今宵の奇跡に(3)

 楽屋棟へと続く廊下のほうから、凛とした低音が響き渡った。

 紛糾する仄暗い楽屋裏へ姿を現したのは、華音が今まさに報告に行こうとしていた、良く見知った身なりの整った大男だった。

 その後ろには、秘書のような佇まいのスラリとした青年が付いてきている。


 二人は、音楽監督の判断に口を挟まぬよう、少し前からつかず離れずの場所で、こちらの様子をうかがっていたらしい。

 もちろん、後ろへ控えるようにして立っていたのは、芹響の元・コンサートマスターの、富士川祥だった。


「オーナー、それに富士川さん!!」


 美濃部がそう声を上げたのをきっかけに、そこにいた首席陣たちはいっせいにわき立った。


「富士川さん!」


「富士川さんだ!」


 場の空気が一変したのを、華音は感じた。

 もちろんそれは、招かれざるものに対する拒否感ではなく、救世主が現れた安堵感のような、どこまでも懐かしい雰囲気に包まれている。


 富士川は、華音に見せたことのないような厳しい顔をして、旧知の楽団員を静かに見渡した。


「一年ぶりだな、みんな。久しぶりだ」


「弾いてくださるんですか?」


 チェロ首席の男の言葉に、富士川は硬い表情を崩さず、静かに首を横に振った。


「いや、ソロなんてそんな簡単にできるものじゃないよ」


 そう言って富士川は、輪の中心へと進み出た。

 華音は緊迫した空気に声も出せず、固唾を飲んで見守った。見守るほかはなかった。


「鷹山――」


 富士川は、肩から提げていたヴァイオリンケースを、鷹山が腕を伸ばせば受け取れるぎりぎりのところへ差し出した。


「お前が弾くなら、これを使え」


 取り囲んでいる首席陣が静まり返った。

 鷹山はじっと、差し出されたヴァイオリンケースを凝視している。


「あなたのヴァイオリンを、ですか? ……それはできません、お断りします」


 鷹山は冷徹な表情を崩さず、なんのてらいもなく拒否の態度を示した。

 やはり、というか、しかし――。

 あかりは深々とため息をつきつつ、何とか鷹山を説き伏せようと試みた。


「この期に及んで、まだそんなことを言うんですか? いまは意地を張っている場合では――」




「違うの、藤堂さん! 祥ちゃんも鷹山さんも!」




 華音はもう、自分自身が抑えきれなくなっていた。

 勝手に身体が動き出し、次から次へと、思いが言葉となってあふれ出していく。


「あのね祥ちゃん、鷹山さんはね、祥ちゃんがそのヴァイオリンをどんなに大切にしているのか知っているから、『借りたくない』じゃなくて『借りられない』って言ってるの!」


 華音は幼い頃からそうしてきたように、真っ直ぐに富士川を見つめた。


 そして背後を振り返る。この世で唯一無二の存在を――。


「鷹山さん、それでも……それでも祥ちゃんは鷹山さんに、自分のヴァイオリンを貸すって、そう言ってるのよ?」



 崩れていく。

 

 お互い目と目を合わせ数秒――しかしその時間は、永遠にも等しい。



 鷹山は観念したように長い長いため息をつき、自身の愛器を差し出している兄弟子に問いかけた。


「……本気ですか?」


「ああ」


 返事はたったのひと言だった。

 嘘偽りのない思いを、その短い言葉からすべて読み取り、そして――。


「では、あなたのヴァイオリンをお借りします」


 そう言って鷹山が兄弟子の差し出すヴァイオリンケースに手をかけると、富士川はゆっくりとその手を離した。




 もう、迷う時間は残されていない。音楽監督は次々に決断し、采配を振るっていく。


「申し訳ないが、急遽プログラム順を入れ替える」


 首席陣は、音楽監督のまくし立てるような指示に、黙って耳を傾ける。


「第一部に予定していたチャイコンは後半の第二部に回す。ドヴォルザークが先だ。美濃部君、僕に代わって君が第一部を振ってくれ」


「え……ち、ちょっと監督、真面目に言ってますそれ!?」


 いつになく唖然とした表情を見せるコンサートマスターに、音楽監督は一瞬、ふざけたような笑みを浮かべる。


「文句は真琴さんに言ってね。準備に少しかかりそうだから、時間を稼いでほしい。頼む」


「うーん、期待に沿えるかどうか分かりませんが、やるだけやってみます」


 美濃部はもうなるようにしかならないと腹を括ったようだ。


「藤堂さん、美濃部君の代わりに首席を務めてくれ。君ならできる」


「……はい、お任せください」


 あかりはもう何を言っても無駄だと悟っているのか、それでもなんとか前向きに支えようと、意外にも笑顔で応じた。


「赤城オーナー、プログラム順の変更とソロの交代を運営チームに伝えて、臨機応変に対処願います」


「了解だ。すぐに手配しよう」


 赤城はお安い御用とばかりに、すぐに携帯電話を胸ポケットから取り出した。


 個々がとるべき行動を見出し、緊急招集されていた首席陣はそれぞれ散っていく。待機している一般の楽団員たちへの伝達はこれからだ。立ち止まることは許されない。



 舞台裏には、鷹山と富士川と華音の三人だけが残された。


「――芹沢さん」


 鷹山は意味ありげに富士川に目配せをした。

 そして感情をすべて押し殺したような無機質な声で、淡々と告げる。


「君は僕と一緒に、監督室まで来てくれ」


 それだけ言うと、鷹山は華音の返事を待たずに踵を返して、富士川のヴァイオリンケースを携えて、楽屋棟のほうへと早足で立ち去ってしまった。



 華音は鷹山の背中を見送ったまま、途惑いを隠せずに、その場に立ちすくんでいた。

 すると。

 富士川は先程までの仕事モードの厳しい顔つきから一転して、柔らかな笑顔を華音にみせた。


「華音ちゃん、行っておいで。鷹山のところへ」


「でも……」


「俺は客席で待ってるから」


 眼鏡の奥の切れ長の両瞳が、穏やかに緩む。

 その慈しむような富士川青年の優しい眼差しに、華音は微笑みで応えた。


「ありがとう、祥ちゃん。行ってきます」


「うん。行ってらっしゃい」


 富士川青年は勇気づけるように、華音の背中を優しく押した。




 華音は薄暗い楽屋裏から出て、煌々と灯りに照らされた楽屋棟へ続く廊下を、鷹山を追いかけひた走った。

 目指すは、楽屋棟四階の音楽監督室である。


 リノリウム張りの光沢のある床で足を滑らせてしまわないよう注意を払いながら、無作法構わず、勢いよく廊下を駆け抜けていく。

 そして、楽屋棟四階へと続く階段の手前に差し掛かったときである。

 華音は急いでいた足を止め、思わず立ち止まった。


 なんとオーナーの赤城が、華音の行く手を阻むようにして立ちはだかり、待ち受けていたからである。


 この状況で、鷹山と二人きりになることを咎めてくるのか――華音は大男を見上げ、わずかに怯んだ。

 すると。

 意外にも、赤城は微かに目元を緩ませ、どこか感慨深げにゆっくりと頷いてみせた。


「見事だった。君が君自身の手で、二人を引き寄せたな」


「赤城オーナー……」


 そう、それはオーナーの赤城麗児が、当初から描いていた『理想のあり方』。


「本当に、よくやったな」


 ときに強引。ときに冷血。そして、ときに粋な計らいをする、戦国武将のような男。

 何もできなかった自分を、適度な距離を保ちつつここまで見守り助けてくれていたのは、他の誰でもない――この大男なのである。


 雇用主であり、支援者であり、同志であり、父であり、ときに騎士として護ってくれる、かけがえのない圧倒的存在感を持った男。

 華音は赤城の顔をしっかりとらえ、楽団の未来の展望に思いを馳せるようにして、力強く頷いた。 


「まだ、終わってませんよ。これからです、オーナー!」


「ああ。奇跡的な夜になりそうだ。さあ、行ってきたまえ」


 その言葉を合図に、華音は赤城の脇をすり抜けて、鷹山の待つ音楽監督室へと向けて、猛然と階段を駆け上がり始めた。

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