今宵の奇跡に(2)
その時である。
「あの、私……さっきロビーで、富士川さんを見かけたんですけど」
美濃部青年が、呟くように言った。
「しかも、ヴァイオリンケースを持ってました」
周囲から、再びどよめきの声が上がった。
考えも及ばなかった新たな選択肢が、突然目の前に現れたのである。
「確かに富士川さんなら、弾けるよな……おととしの定演でソロやってるんだし」
「奇跡的じゃない? 偶然ヴァイオリンを持ち合わせてるなんて」
「もうそれしかないでしょ! もう、他に手はない」
すぐ後ろで首席陣のやりとりを聞いていた華音は、どことなく妙な話の流れに、漠然とした違和感を覚えていた。
そう、それは実に単純な疑問。
そもそも何故、富士川青年が今夜ここへ、わざわざヴァイオリンを持参したのか――。
それはいま、『失踪』という問題を起こしている張本人が、直接富士川青年に頼んで持ってきてもらうよう頼んだものなのである。
【何とかしてあげようか?】
突如、華音の脳裏に羽賀真琴の台詞が蘇ってきた。
【きっかけなんてね、ほんの些細なことだったりするんだよ】
華音はようやく、この騒動の真意にたどり着いたのである。
「信じられない……なんで……なんでこんな」
練習に付き合って欲しいからと言って、富士川に今夜の演奏会に楽器を持ってこさせたのは、このためだったのだ。
弟子の順番なんてこの際考えないで、音楽監督とコンサートマスターという関係に収まればいいと、涼しげな顔をして微笑む『魔性の女』。
【祥先輩は、芹沢の名が似合うよ】
――そんなの駄目。鷹山さんが困る、絶対に。
それまで後ろに控えていた華音は、前に大きく進み出た。そして、首席陣の話し合いの輪に半ば強引に割って入り、ゆっくりと大人たちの顔を見渡した。
「皆さん、祥ちゃんに代役は――頼みません」
迷うことなく言い切る華音に、大人たちの視線がすべて集中した。
部外者が何を言い出すのだ、というどことなく冷めた眼光の数々が、容赦なく突き刺さってくる
「じゃあ、どうするの? 今から演目変更しろって?」
チェロ首席のベテラン団員は、小さな子供を諭すように、幾分柔らかな口調で聞き返してくる。
軽くあしらわれている――華音はそう感じたが、今はそれに怯んでいる場合ではない。
すでに一年近くもの間、高校生でアルバイトという立場ながらも、音楽監督を始めとする楽団員たちと苦楽を共にしてきたのである。
迷うことなんて、何もない。
華音はしっかりと前を見据え、負けずに言い返した。
「合わせの練習もしていないソリストと協奏曲なんて、無謀です!」
「でも……富士川さんですよ? 誰よりもうちの音楽を知っている人だ。合わせること、出来ますよ!」
すぐそばでやり取りを聞いているあかりの表情は、なぜか冴えない。
一年前、師の芹沢英輔が不帰の人となったあの夜、無理強いして代役を押しつけて、富士川を失意に追いやったことを思い出したためだろう。
またも、代役。それも開演までもう十分を切っている。
とにかく時間がないのである。
あかりは、富士川祥のソロ代役を進言する複数の意見に対し首を横に振り、華音を援護するべく口を開いた。
「華音さんの言うとおりです。中には富士川さんの音楽を知らない団員の方だっていらっしゃいます。そんな簡単に合わせられないでしょう?」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ、この状況で!」
「そもそも羽賀さんがいなくなったのだって、華音さんとのいざこざが原因なんじゃないの?」
若き首席たちのいら立ちの矛先が、いっせいに華音へと向けられた。
「そ……それは、分かりませんけど」
もう、弱々しく消え入るような声で返事をするのが精一杯だった。
事態は収拾がつくどころか、悪化の一途をたどっている。
――どうしよう、このままじゃ……。
すると。
それまで黙って首席陣のやり取りを眺めていた音楽監督は、皆の言い争いを制するように、右手を軽く挙げた。
一瞬にして、辺りは静まり返る。
鷹山が発したのは、たったのひと言。
「僕が――弾こう」
舞台袖は静まり返ったまま、誰ひとり、口を開こうとしない。
その場にいた人間すべてが、自分の耳を疑い、キツネにつままれたような表情で固まっている。
恐る恐る、コンサートマスターの美濃部が音楽監督に尋ねた。
「あのー、…………弾くって、何をですか?」
「僕が羽賀真琴の代わりに、ソロを務める」
鷹山が迷いなく言い切った。
首席陣は茫然と立ちすくんだまま、誰ひとり言葉を発しようとしない。
何が起こったのか理解するのに、相当な時間を要している。
もちろん、華音も同じだ。
「う…………嘘!? だ……だって……」
鷹山は大きく透き通った両瞳で、華音の続く言葉を制した。
「でも、ヴァイオリン……どうしようかな」
そう呟く鷹山に、美濃部は持ち前の適応力を発揮して、すかさず提案する。
「監督のストラディバリウスは芹沢邸ですか? 私、取りに行ってきます!」
「コンサートマスターがこの場を離れてどうするの? それに今からでは間に合いません」
あかりはため息混じりに、無鉄砲なコンサートマスターを諫めた。
そもそも、時間の問題だけではないのである。
あかりはちらりと華音に目配せした。
あの事件の夜のままだとすれば――ストラディバリウスには鷹山の血痕が付着したままだ。
とても人前に出せる状態ではないことは、華音にも想像がついた。
「監督……あのヴァイオリンは、ちょっと」
あかりは困ったような表情で、周囲に聞こえないように鷹山の耳に唇を寄せ、囁くように言った。
鷹山は素直に頷いて、不自然なほどに親密さを醸し出しつつ、素早くあかりの耳元へ囁き返す。
「分かってる。英輔先生、他に何を持ってたかな……先生の所蔵している楽器はすべて芹沢邸からホールの保管庫へ移したから、確認してみるか……まあ、いずれにしても保管庫に入れっぱなしで、長いこと弾いてないことには変わりないけど」
「私の楽器で良ければ……ソロ向きではないですけど」
一方の若い首席たちは、いまだ半信半疑の様子で、あれやこれやと好き勝手な意見を交わしている。
「監督が弾くって…………それって可能なんですか?」
「大丈夫なんですかねぇ……さすがに不安しかないんですけど」
「とりあえず富士川さんに聞くだけ聞いてみたほうが……」
大人たちの意見は、一向にまとまる気配をみせない。
鷹山が、代役を務めるのか。
富士川に、代役を要請するのか。
華音はもうどうしてよいのか分からなくなっていた。
もう、時間がない。
華音は首席陣の最終的な判断を待たずに、オーナーの赤城の元へと報告に戻ろうとした。
その時である。
「君たちのおおよその話は聞かせてもらったよ。ならば話は簡単だ!」
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