最後に君の名を(4)
突然目の前に現れたオーナー赤城の勢いに押され、兵頭と安西は揃って、ひっくり返らんばかりに身体をのけぞらせた。
「お、お、オーナー!? あの、いえ、その……」
「華音サンも!! あ……あの、ウワサですよ、ウワサウワサ」
たじろぎ慌てふためく若き団員たちを横目に、赤城は淡々と言った。
「君たちは早く戻りたまえ」
そそくさと逃げ出すように立ち去る兵頭と安西の背中を見送ると、赤城は華音を促し再び事務室の中へ戻った。開け放していた小窓も閉め、内側からきっちりと施錠する。
あまりにいろいろなことがありすぎて、もう華音はパンク寸前だった。
いや、もうとっくに、思考能力の限界は越えてしまっている。
一方の赤城は、さすが年の功――場数が違う。
「藤堂君から、直接事情を聞かねばなるまい」
オーナーの赤城は、あくまで冷静に、このあと取るべき行動を、頭の中で素早く組み立てているようだ。
「ちゃんとお付き合いしているパートナーがいて、結婚も視野に入れているなら何の問題もないが――そうでなければ、いささかデリケートな問題だからな。芹沢君、君も同席してくれないか」
「……どうしてですか」
意味が分からない。
妊娠?
相手?
知りたい――いや、そんなの知りたくない。
その複雑な心の内が華音の表情に出てしまっていたのか、赤城は補足するようにさらりと説明してくる。
「父親の可能性がある人間を、同席させるわけにはいかないんでね。楽団関係者の男性陣では面談は務まらないだろう」
「父親の可能性って……楽団員の中にですか?」
「あくまで可能性だ。彼女の妊娠は確定ではない。しかし、私の考える『可能性』と君の考える『可能性』は――おそらく一致していると思うがね」
その赤城の怜悧なひと言に、華音はさらに心臓が引き絞られるような思いがした。
赤城オーナーは、応接室へ場所を移し、そこへ渦中の人・藤堂あかりを呼び出した。
「最近体調が優れないということを小耳に挟んだのだが、大丈夫か? もしこのまま続けるのが難しいのであれば、一時的に休団することも考慮するが」
「あの……ご心配をおかけして申し訳ございません」
安西青年たちの噂どおり、確かにあかりの顔色は冴えない。
華音は単刀直入に尋ねた。
「あの、本当なんですか――赤ちゃんがって……」
赤城が驚いたような視線を向けてくる。デリケートな問題だと釘を刺していたはずなのに、デリカシーの欠片もない――そう言いたげにして、白々しくため息をつく。
華音のストレートな問いに、じっと身を強ばらせているあかりに、赤城は確認するように尋ねた。
「プライベートにまで口を挟むつもりはないが……事実なのか?」
長い沈黙があった。
やがて、このまま隠し通せないと観念したのか、あかりは小さく頷いた。
「本当です、すみません。このままでは楽団の皆さんに、ご迷惑をおかけしてしまいますので」
あかりは、オーナーの赤城をまっすぐに見つめた。
「私、退団します。退団して、実家へ戻って、一人でこの子を育てます」
もうすでに覚悟はできているのだろう。あかりの目に、迷いは見られない。
「一人で、ということは……つまり、父親の名は明かせないということか?」
赤城の口調は穏やかだが、事実を探るべく、追及の手を緩めようとはしない。
あかりは途惑いの表情を隠せずにいる。
「それは――あの」
「そんなの駄目だよ!」
次の瞬間。
ドアを打ち破るようにして入ってきたのは、美濃部青年だった。
いつも理路整然として飄々としている男が、血相を変えてあかりの前に立ちはだかる。
「美濃部さん……」
藤堂あかりがオーナーから直々に呼び出されたことを受け、先ほど噂話に興じていた若手の団員が、その呼び出された理由を、このコンサートマスターの青年に話したに違いない。
美濃部の勢いは止まらない。
珍しく感情をあらわにして、声を荒げる。
「あかりさんは芹響に必要な人なんだ。富士川さんが帰ってくるまで、身を呈してこの楽団を守ってくれたのは、あかりさんじゃないか! それを簡単に退団するだなんて……なんて馬鹿な人なんだ、貴女は!」
「馬鹿って、そんな。……いえ、たしかに――馬鹿な女ですよね」
悲しげに目を伏せるあかりの繊細な表情を、美濃部は憐憫の眼差しでとらえる。
そして、くるりと向きを変えると、あかりを背にかばうようにして、そのままオーナーの赤城の前に進み出た。
「赤城オーナー。お腹の子の父親は、私です」
「み……美濃部さん?」
驚きのあまり、あかりは言葉を詰まらせている。
美濃部は背後のあかりへ、意味ありげにちらりと一瞬だけ視線をやる。
「隠す必要はないよ。ちゃんと責任をとるから」
「そんな……私」
「あかりさんとあかりさんのお腹の子供は、私が一生面倒みます!」
何の迷いも見せずに、美濃部は目の前の大男に言い切ってみせた。
赤城と華音は、目の前で繰り広げられている異様な光景を、ただ茫然と眺めるばかりだった。
美濃部とあかりが応接室から出て行ってしまうと、華音はどっと疲れを覚えてしまった。
もう、訳が分からない。
何が真実で、何が偽りなのか――。
「藤堂さんのお腹の中の赤ちゃんって……」
華音の疑問を、赤城は最後まで言わせずに遮った。
「我々にできるのは推測だけで、真実は彼女自身にしか分からないことだ。美濃部君が、藤堂君のお腹の子は自分の子供だと言うんだから、我々としてはそれを真実として受け止めるしかない」
「そんなの……そんなの信じられない」
真実は、一つしかない。
美濃部の言い分は、到底納得できるものではない。
しかし。
赤城は首を横に振った。
「確かめるなんて無粋な真似は止めておけ」
「どうして?」
「君が受けている以上の辛さを、彼女はすでに味わっている」
その赤城の言葉が、華音の心をいっそう苦しめた。
そんなことが、あっていいはずがない。
誰かが、応接室のドアを数度ノックした。
赤城にはすでに誰なのか分かっているのか、「入りたまえ」と上役としての言葉遣いで応答してみせる。
そこへ入ってきたのは、富士川祥だった。
きっちりとスーツを着込み、仕事モードの硬い表情のまま、静かに赤城の前に進み出る。
「改めて、ご挨拶に伺いました。赤城オーナー」
「ああ、ご苦労さん。監督室の引き継ぎはもうすんだか?」
「ええ。前任の監督の指示通り、荷物を仕分けて、必要なものは発送しておきました」
「兄弟子の君に、引っ越し業者の真似事をさせてしまって、申し訳なかったな」
性分ですから――と、富士川青年は穏やかな笑顔を見せる。
しかしその、どこまでも自然な二人のやり取りが、華音にはとても現実として受け入れられるものではなかった。
「祥ちゃん……」
富士川は、華音のその表情からすべてを読み取ったのか、心配そうに見つめてくる。
「黙っていてゴメンね。オーナーの赤城さんから正式に説明があってから、華音ちゃんには話そうと思っていたんだ」
「どうして……どうして鷹山さんがいなくなっちゃうの? どうして鷹山さんが」
途惑う華音を落ち着かせるように、富士川はそっと華音の頭を撫でさすった。
慈しむような優しい感触が、想いとなって華音を包み込んでいく。
「そのうち、帰ってくるよ。俺の楽器を預けたから、嫌でも必ず、返しに戻ってくるから」
「ホントに帰ってくる……かな」
「うん。いつか必ず――帰るべきときが来たら」
それがいつかは、分からない。
それでも。
必ず帰ってくると、目の前の男は言う。
嘘偽りのないまっすぐな富士川の言葉は、悲しみに打ちひしがれた華音の心を、わずかに癒していく。
赤城は自分の判断は間違っていなかったと確信したのか、富士川と華音のやり取りを満足気に眺めている。
そして。
楽団の未来に思いを馳せるように、赤城は激励の言葉を述べた。
「富士川君。これからは君の時代だ。私は引き続きオーナーとして、新しい芹沢交響楽団のさらなる発展を期待したい」
すると。
新しい音楽監督は、その心の内に秘めた確固たる思いを吐露するように、オーナーに応えた。
「分かっています――約束は守ります。『芹沢』の名と、この命にかけて、必ず」
奈落の章(了)
記憶の中の天使と悪魔 真辺 千緋呂 @manobe-chihiro
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