最後に君の名を(1)

 華音は音楽監督室へ向かって、ひたすら階段を駆け上がった。


 その途中で、開演五分前を知らせる1ベルの「トランペット・ヴォランタリー」が、予定どおりの時刻をもって、本拠地ホール建物内に響き渡った。


 このような不測の事態にも関わらず、美濃部はタイムスケジュールどおりの進行をしてみせている。

 その采配の手腕に、華音は思わず感心した。


 ――頼りなさそうでいて、ここぞという時の機械的な仕事ぶりは、さすが美濃部さん。



 速度を緩めることなく階段を駆け上がり続け、華音はやっとの思いで四階までたどり着いた。弾んだ息をなんとか落ち着かせようと、何度も大きく深呼吸を繰り返す。


 当然のことだが、廊下に人影はない。陣中見舞いに訪れた来客も、すでにホールの客席に移動してしまったようだ。

 そのため、不用心にも音楽監督室の扉は大きく開け放たれていた。

 華音は形だけのノックをして、部屋の主の返事を待たずに、室内へと進んだ。



 部屋の中は、いつにもまして雑然と散らかっていた。

 片付ける人が側にいないと部屋がすぐ散らかるとは本人も認めていたが、華音に代わってアシスタント業務を行っているあかりでは、身の回りの世話まではさすがに行き届いていない。華音と違って、あかりには副主席としての仕事もあるため、鷹山本人がそこまでやる必要はないと、あかりに配慮しているためだろう。



 鷹山は、慌ただしく身に着けていた正装の上着を脱ぎ、乱暴にソファの背もたれに放り投げた。そして、ようやく現れた華音に向かって、ここぞとばかりに、矢継ぎ早に指示を飛ばしてくる。


「ネクタイ、小さい方に付け替える。あと衣装の上着、一番軽いのにして。さすがにこのまま正装じゃ、演奏しづらいから」


 懐かしく、そして愛しい。

 こうやって鷹山の側で御用聞きができることは、華音にとってかけがえのない至福の時間である。

 彼に必要とされている充足感が、華音の渇ききった心を隅々まで潤していく。


 華音は鷹山に言われるがまま、衣装用のクローゼットを開け、指示通りのものを見繕った。

 ここひと月余りの間に使用された形跡のあるものは、まったく整頓されておらず、雑然と掛けられている状態だった。

 しかし、中身はだいたい把握している。一つ一つ確認して、目的のものをピックアップするだけだ。


 華音は小規模の演奏会で使用する、伸縮素材で仕立てた衣装を選んだ。普段から演奏する楽団員たちが着用している礼装と変わらない、煌びやかな装飾のないシンプルなデザインだ。


 上着と蝶ネクタイを差し出しながら、華音はおそるおそる尋ねた。


「あの……本当に大丈夫なの? 鷹山さん、ソロなんて出来るの?」


「まったく、君って人は……僕を誰だと思ってるんだ?」


 華音の言葉が心外だったのか、鷹山はどこか呆れたようにして肩をすくめてみせる。


「だって、腕の傷……治ってないんでしょ?」


 そう。

 華音の心配は、『その曲が弾けるのか』ではなく、『その腕の状態で弾けるのか』なのである。

 その心配に対する答えを、鷹山はさらりと告げた。


「僕の腕なんかどうなったっていい。少しくらい音を外しても、最後までなんとかもってくれれば、それでいいから」


 華音の心は不安で一杯になった。

 やってみなければ分からない――確かにそうなのであるが、一か八かとという可能性五分五分の話ではない。


 成功するのか。はたまた失敗するのか。

 最後まで弾けるのか、途中で演奏を中断することになってしまうのか。


 すぐ先の未来のことなのに、濃霧に包まれたように見通すことができないのである。



 華音が不安な心の内を隠せずにいると、鷹山はいつになく神妙な面持ちになった。そして、じっと華音を見つめてくる。

 何を言われるのだろう――華音は、つかず離れずの距離を保ったまま、じっとこちらを見つめ続ける鷹山の言葉を、ひたすら待った。

 すると。

 綺麗な顔をした悪魔の優しい声が、華音のすべてを包み込んでいく。


「君がさっき、真琴さんのことでみんなから責められているのを、とても見ていられなかったんだ」


「鷹山さん……」


「君を助けないと――って、とっさに志願の言葉が口をついて出た。もちろん富士川さんに突然の代役は無理だ、って思ってたのもあるけど」


 そう口早に説明をして、鷹山は華音が差し出していた新しい上着と蝶ネクタイを受け取った。黙ったまま上着に袖を通し、それまで付けていた蝶ネクタイをはぎ取るようにして外すと、空いた華音の手のひらの上にそれを押しつけるようにして置いた。

 彼の緊張が、わずかに触れた手と手の感触から伝わってくる。


 鷹山は自分で新しい蝶ネクタイを付け終えると、監督専用の机の上に恭しく置かれたヴァイオリンケースに手をかけ、ひと呼吸置き、慎重に開いた。

 中から、思わずため息が漏れてしまうほど、美しい飴色のボディが姿を現した。


 すべてが詰まっている。

 一番弟子の気概とプライド、そしてどこまでも繊細なその響き。寵愛と恩義。芹沢の血を引くものへのゆるぎなき愛情。


 それを、今。

 鷹山は兄弟子から、確かに受け取ったのである。


「音楽の神様が、僕に弾けと言ってる。今宵限り、僕は『芹沢楽人』に戻る」


 芹沢の血の、なせる業を――。



「ねえ、華音」


 その耳慣れない響きに、華音の心臓の鼓動はトクンと大きく脈打った。

 『芹沢楽人』が、初めて自分の名を呼んだ。

 その慈しむような優しい眼差しは、驚く華音の顔に真っ直ぐと向けられている。


「君のその名前はね、僕が考えたんだよ」


 二人の運命を狂わせた十五年の永き時間が、一瞬にして巻き戻っていく。


「子供ながらに僕が懸命に考えて、お父さんがそれに漢字を当ててくれた。『華やかな音楽が、いつもともにありますように』って」


 ――あ……さっき、鷹山さんの養父さんが言ってた言葉。



【ということは……お前はいま、幸せなんだな】


 あの時。

 鷹山の虚勢全開の硬い表情が、養父の言葉で一瞬にして崩れた、その理由は――。




「君は華音、僕は楽人。二人揃って一つの『音』『楽』になる、って」


 二人揃って、一つの音楽に――。


 それが、今は亡き父・芹沢卓人の、子供たちの名前に込められた願いなのだと、目の前の『芹沢楽人』は言う。


「だから、君のそばには、いつも僕がいるということを忘れないで――――芹沢さん」



 分かっている。

 もう、後戻りできないのだ。


 普通の兄妹がそうするように、当たり前のようにお互いの名前を呼ぶことすら、自分たちはもうできない。


「言いたかったのはそれだけだよ。もう、戻ってもいいよ、富士川さんのところへ」


「いいえ。ちゃんと舞台袖までお見送りします」


「大丈夫だよ、ひとりで行ける」


「私は音楽監督の専属アシスタントです。演奏が始まるまで、側にいます」


「本当に大丈夫だから」


「集中力を妨げるようなことはしません。どんなことがあっても、側にいます」


 天の邪鬼な彼の性格は、誰よりも分かっている。

 鷹山はもう、拒まなかった。


「じゃあ芹沢さん、お願いがあるんだけど」


「何ですか?」


「コーヒー、淹れてくれないか?」


 その懐かしい言葉に、華音は思わず顔を綻ばせてしまう。

 すでに精神集中を始めて黙って背中を向けた鷹山に、華音は喜んで応えた。


「はい、今すぐに」

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