B面/決算は次の土曜
時は青年がチケットを差し出した直後。場は感じの良いカフェのソファ席。恋愛相談に乗っていたつもりだったが、彼の本命は、ウソ、私!?……という事態が巻き起こったその時、一番最初に彼女の中を駆け抜けていった感情は「あっぶねー!」……だった。
というのも、どうせカーディガンに隠れるからとシャツの背中ら辺はアイロンがけをサボってたし、下着も上下の揃いどころか色も合ってたか怪しいしエトセトラエトセトラ。
彼が今夜でキメるつもりでいたらマズい事になっていた。と、内心胸をなでおろしながら、彼女は会計を済ませてカフェを後にする。(ここはワリカンで!せめてワリカンで!と騒ぐ後輩に「いいから君はゆっくりしておいで」と告げて伝票をもぎ取るようにして席を立つ一連の流れはもはや定番と化していたし、イレギュラーな事態が起こった今回もまた、つつがなく始まって終わったのであった)
と、いうか。青年自身も今日は彼女をデートに誘う事でいっぱいいっぱいになっていたので、とてもじゃないがホテルに誘うような気持ちの余裕なぞ無かったのだが。その点に気付かない程度には、彼女もまた精神的にあっぷあっぷになっていた。
──だって本当にびっくりしたのだ。
と、並木沿いの遊歩道を大股で歩きながら彼女は思う。
後輩の恋愛相談の対象が自分自身だったことも勿論だが、自分自身がそんなシチュエーションの当事者となった事実が彼女を何よりも狼狽させていた。
無論、世の中には「そういうこと」が無い訳では無いのは知っていた。でもそれは、髪の毛をいつも艶々にブローして、どんなグレードの場所へエスコートしても同行者が恥をかかないような服装を常日頃から身に纏っている、そんな人々の元に舞い降りるものだと、無意識に決め込んでいて、つまり、自分は。
彼の存在を、ちっとも見てやしなかったのだ。
進行方向に吹き溜まるプラタナスの落ち葉たちを蹴散らして、尚も彼女は思考を遊ばせる。
カラクリがわかってしまえば単純な話だ。彼が何故自分を頻繁に相談に呼び出していたのか(頼られてると思ったのだ)その場に自分しか呼ぼうとしなかったのか(ばつが悪いのであまり沢山の人には知られたくないのだと思ったのだ)その答えにたどり着く材料はいくらでも転がっていた。彼は、今度こそ告白するのだと心に決めながらいつだって誘いをかけていたのだ。そんな彼の前であれだけ偉そうにもっと頑張れと発破をかけていた己の姿。
──思考がそこまで及んだところで、耐え切れなくなった彼女は天を仰ぎ、そして思った。あいつはヘタレかもしれないが、私という女はただただ残酷だ。と。
今も、彼女は一人で映画館へ向かっている。先輩らしい気遣いのつもりだった。いかな相談事を抱えているとは言え、上からやいやいと絡まれるのが長時間続くのは抵抗があろうと、いつだって対面する時間は限定させていた。そして、その理由づけがこれだ。
「この後、映画のチケット取ってるからそろそろ出るね」
こう述べてスマートにその場を辞している。つもりだった。
そして、最初は理由づけに過ぎなかったはずの一人映画鑑賞だが、今では立派な趣味の一つとなっている。観賞後の余韻をただ一人で噛みしめるのは、映画を丸ごと独り占めするような贅沢さがあるのを今の彼女は知っている。
「彼の懊悩を吸い取るようにして、私は自分の世界を豊かに広げていた、とも言える」
彼女の内にふとよぎった思考を言葉に直すと、こんなところだろうか。それは垂れ込めた雲を裂く稲光のように、すれ違いざまのヘッドライトが対向する風景を舐めるように照らして過ぎ去って行くように、隠れていた物事の輪郭をいっとき露わにする、そんな閃きだった。
それは自分が思い描いていたほどには立派な奴では無かったのだという羞恥を含み、一方でそんな自分自身を──今のところは、だが──求められている事実への甘やかな恐れも混じる、そんな心持ちの何かだ。
現状は言わば暗やみに足をかけたような状態と言える。きっと彼も、ここから一歩を踏み出した。
濃紺の夜空にシルバーの箔で星々の散りばめられた可愛らしいチケット。これを受け取った時、彼は「来るかどうかかはお任せします」と言っていたが、プラネタリウムへ行く心づもりは出来ていた。つまり、デートだ。デートには行く。「……俺は、待っていますから」と告げた彼の表情をまともに見てしまった以上、腹を決めない訳には行かなかった。とりあえず、次の週末までに服を一揃い新調するつもりだ。
しかし、実のところ真に決断を迫られるのはその後だ。
彼と、恋人になるのか否か。
彼女はそうっと自分の心の内を覗き込む。答えは変わらずにそこに有った。後は、それを伝える勇気が彼女自身に備わっているかどうか、全てはそこに掛かっていると、彼女は知っている。彼の半年分の勇気の積み重ねを間近に見ていたのだから。
「君はヘタレで」「あなたは残酷」 納戸丁字 @pincta
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