最後に君の名を(2)
第一部のドヴォルザーク交響曲第9番は、最終楽章に入った。
もうすぐ出番を迎える。
鷹山と華音は連れだって、楽屋棟の四階からステージの舞台袖まで降りてきた。
華音は鷹山の精神集中の妨げにならないよう、舞台裏の隅に身を寄せるようにして、少し離れたところから様子をうかがった。
生演奏の迫力ある音が、身体のあちこちを震わせる。
やがて、第一部の演奏が終了すると、盛大な拍手が客席から沸き起こった。
拍手が収まると、二十分の休憩を挟む旨のアナウンスが場内に流れた。
ステージ上の照明が半分落とされ、次々に楽団員たちがいったん舞台袖へと引き上げてくる。
そして、ひときわ汗だくになって帰ってきた代役の指揮者の青年を、音楽監督は優雅な笑顔で迎えた。
「なかなかエキサイティングなドヴォルザークだったじゃないか、美濃部君!」
「からかわないでください! 必死だったので、もう何が何だか……」
「初めてであれだけ振れたら大したものだよ。さすがは芹響だ。予期せぬハプニングにめっぽう強い」
「鷹山監督のお陰で、みんなそこそこ免疫ついてますから」
普段の演奏会であれば、人によっては楽屋へ一度戻ったり、楽器の調整をしたり、水分を補給したりと、自由に行動してよいことになっている。
しかし今日は、誰一人として舞台裏から移動しようとしない。自然と、ヴァイオリンを携えた鷹山のもとへと集まってくる。
先程まで緊張の色を隠せずに、険しい表情を見せていたとは思えないほど、鷹山は穏やかに微笑んでいる。
「ああ。なんだかドキドキするなあ、僕」
大袈裟でどことなく芝居がかったように、持ち前の饒舌さを十二分に生かして、団員たちに朗々と語り出す。
「指揮者が指揮台の上にはいないけど、みんな僕の演奏を聴いてくれ。芹響と共演なんて、おそらく最初で最後だろうから、思う存分楽しませてもらうことにするよ」
誰一人、反応する者はいない。皆、不安なのだろう。
当然である。
ほとんどが、鷹山がヴァイオリンを手にしているのを初めて見る団員たちなのだから。
鷹山は団員たちの不安を払拭するように、どこまでも楽しそうに天使の笑顔を振りまいていく。
「みんな、そんな怖い顔をしないで。僕ね、このヴァイオリンの持ち主より、チャイコフスキーは上手に弾けるから、ホントに――本人どこかで聞いてないよね? あの『鬼』はすぐ怒るから……って、僕もか?」
鷹山の毒ある冗談に、あちこちから忍び笑いが漏れる。
あくまでも明るく楽観的な鷹山の姿に、取り囲んでいる団員たちの雰囲気が、徐々に前向きなものに変化していくのが、傍目の華音にもハッキリと分かった。
鷹山は、コンサートマスターの青年の方へと向き直った。
「美濃部君」
「はい! 鷹山監督のご武運を!」
鷹山は微笑んだまま、小さく首を横に振った。
そして、苦楽をともに乗り越えきた同志たちをぐるりと見渡すと、力強く頷いてみせた。
「僕一人じゃない。一蓮托生、君たちも道連れだ! よろしく頼む!」
鷹山は弓とアマティを左手に併せて持ち、右手を差し出す。
その鷹山の手を、美濃部はしっかりと握り返した。
華音はひとり、富士川の待つ客席に戻ってきた。
休憩時間は残り五分。もうじき第二部が始まるだろう。
富士川は、隣の席を華音のために開けておいてくれていた。促されるまま、隣へ着席する。
「予定通りにいきそう?」
「たぶん。鷹山さんも、美濃部さんたちも、もうなるようになれって感じかな。でも、雰囲気は良さそうだったよ」
富士川はどことなくホッとしたように、長いため息をひとつついた。
「それにしても羽賀のヤツ……相変わらずわがままでやりたい放題だな。あとで居所つかまえて説教だ」
「祥ちゃんのお説教なら、羽賀さんだったらら逆に喜んじゃいそうだけどね……」
富士川は、その華音の的確すぎる指摘を受けて、がくりと肩を落とした。
結局のところ、美しきつむじ風には誰もかなわないのだ、きっと――。
「しかし、同門の後輩として、あまりにも恥ずかしい。当日キャンセルするにしても、黙って姿を消すことなんかないだろう?」
「祥ちゃんにね、代わりに弾いて欲しかったんだと思う」
「たぶんそうだろうな。だからあんなこと言って、俺に楽器を持ってこさせたんだろう。だからってそんな簡単に――」
「祥ちゃんには芹沢の名が似合うって、羽賀さん、そう言ってたよ」
華音がそう告げると、富士川の眼鏡の奥の両瞳は、驚いたようにゆっくりと見開かれた。
そこに怒りの感情は、既にない。
華音はさらに続けた。
「羽賀さんだけじゃない。同じことを思っている芹響の団員さんたちもたくさんいる。さっき祥ちゃんがみんなの前に一年ぶりに現れたときの反応……あれがすべてだと思う」
【富士川さん! 富士川さんだ!】
【弾いてくださるんですか?】
やがて、富士川青年は憑き物が落ちたように、座席の背もたれに深々と身体を預け直し、ホールの天井を仰いだ。
敬愛する師が帰らぬ人となり、音楽を続ける意味を見出せずに芹響を退団して、早一年の月日が経とうとしている。
「祥ちゃん――」
「うん? どうしたの?」
「鷹山さんのこと、助けてくれてありがとう」
「俺は別に、そんなつもりじゃ――」
「ホントに、どうもありがとう」
「華音ちゃん……いや、礼を言うのはこっちのほうだ」
いろいろなことが、ありすぎたのだ。
たった一年ほどの間に、本当にいろいろな出来事が起こり、富士川青年と華音の二人を取り巻く環境を、大きく大きく変えてしまった。
「華音ちゃんたちが頑張った。美濃部も、そして藤堂も……。赤城という人も結果として手を組んで間違いはなかったわけだし、それになんといっても――」
富士川はひと呼吸置いて、華音にその胸の内を告げた。
「鷹山が頑張ってくれたお陰で、ここまでこれた。芹響は素晴らしい楽団だ。本当に!」
休憩時間の終了を告げるベルが、ホール内に響き渡った。
客席の照明が徐々に落とされ、やがて足元の非常灯の明かりだけとなる。
すると。
盛大な拍手に促されるようにして、飴色のヴァイオリンを抱えた美貌の悪魔が姿を現した。
やがて、針を落とす音が聞こえてしまうほどの静寂が、悠然とホールに満ちていく。
音楽の女神が、ステージ上へ舞い降りてくる。
そして『芹沢楽人』は、兄弟子のヴァイオリンを構えると、空白の十五年に思いを馳せるように、ゆっくりとその大きな両瞳を閉じた。
【3幕 奈落の章】 16-2.最後に君の名を
一週間後――。
蒼蒼とした木々の緑が眩しい、初夏から盛夏へと移り行こうとする季節を迎えた。
定期演奏会が終わってから、本拠地ホールは平穏を取り戻しつつあった。
音楽監督の鷹山が、一週間ほどのまとまった休暇を取ったことが、その一因だ。
休暇の理由は、演奏会に訪れた養父と一緒に、急遽富良野の実家への里帰りを決めたからである。
そのため、華音も演奏会の夜以来、鷹山とは顔を合わせていなかった。
今日は午前中に、オーナーの赤城が本拠地ホールを訪れる予定となっていた。
珍しく、赤城オーナーを交えての楽団の運営に関する打ち合わせがあると、華音はそう美濃部から聞かされていた。
音楽監督の鷹山が不在であるため、打ち合わせといっても、RAMPの体制のこととか、より運営の現場に関することなのだろう――華音はそう勝手に決め込んでいた。
正午近くになって、華音はオーナーの赤城から、本拠地ホールまで来るよう連絡を受けた。
同居する富士川も、朝から行先も告げずに出かけてしまって、華音はマンションにひとり取り残された状態だった。そのため、赤城オーナーからの要請は、暇つぶしにちょうど良かった。
華音は、富士川が作っておいてくれていたエビピラフをレンジで温め、簡単に昼食を済ませると、赤城に指定された午後二時に間に合うようにマンションを出て、本拠地ホールへと向かった。
照り付ける太陽の光が、容赦なく突き刺さってくる。
無風だ。
膝丈のスカートは風になびくことなく、じっとりとまとわりついてくる。
炎天下に徒歩で移動したのは無謀だった――そう華音が後悔し始めたときには、すでに本拠にホールのレンガの外壁が望めるところまで、たどり着いていた。
本拠地ホール内は閑散としていた。午前中に打ち合わせが行われていたため、建物内のどこかには楽団員たちが残っているはずだったが、エントランス付近には誰も見当たらない。
壁掛け時計は、午後一時五十五分を指している。もうすぐ約束の時刻だ。
華音は急ぎ足で、赤城の待つ事務管理室へと向かった。
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