最後に君の名を(3)

 すでに赤城は、事務室内の応接セットに悠然と座って待機していた。


「お疲れ様です、赤城オーナー」


「炎天下の中、わざわざすまなかったな」


 いつになく殊勝な赤城の物言いに、華音はわずかに首を傾げてみせる。


「ホントですよ、もう。身体が溶けちゃうかと思いました。あ、何かお飲みになりますか? 私、用意してきますよ」


「もう準備してある。さっきそこのコーヒーショップでテイクアウトしてきた。君の分もある」


 赤城はテーブルの上に置かれた紙袋を指し示した。

 紙袋には、有名なカフェチェーンの派手なロゴが印字されている。中をのぞくと、ホイップクリームがたくさん載ったシャーベット状のドリンクがふたつ入っていた。

 いまの華音の、火照った身体にはちょうどいい。

 華音は紙袋の中から二つのドリンクを取り出すと、一つを赤城へ差し出し、もう一つをありがたくいただくことにした。いそいそと、赤城と向かい合うようにして腰掛ける。



 ストローでクリームを崩しながら、少しずつシャーベット状の液体をすする。ほろ苦く、そして甘い。キャラメルとナッツのトッピングが、ときどき口の中へ飛び込んでくる。

 数口飲んで、暑かった身体もだいぶ落ち着きを取り戻した。

 赤城も華音にならうようにして、普段は決して使わないストローを手に取り、慣れぬ手つきで操っている。


「いったいどうしたんですか? 話って?」


 華音は、黙ったままドリンクのクリームと格闘している大男に問いかけた。

 球は投げた。あとはひたすら返ってくるのを待つだけある。


 結局、クリームとの格闘をあきらめた赤城は、ドリンクのカップにストローを差したまま、放置してしまう。

 普段あまりこういったものを飲まないのだろうか――その様子を、華音は興味深く眺めていた。



 その時である。

 赤城はようやく意を決したように、ゆっくりと口を開いた。


「鷹山君は本日付で、芹響の音楽監督を退任した」


 ピクリ、と華音の身体が小さく反応した。

 驚きのあまり、おそるおそる赤城のほうへ顔を向けると――こちらの様子をうかがうようにしている赤城としっかり目が合った。


「た……退任? どういうことですか!?」


「誤解のないようにあらかじめ言っておくが、私が解雇したわけではない。鷹山君の自主退任だ」


「自主退任って、どうしてそんな……」


「そういうことで、当楽団の音楽監督の次期ポストは、富士川君となる」


「え……祥ちゃんがここへ戻ってくるんですか?」


「鷹山君の意向だ。富士川君と鷹山君が二人で話し合って決めたことだ。楽団員たちには先程すでに伝えた」


 華音はもう訳が分からず、赤城の顔を呆然と見つめるほかはなかった。

 富士川と鷹山が二人で話し合うことだけでも驚くことだが、芹響の今後についての取り決めが秘密裏に行われていたことを、華音はまったく知らされていなかったのである。


「鷹山君は、しばらくはヴァイオリンの演奏活動に専念するらしい。あの、兄弟子の宝物の楽器を奪っていったそうだから」


「え……嘘? だってあれは、祥ちゃんが命よりも大切にしている楽器なのに」


「音楽監督業務が忙しくて、富士川君にはしばらく使う時間がないだろうからね」


「そんな……それにしたって、祥ちゃんが一番大切にしてるものを使わなくたって、ヴァイオリンなら他にもあるのに。鷹山さん、もうそろそろ、実家からこっちへ帰ってきてるはずですよね? ちょっと芹沢邸に戻って鷹山さんと話してきま――」


「無駄だ」


 赤城は、華音の言葉を鋭く遮った。


「鷹山君は、今朝千歳から羽田へ戻って、そのまま直接、ウィーンへ向けて発った」


「い……ま……何て?」


「もう日本にはいない。古巣へ帰ったんだ」


「う……そ」


「嘘ではない。本当だ」



【君のそばにはいつも、僕がいるということを】



【忘れないで――――芹沢さん】




「いやああああああっ!」


「芹沢君! 落ち着くんだ!」


 赤城はとっさに立ち上がり、取り乱す華音をその胸にしっかりと抱きとめた。

 もがく華音の腕を、赤城は包み込むようにしてしっかりと押さえつけてくる。


「そんなの、そんなの絶対にいやあああああああっ!!」


 涙が次から次へとあふれ出し、嗚咽とともに赤城のスーツに染み込んでいく。


「何よ、勝手に現れて、勝手にいなくなって! こんなことなら、初めから私の目の前に現れなければよかったのに!」


「君の手を放してくれた鷹山君の気持ちも察してやれ」


 赤城は華音を抱きとめたまま、耳打ちするように諭してくる。


「そ……んな……」


「なにも死に別れたわけではない。確かにウィーンは近いとは言えないが、また会う機会もあるだろう」


 もう、訳が分からない。

 二人が築き上げてきた世界が、音もなく崩れていく。


「うう……ぐすっ」


「きちんと別れを告げなかったのは、君と富士川君のことを思ってのことだろう。私はそう考えているが」


「ひどい……本当にひどい……なんでこんな」


 あらがう力も、何もかも失ってしまった。

 もう、何も考えられない。

 赤城はようやく、華音を押さえつけていた腕を解放した。


「これで良かったのだ。一年前に、時間が戻った。たったそれだけのことだ」



 どこか遠くから、ざわめくような気配が近づいてくる。

 どうやら残っていた団員が、事務室の向かい側にある休憩スペースへとやってきたようだ。

 周囲に人がいないと気が緩んでいるのか、廊下中に響き渡るような大声で噂話に興じ始める。


 噂話の声の主は、華音もよく知っているヴィオラの安西青年と、おそらく彼と仲の良いオーボエの兵頭晴夫だ。

 兵頭は入団してから三年ほどの、比較的新しい団員である。

 若手ながらも、芹沢英輔~富士川祥の時代から、鷹山楽人~美濃部達朗の時代まで、どちらも経ている楽団員だ。


 事務室の扉は閉まっていたが、すぐ横の小窓は、換気のために十センチほど開いた状態だった。

 二人の噂話は丸聞こえである。

 事務室の中では、オーナーの赤城と華音が深刻な話をしているとは露知らず――若き団員二人は、嬉々とした笑い声を響かせている。



「鷹山監督、突然すぎじゃない? オーナーは円満な退任だって言ってたけど、ホントかね? 安西君、どう思う?」


「この間のチャイコンで、ヴァイオリン奏者としての血が再び騒ぎ出したんじゃないスか? あの怪演はさすがというか、ダテに芹沢先生の弟子を名乗ってるわけじゃないんだなって、感服しましたよねー」


「俺もそう思った。ウィーンにいた頃のことよく知らなかったんだけどさ、すげー、監督、こんなに弾けんじゃん! ってあの演奏の最中に思った」


「あ、分かるッス。『悪魔』は口ばかり達者なわけじゃなかったんだ、って最後の最後に見せつけられたという。ハハハ。あんだけ弾けたら奏者として引く手数多でしょー」


「まあ、その入れ替わりで今度は『鬼』が戻ってくるんだから、さらに気を引き締めないと……」


「新しい監督って、そんな怖いんスか? 俺、鷹山監督しか知らないから、あんまりピンと来ないんスけど」


「富士川さんは厳しいよ。安西君、覚悟しておかないと」


「マジですかー。怖いなぁ」


「富士川派の人たちは歓迎ムード一色だけどね、一人を除いてさ」


「あ、それって藤堂サンすか」


「そう。あんなに富士川さん寄りだったのに……なぁ、俺ちょっと気になってるんだけど、最近なんか藤堂女史、おかしいよね?」


「おかしいって、どうかしたんスか?」


「ひょっとして気づいてない? 顔色悪いし、最近練習も休みがちだし、あれって絶対……でも、藤堂女史に限って、まさか妊娠とかないよね?」


「え! ちょっ、相手は誰スか?」



 嘘。

 嘘。

 もの凄く、嫌な予感がする。



 赤城は勢いよくドアを開け、休憩スペースで談笑する若き楽団員に詰め寄った。華音も慌ててあとに続く。


「……君たち、今の話は本当か?」

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