今宵の奇跡に(1)
目的の人物は、先程までくつろいでいた事務室を出て、開場が始まったばかりの入場受付の近くに悠然と佇んでいた。
来賓への挨拶のために、念のため待機しているのだろう。しかし、暇を持て余しているらしく、パンフレットを手渡す受付スタッフの仕事ぶりをさりげなくチェックしながら、一歩退いたところで高みの見物を決め込んでいる。
華音は、美濃部とほぼ同時に、赤城のもとへとたどり着くことが出来た。
全力疾走のお陰で、心臓が飛び出さんばかりに脈打ち、酸素の補給が追いつかない。
しかし、悠長に呼吸を整えている時間はない。
華音は、仁王立ちしている大男の仕立てのいいスーツの上着の背をしわがつくほどに強引につかみ、そのままロビーの隅まで引っ張っていった。
赤城は状況を把握しきれないのか、呆気にとられたような顔で、華音と美濃部を交互に見つめている。
美濃部青年は完全に取り乱しながらも、持ち前の理路整然とした口調で、オーナーの赤城にひと通り状況を説明した。
「……なんだって? 羽賀氏が、いなくなっただと?」
一報を聞き、赤城は眉をひそめた。
赤城は腕組みをして、黙ったままその説明に耳を傾けていたが、やがて理解できないといった表情で、ウウムと唸り声を上げる。
「荷物がなくなっているということは、事故や事件ではなく、故意であるということか。連絡が取れないということも、そのことを裏付けているといっていいだろう」
「故意って……嘘でしょそんな。なんで羽賀さんがそんな……」
華音は、昨夜真琴と一緒に食事をした時のことを思い出した。
お酒の力もあって、富士川青年に対してときめきオーラ全開ではしゃぎまくっていた姿は、いまだ記憶に新しい。
しかもその時に、演奏会が終わった後にリハーサル室を借りて、富士川に練習をつけてもらうという約束までしていたのである。
故意に失踪する理由が、華音には全く思い浮かばない。
時間は刻一刻と迫っている。
「美濃部さん! 美濃部さん!」
どこか遠くから、叫ぶような女性の声が聞こえてきた。
ロビーにあふれる観客の人波をかき分けるようにして、演奏用の黒いサテンのロングドレスに身を包んだ藤堂あかりが、ヒールの音を高鳴らせて、華音たちのところへ向かって駆けてくるのが見えた。
おそらく音楽監督から事情を聞かされて、事態の深刻さを把握したのだろう。あかりは必死の形相で、息を弾ませながら近づいてくる。
「美濃部さん! 緊急ミーティングを行うそうですので、急いで上手側の舞台袖までお願いします!」
「分かった。今すぐ向かうよ! あ……あれ?」
踵を返しかけた美濃部青年の動きが止まった。一点を凝視し、瞳を数度瞬かせている。
華音がその美濃部の視線の先を辿っていくと――受付を通り過ぎ、パンフレットを片手にして、二階席へと向かうロビーの大階段の前に、眼鏡をかけた細身の男の姿があった。
今朝の今朝まで一緒にいた、華音がよく見知った人物である。
「富士川さんだ! 富士川さん!」
美濃部青年の大声に、富士川はこちらを振り返った。その肩にはヴァイオリンケースを提げている。昨夜の会食で話していた、一緒に練習がしたいという後輩の要請を受け、律儀に持参してきたようだ。
「祥ちゃん!」
華音は片手を挙げて合図した。すると富士川はすぐに気づき、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
美濃部もあかりも、驚きを隠しきれずに、その場で固まってしまっている。オーナーの赤城だけは、意味ありげに軽く会釈をしてみせている。
やがて、言葉を交わせる距離まで近づくと、富士川青年は困ったような笑みを浮かべた。
「みんな、そんな怖い顔をしないでくれ。羽賀は俺の後輩なんだよ。ソロやるならぜひ聴かせてもらおうと思って。ちゃんと客席で大人しくしてるから」
「怖い顔って……あ、いや、富士川さんが聴きに来てくれたことはもちろん歓迎です。ただ、今ちょっと取り込んでいまして、すみません」
「富士川さん、ありがとうございます。あとで改めてご挨拶に伺います。さあ行きましょう、美濃部さん!」
あかりは美濃部を促し、連れ立って、舞台袖に続く防音扉へ向かって駆け出していく。
その二人の慌ただしい靴音は、観客があふれゆくロビーの喧噪にかき消された。
音楽監督の招集がかかった若き楽団員たちの背中を見送ると、オーナーの赤城はにわかに厳しい顔つきになった。
ちらりとエントランスの壁掛け時計に目をやり、やがて、迷いを払拭するように、力強い眼差しをしっかりと華音の顔に向けてくる。
「芹沢君、捜索はこちらにいったん任せて、君も一緒に鷹山君の判断を聞いてきたまえ。富士川君には、私から事情を説明しておこう」
華音はうなずいた。
すでに、ホール内の客席は半分以上埋まってしまっている。
迷っている時間はないのである。
「分かりました。ごめんなさい、祥ちゃんまたあとでね!」
「え? あ、ああ……分かった」
富士川青年は目まぐるしい状況の変化についていけず、呆気にとられたような返事する。華音はそれを、踵を返した背中で受けとめた。
舞台袖には、すでに正装に着替えた鷹山の姿があった。
ステージ上のライトはまだ落とされた状態のため、反響版の裏手は仄暗い。舞台装置を操作する一角の照明が、わずかにあたりを照らしているだけだ。
コンサートマスターの美濃部、ヴァイオリン副主席の藤堂あかりが、それぞれ音楽監督である鷹山の両脇に立つ。程なくして、続々とヴィオラ、チェロ、木管、金管、各セクションの首席が、舞台袖へと集まってきた。
皆すでに衣装に着替えており、小気味の良い革靴の音を辺りに響き渡らせている。
華音は緊急招集の邪魔にならないよう、少し離れた場所から様子をうかがうことにした。
鷹山は集まってきた首席たちを、自分の周りを取り囲むように並ばせた。
「時間が無いので単刀直入に言う。第1部ソロの羽賀がどうやら失踪したらしい」
美濃部とあかり以外の首席陣が、いっせいにどよめきの声を上げた。
前代未聞の非常事態である。
開演前まで間もないこのタイミングで、何故自分達がわざわざ呼び出されたのか、ようやく理解できたらしい。
「失踪……って、そんなことありますかね?」
チェロの首席を務める初老の男が、おずおずと言う。
誰一人、肯定も否定もしない。お互い顔を見合わせて首を傾げるばかりだ。
当然である。
つい先程行われていた直前リハーサルまで、何事もなく、いい雰囲気で演奏をしていたのだから。
鷹山は沈黙したまま、動かない。
美濃部は舞台袖の壁に設置されたLED発光のデジタル時計に視線をやり、渋い表情をした。
「もう一度、建物内を手分けして探してみましょうか?」
あと十分もすれば、開演五分前を知らせる1ベルの『トランペット・ヴォランタリー』が、場内へ流れることだろう。
一縷の望みをかけてコンサートマスターの美濃部が提案するも、首席陣の反応は芳しくない。
「は? いまさら捜してどうする?」
「そうだ、そんな途中で投げ出して逃げたやつなんかと、一緒に演奏したくないですよ」
比較的若い首席たちから、次々に批判めいた意見が出される。
なおも鷹山は黙ったままだ。
考え事をしているのか、身じろぎもせず一点を凝視したまま、西洋人形のように綺麗な顔を固まらせている。
「羽賀先輩が裏切ったと決まったわけではないでしょう? ……少なくとも、初めからキャンセルするつもりで、ソロの仕事を受けたのではないと思います」
あかりが若い首席たちの軽率な発言を諌めると、緊迫した舞台袖は一瞬にして静まり返った。
ようやく、鷹山が顔を上げた。
そして、取り囲む首席たちの顔を、一人ずつ目で追ってゆく。鷹山の瞳には、動揺や迷いは見られない。あくまで冷たくそして強く、真摯な眼差しである。
「みんな聞いてくれ」
すべての視線は鷹山へと注がれる。
「羽賀真琴がどんな理由で失踪したにせよ、今それを考えている時間はない。我々の使命は本日の演奏会に最善を尽くすことだ」
鷹山の凛とした声だけが、舞台袖のほの暗い空間に響く。
ごくりと、誰かが唾を飲み込む音がした。
「我々の、最善の選択を――――」
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