第2話
2
リンデを後にしたアルドは、合成鬼竜を頼って古代に向かった。
おとぎ話というのは過去の逸話が時代を超えて伝わるモノ。ならば実際に過去へ向かってみるのが一番だ。
古代で様々な伝承が残りそうなのは、呪術や儀式の色が濃いラトルだろう。ラトル周辺は火の精霊の加護が色濃く地上に現れている。また、ゾル平原にも独特な生態系が根付き、人々の畏怖の対象となっている。ゆえに神話や逸話に事欠かない。
アルドはラトルへ足を延ばした。
そこは別名『火の村』とも呼ばれ、ミグレイナ大陸の東寄りに位置する。
サラマンダーのおわす場所として名高いナダラ火山が近いせいか、ヒビ割れた地面からはかすかに熱気が立ち上り、石材や粘土が豊富な土地柄、立ち並ぶ建造物のほとんどが一様に黄褐色の色を成す。
幾何学的な怪しい文様の刻まれた石のオブジェたち。
それを横目に、アルドは聞き込みを開始した。
しかし。
──おとぎ話? お調子者が魔物に食われたって話ならいくつか知ってるが。
──旅するお話? そんなお話知らない。それより、お兄ちゃんも縄跳びしようよ。
──このあたりの話かい? 聞いたこともないねぇ……。
ほとんど成果は上がらず、アルドは宿屋の前で唸る。
「もっと後の時代に生まれたおとぎ話なのか?」
村に住む物知りの老婆も、おとぎ話には縁が深いはずの子供も、酒場に居合わせた放浪の詩人ですら、誰もこの話を知らない。考えうるのは、「そもそもこの時代にそんなおとぎ話は存在しない」ということだ。
あるいは、リンデで出会った女性が思い違いをしているのか。
「……いや」
諦めるにはまだ早い。アルドは聞き込みを続けるため、周囲に人影を探した。
「どうしてお外に出てるの!?」
「ん?」
街角の向こうから必死な声が聞こえた。
建物の陰から通りをのぞき込めば、小さな家の前で髪を結わえた少女が肩を怒らせていた。およそ十代に満たないくらいの女の子だ。
彼女の前には母親らしき女性が立っており、その両腕に真っ赤な果実の入った器を抱えている。そちらは顔色が悪く、腕も首もひどく細かった。一目見ただけで心配になるほどに。
「果物をもらいに行っていたんだよ。母さんの友達が譲ってくれるっていうから」
「そうじゃなくって……」
少女は声音をひそめた。
「お母さん、病気は大丈夫なの?」
「……そうだねえ。今日はずいぶん調子がいいみたいだし、もしかしたらこのまま治っちゃうかもしれないわね」
「……嘘つき」
小さい声ながら確かな糾弾。アルドは緊張と共に見守る。
「前もそう言ってたもん。本当のこと教えてよ。体、痛いの?」
「……困った子」
母親は器を傍に下ろし、少女の頭を撫でる。
その顔に浮かんだ穏やかな微笑みは、アルドがリンデで出会った女性の笑みを彷彿とさせた。頭の中で二人の姿がわずかに重なる。そう思えば、どこか面影を感じないこともない。
──もしかして。
「さ、家に戻りましょう。お洗濯しなきゃね」
「わたしがやるからお母さんは休んでていいの!」
「ありがとう、ミェル」
──たしか、ミェルという名前の女の子が……。
アルドは一人息を呑んだ。
『旅をする話』というところに注目していたせいで、登場人物の名前を失念していた。最初からこれを訪ねれば何件も家を回らずに済んだものを。
いや、それは後から言っても仕方がない。今重要なのはあの二人。
あの二人こそ、おとぎ話の発端になった二人なのだ。これから旅をすることになる少女と、発作の症状に悩む母親。
──問題は物語がどうやってはじまるかだな。
家の中へ帰っていく二人を見届けて、アルドはしばし思案する。
どういった経緯でミェルは旅に出ることになるのだろう。何かきっかけがあるのだろうか。
「……いや、今は考えたって仕方ないか」
それらしい動きがあるまで宿屋で休んでいよう。そう思い振り返ったそのとき。
「ッ!」
突然の破砕音が鼓膜を打ち付けた。
分厚いガラスが割れたような、耳に痛い音。思わず顔をしかめる。
「お母さんっ!」
少女が動揺と恐怖の入り混じった声で叫んだ。
それを聞いたとき、すでにアルドは家の中に飛び込んでいた。
「大丈夫か!?」
床の上には落下の衝撃で潰れた果実が散乱していた。淡く広がっていく赤い果汁がなんとも嫌なものを連想させ、アルドは一瞬怯んだ。が、そのおかげで状況が観察できた。
甘い香りが充満するさなか。真っ青な顔で立ち尽くすミェルの足元に、母親が倒れている。
「おい! しっかりしてくれっ!」
助け起こした母親は喘ぐようなツギハギの呼吸を繰り返していた。唇は紫に変色し、頬からは完全に血の気が失せている。十分な酸素を取り込めていないのか。
「医者はいないのか!?」
少女がアルドの声にハッと肩を震わせた。
「っ、呼んでくる!」
ミェルは家の外に飛び出した。
アルドが果汁の海の中に踏み込み、母親を抱え、ベッドの上に下ろしたとき、ちょうど医者を連れたミェルが戻ってきた。
医者は木箱を持っており、ミェルの母親を見るなり手際よく道具を取り出した。
「いつからだ?」
「たった今、急に倒れて、それで……」
医者は乾燥した植物の根をすり鉢ですりつぶすと、出来上がった粉末を水に溶かし、ミェルの母親に呑ませた。急いた呼吸の合間に母親の喉がこくこくと嚥下する。少女の小さな手が、母親の背を撫でていた。
幾度かせき込んで、しゃくりあげるような呼吸が聞こえた。
それでも母親の容体はゆっくり、確実に落ち着いていく。
少し時間が経ち、呼吸が安定したころ。母親は薄く開けた目をこちらに向けた。
「見ず知らずの人に、迷惑、かけるなんて、申し訳ないねえ……」
「お母さん……」
「心配かけてごめんね、ミェル」
「大丈夫……大丈夫だもん」
「そう……。少し、休むからね」
ミェルの母親は絶え絶えに言い残すと、そのまま眠りについた。
睡眠に落ちたのを確認し、医者は立ち上がった。アルドの方に振り返ってまじまじと観察してくる。視線を追って自分の姿を見れば、膝のあたりがべったりと果汁で汚れていた。さっき母親を助け起こした時の残りだ。
「お前さん、ここらに住む人間じゃないな」
「いや、なんていうか……通りすがりって感じだ。外にいたら大きな音が聞こえたからさ」
「そうか……なんにせよ、手を貸してくれたらしい。ありがとうな」
医者の謝辞に首を振る。
「それより、この人は大丈夫なのか?」
「ああ。クワンサという花の根を飲ませてある。発作を抑えて睡眠を誘発する薬だ。もうしばらくは大丈夫だろうよ」
「その……部外者が聞いていいのかわからないけど、病気はどのくらい……」
医者がちらりとベッドの方を伺う。
アルドたちに背を向け、ミェルが母親の手を握っていた。その華奢な背中で、一つの命を支えようとしているのだ。アルドには、それがとても大きく、尊いことに感ぜられた。
幼さに見合わない心労に少女は何を考えているのか。
想像もつかない。
「場所を変えよう」
医者が言い、アルドはにべもなく頷いた。
ミェルの家を出、通りを少し離れたところで医者は立ち止まった。道端に道具類の入った木箱を降ろし、その上に座る。ため息交じりに目元を揉み解す姿に、これから話そうとしている内容の物憂さが感じられた。医者は重そうに口を開いた。
「ミェルの母親は生まれつきああなんだ。発作持ちでな」
「治すことはできないのか?」
「ああ。そもそも原因がわからないと来たもんだ。どんな薬草を処方していいのか、医者の俺でもさっぱりだよ」
「……思いつく薬を片っ端から試したり」
アルドはほんの些細な提案のつもりだった。けれど医者に鋭い眼光で睨みつけられ、身を竦める。
「あのな、兄ちゃん。薬草の中には副作用がひどい、いうなれば劇薬みたいなモノもあるんだ。考えナシにただ飲ませればいいってわけじゃない」
「そうなのか。ごめん、あんまり知らなくて」
「まぁいい。──で。そうだ、ミェルの母親のことなんだが」
医者は足元に視線を落とした。
「原因がわからない以上積極的に治すことが難しい。症状が起こるたびに対処するしかないってのが現実だ。普段はできるだけ静かに療養させて、発作の兆候が見えたらクワンサの根を飲ませる。その繰り返しでな。──ま、こんなやりかたでも数十年あの母親は生きて来た。きっと生きる気力が強いんだろう。もしくは、娘のことがそれだけ大事なのか」
「ミェルの父親はどこにいるんだ?」
「数年前に亡くなってる。ミェルはきっと、顔も声も覚えていないだろうさ」
アルドは思わず口を噤んだ。
少女がこれまで歩んできた過去、そしてこれから歩むはずの未来を想った。小さな背中は今も恐怖におびえているのだ。もう一つの、今や唯一の肉親を再び失うかもしれない恐怖に。
どれだけ痛みを伴っていただろう。
それは、年端もいかぬ子供が経験するにはあまりに酷な運命ではないか。
自分がミェルに代わることはできない。せめて力になりたいと思った。
「なにか、俺にできることはないかな」
「大丈夫だ」医者は頬をゆるめた。「ラトルのみんながミェルたちのことを知ってる。ミェルたちを助けたいと思ってる。何かあれば手を貸すし、出来のいい栄養満点の果物だって回ってくる。あの母親が生きていたいと思う限り、大丈夫に違いないさ」
「それを聞いて安心したよ。ミェルは愛されてるんだな」
「まっすぐな娘だからな。ちょっと気が早くてお節介なところもあるが、将来はいい旦那にも恵まれるだろう」
村に漂う地熱のなかで、質の違う温かさがアルドの胸に去来した。
医者は冗談めかして笑うと、立ち上がって木箱を手に提げた。
「それじゃあ、またな。今日は助かった。怪我のないように」
「ああ。あんたも元気でな。何か用があったら呼んでくれ。力仕事くらいしかできないけど」
「おう」
医者と別れたアルドは、ひとまず宿屋の前に足を運んだ。
街角には御壺が置かれ、その中で火が静かに揺らめいていた。ラトルにおいて、火は単なる明かり以上の意味合いを持つ。精霊の力の一部、つまり神聖なものとして扱われ、邪悪なものを払ってくれるのだという。
たしかに、ふらふらと漂う
「……」
思考があっちこっちへ及んでいく。考えたのはやはり少女らのことだった。
ミェルは母親と幸せに暮らしている。周囲には頼れる人たちがいて、心配事はあれど、不自由は母親の症状以外になかった。けっこうなことだ。アルドの出る幕はない。
しかし、物語の結末はどうしよう。依然としてミェルが母親の傍を離れる気配はない。それはそうだ。離れる必要がないのだから。おとぎ話はまだ始まってすらもいない。リンデの女性が望んでいるのは、あくまで結末だというのに。
想えば、アルドは物語を見届けるためにラトルへ来たのではなかったか。ただ、そのためにはミェルが母親から遠く離れなければならない。
どちらも助けたいがゆえに、アルドの気持ちはどうにも落ち着かなかった。
「なんだかなぁ」
時間という水流が、ミェルという石を流し始めるまで、数日間に渡って親子を観察しなければいけないだろうか。
長期戦も半ば覚悟したそのときだった。
「おーい!」
ついさっき聞き馴染んだ声に、アルドは振り返る。
向こうから血相を変えた医者が走って来るところだった。
「どうしたんだ。そんなに急いで」
「頼みがあるんだ」開口一番、医者は肩で息をしながら言った。「これを読んでくれ」
「手紙か?」
「そうだ。俺の親友で植物に詳しい奴がいてな。そいつから送られてきた」
差し出されたのはごわごわした厚い
『スートへ
コリンダの原にて、魔物発生。
発眠の薬手に入らず。
次までに間に合いそうにない。すまない。
レストリ』
医者がスートという名前で、彼の友人がレストリだというのは予想がついた。だが魔物の発生とは、どうにも油断ならない話だ。
「発眠の薬っていうのは?」
「さっき使ってたクワンサの根だ。コリンダの原に群生する種で、時期ごとに親友から取り寄せてる」
「間に合いそうにないって、もしかして」
「ああ。魔物が原因で採取に行けないんだろう。このままだと薬が切れる。──頼む! 腕に覚えがあるなら力を貸してほしい!」
「わ、わかった。わかったから、ちょっと落ち着いてくれ。俺たちが慌ててたらミェルの方が不安になるだろ?」
「あ、ああ。そうだな」
医者は深く息を吸った。少しは落ち着いたみたいだ。
「取り乱してすまない」
もはや掴みかからんばかりのスートに怯みつつ、アルドの心はすでに決まっている。
「大丈夫だ。それよりもクワンサを回収しないといけないんだろ? 俺がコリンダの原に行くから、あんたはここで待っていてくれ」
「いや、一人で行かせるわけには……」
「あんたがいない間に発作が起きないとも限らないだろ。不意な事態に対処できる人間は残った方がいい」
「だが……」
スートはわずかに
「わかった。レストリを頼む。俺の名前を出せばクワンサの群生地まで案内してくれるはずだ」
「ああ。行ってくるよ」
医者に背を向け走り出そうとしたところで、アルドは思わず驚きの声を上げた。
道の先にミェルの母親が歩いていたのだ。遠くからでもわかる、果実の汁で赤く汚れたままの服。
クワンサのせいか足取りは前後不覚で、いまにもどこかへ衝突してしまいそうだ。
彼女は寝ていたはずではなかったのか。
スートとアルドは即座に駆け寄り、ふらふらな母親を支えた。
「おい、どうしたんだ!? なんで外を出歩いてる!?」
「あぁ……スートさん」
母親は両目いっぱいに涙をためた。今にも割れそうなか細い声で言う。
「起きたら、ミェルがいなくなっていたんです。今まで無断で外に出たことなんか一度もないのに……」
アルドは医者と顔を見合わせた。
「スート、ミェルが行きそうな場所に心当たりはないのか?」
「わからん。だが、何の目的もなくふらつくような子じゃない」
「じゃあ……」
「まさか」
スートが言いかけたとき、村の西側から小さな人影が駆けてきた。およそミェルと同年代の女の子。先ほど、村の入口で縄跳びをしていた女の子だった。
「おばさん!」走ってきた方向を指さし、彼女は言う。「ミェルが村の外に出て行っちゃった!」
「ッ、どういうこと!?」
「わかんない。行かなきゃいけないんだって、止めても聞かずに行っちゃったの!」
「あぁ……ミェル」
希望尽き果てんばかりの悲壮の表情を浮かべ、母親は足元から崩れ落ちた。それを支えつつ、スートは舌打ちを一つこぼした。
「くそっ」
「どうして外に?」
「さっきの会話をどこかで聞かれてたんだろう。クワンサの花を取りに行ったのかもしれない」
「一人きりでか!?」
「おそらくな」
とっさに手紙の内容を思い出す。
「魔物がいるんだろ?」
アルドの言葉に医者は頷いた。
「一刻を争う、な。母親は俺が家まで連れて帰る。後は頼めるか、旅の兄ちゃん」
「任せろ。必ず無事で連れ戻す」
アルドは朦朧とした母親に頷きかけ、走り出した。
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