様子でもう一度振り返った。
「本当ですか」
「ああ。多分間違いないと思う」
アルドは自分が古代で見てきたことを──ミェルや母親、医者、医者の友人、はてには縄跳びの少女のことまで、詳細に語った。少女の旅路。その末にたどり着いた安堵の結末まで、すべてを。
話が終わりに近づくにつれ、女性の表情が徐々に変化していった。儚げな相貌に浮かんだのは、寂しくも優しい微笑みだった。
「これが物語の結末だ。ミェルは母親の元に帰って、みんなに温かく迎えられた。あんたの記憶と合ってるか?」
「……はい」
女性は祈りを捧げるように目を閉じた。深く朝焼けの空気を吸い込み、そっと吐息と成した。目元に涙の雫が光っていた。
「不思議ですね。いままですっぽり抜け落ちてた記憶なのに。思い出してみれば、『あるのが当然だった』って気持ちになるんです」
「思い出せたみたいだな」
「はい。物語の結末も、私のお母さんが私を膝の上に抱えて聞かせてくれたことも。なんで忘れてたんでしょう」
「あと、これは勝手に俺が想像したことなんだけど」
アルドは続けて言った。
「そのおとぎ話って、たぶん本には残っていないだろ?」
「そう、ですね。母はいつもそらんじて聞かせてくれました。リンデにも似た本はありませんでしたし……」
「これはきっと、あんたの先祖が主人公のおとぎ話なんだ」
「えっ!?」
「あんたの何代も前の祖先が、ミェルっていうんだと思う。それから代々口頭で語り継がれてきたんじゃないかな。だから誰も知らない。本にも残っていない」
血族の間に起きた一つの勇敢な旅。
それを絶やさずに語り続けてきたなど、そんなに気の長い話があるだろうか。それはどんなに奇跡的なことだろう。そもそも、お話が絶えてしまう可能性のほうが、大いにありえる。
──ゆえにこれは、
「そんなことって……!」
「まあ、あくまで予想だけど」
そう、あくまで予想の域を出ない。
けれどアルドは、きっとそうだろうと思う。成長したミェルが、母親の愛情と旅の興奮を思い出して自分の子供に語る。その姿がくっきりと脳裏に思い浮かぶのだ。
女性はあっけにとられたようで、しばらく瞬きを繰り返していたが、
「……そうだといいなって、思います。それこそ、夢のあるお話ですね」
「ああ」
二人で笑った。半信半疑の態で、しかし愉快に。
やがて女性は海を眺め、ため息をついた。
「よかった──私はこれを抱えて生きていけばいいんですね。ようやく償いになる気がします」
その言葉に、忘れかけていた違和感が再来する。
アルドの笑みは引っ込む。
「違うだろ」思いのほかきつい口調になった。「お話の結末をもう一度ちゃんと考えてみてくれよ」
「えっと……?」
先日、女性は償いだと言った。
母の残してくれたモノを抱えて生きていくのが、何もできなかった自分の役目だと。そのときは否定の言葉を持たなかったが、今は違う。いまやアルドは断言できる。
「ミェルの母親がミェルに言ってたんだ。『あなたが生まれてきて、育ってくれただけで十分だ』『運命の日が明日でも後悔しない』って。それって、純粋に子供の幸福を願ってないと言えない言葉だと思わないか?」
女性は「でも」と口ごもった。それきり二の句が継げない様子で、アルドが続きを引き受ける。
「部外者の俺が言うことじゃないかもしれないけどさ。あんたのお母さんはあんたが大好きだったんだと思う。あんたが幸福なら十分だって想いでこの話を聞かせたんだ。亡くなってしまうときも償いがどうとか、そんな気持ち一切なかったはずで……むしろ、悲しい出来事に捕らわれず、前に進んでいけるようにって」
ほら、とアルドは言った。
「おとぎ話の終わりが、ハッピーエンドなのが証拠だ。あんたのお母さんはあんたの幸福を望んでる。罪の意識なんか覚える必要はないんだよ。人の親じゃないからわからないけど。親子ってそういうもんじゃないのかな」
彼女は視線を彷徨わせていた。
アルドの話をどう受け止めてよいのか迷っているらしかった。ただ、少なからずなにか心の変化があったのだろう。彼女の背筋は凛と伸びたまま、表情が歪み、俯く。
通った鼻筋を、涙が伝い落ちた。
朝の潮風に宝玉のような輝きで散った。
「忘れたくないんです」
絞り出したような声だった。
「私が忘れたくないんです。母に与えて貰ったものを時間が流し去ってしまうのが怖くて、記憶さえ消え去ってしまうのが怖くて、私は。だから──『めでたし、めでたし』で終わってしまうのが嫌だった」
「消えないよ」
アルドはもう一度断言した。
「親から貰ったもの、一つ一つ全部を思い出せなくても、あんたがお母さんの宝物だったこととか、あんたがお母さんを大好きだった事実は、──積み重ねた時間は、絶対に消えない」
バルオキーの村長のことを思い出した。
月影の森で拾われて以来、フィーネと共にアルドを育ててくれた村長。幼いころの記憶のいくつかはすでに薄れ始めている。しかしそれが何だというのだ。村長が大切な里親だということは、心が知っている。
「あんたはこれからも、幸せを実感するたびに思い出すんだ。その陰に母親があったことを。それで十分じゃないか? 償う必要なんかない。だって最初から誰にも恨まれていないんだから。それどころか、愛されてた。そうだろ?」
女性は両手で顔を覆った。
港に打ち寄せる慎ましい波の音に、すすり泣く声が紛れた。
「──今日は、本当に不思議な日ですね」女性は言った。「涙が止まらないのに、どうしてでしょう? 心はとても軽くって」
女性は海をへ振り返り、たったいま紺碧の色を増す空を見上げた。涙が瞼から溢れるたびに、海風が攫い、光の環が優しい輝きで雫を煌めかせる。一面の青と、黄金色の光。
それはあまりにも幻想的な。
あまりにも繊細な。
細い指が一押ししただけで割れそうな風景。
アルドは目にかかる髪を抑えながら、色を纏う世界を、女性と共に望んだ。
やがて振り返った彼女は、頬に涙の痕をつけて笑っていた。
「ありがとうございます」
「いいんだ。できることをしただけだし」
「それがとても嬉しいっていう話です。どうか受け取ってください」
「……そっか。どういたしまして」
女性は頷いた。
「それにしても」
と彼女は言う。
「ずいぶんと細かいところまで調べてくださったんですね。まるで実際に体験してきたみたい」
「え、あ、ああ。まあな」
「……そういえば」
女性が続け、アルドはぎくりとした。
「な、なんだ?」
「さっき『このおとぎ話は本に残っていない』って話をしていましたけど、なら、どうやって調べたんです?」
「えっ……と」
「私の先祖しか知らない物語なら、祖先に会うしか方法がないような気がするんですけど」
「……」
「あの……?」
軽はずみな発言を反省しつつ、アルドは踵を返した。
「ごめんっ! 用事を思い出したから!」
「えっ!?」
「それじゃ、元気で!」
「えっ、ちょっと……あ」
女性が返答をする間を与えず、アルドは冷や汗を浮かべながら退散した。
*
アルドがいなくなった桟橋で、女性はしばし立ち尽くしていた。
リンデの通りには人の姿がちらちらと見え始めている。あるところでは民家の窓が開き、誰かが顔を出す。またあるところでは室内灯が燈り、朝の準備に追われる人を映し出す。町全体が目を覚まし始めたのだ。
その中を一人慌てて走り去る旅人の姿。
思い出すと、少し愉快だった。
「ふふ。不思議な旅人さんですね」
涙で湿った目元を拭い、最後に海を振り返り、女性は帰るべき家へ歩き始めた。
「願わくは、この幸せの一部があなたにも訪れますように」
軽い足取りが彼女を前へ運ぶ。
呼応するように、海岸線を発つ船が一つ。
その真白な帆を張った。
了
結末を探して ミドリ @Midri10
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